第72話:病院での治療と検査
ゆっくりと意識が覚醒する、その狭間に一瞬、鉄心は一つの光景を見た。九層のあの最奥、ナイトメアの変異種、岩壁のヒビ、その向こう側に懐かしい気配。繭のような大きな塊。
「……っ」
完全に覚醒してしまった。まだあれが何か確かめられていないのに。起きた時に手を伸ばしながら床を強く踏み鳴らしたようで、廊下を通る患者や看護師が驚いた目で鉄心を見ていた。ううん、と咳払いすると、恥ずかしさを誤魔化すように視線を落とした。
彼が着ている薄手の検査着の上をエアコンの暖風が撫でていく。見上げると、天井に送風口があり、直撃の位置だ。これが心地よく、魔界帰りの疲れた体が眠りへといざなわれたらしい。やがて看護師らも歩き去り、ソファーに座る鉄心の周りには誰も居なくなった。
(懐かしい夢を見たなあ。長谷くん……元気してるだろうか)
ちなみにあの後、長谷はしばらくの間、鉄心の勧めで空手道場に通った。流石に鉄心が普段世話になっている平良の道場は何かと秘密が多いので無理だったが、一般の信用の置ける師範を善治が紹介したのだった。それから一年ほどすると長谷はまた親の転勤の都合で去って行ったが、道場で揉まれたおかげか、お別れの頃にはシャンと背筋が伸びていたのを鉄心は覚えている。
「アザミさ~ん」
物思いに耽っていた鉄心は看護師の声で現実へと引き戻される。慌ててソファーから立ち上がる。
そのまま部屋に通されると、中には小太りの医者が待っていた。短く刈り上げた白髪混じりの頭髪から、男性かと思ったが、「こんにちは」と挨拶する高い声で女性と知れる。
「えー、アザミさんね」
紙ベースのカルテとPC上のデータを見比べながら、鉄心に患者用の丸椅子をすすめる女医。
「本日、背中の縫合と、創部付近の脊椎や神経の検査、ええっと、あとは何だったかな」
「感染症検査と血液検査です」
看護師が口を挟む。
「ああ、そうだった。で、取り敢えずは異常は特には無いですね。後ろ二つの詳しい検査結果は、もうちょっと後ですけど、ええ」
「そうですか。ありがとうございます」
鉄心はまず一安心といった表情で礼を言う。
「背中の傷に関しては、まあ神経とかは大丈夫みたいですけど、割と深いので、そうねえ、二週間くらいは安静で、激しい運動とかは控えてもらって、うん」
「二週間ですか」
「マズイ? 随分がっちりしてるし、スポーツとかやってるの? 大会が近いとか?」
「いえ、大丈夫です」
「そう? じゃあ二週間後にもう一度来てください。それまでに痛みが強くなったりするようなら、痛み止め。それでも耐えられないとかあれば、来てください」
「はい」
「では、本日はこれで。どうぞお大事にね」
「はい。ありがとうございました」
礼を言って鉄心は部屋を辞した。
検査着から私服へ着替え直す為に患者用ロッカールームへと移動。それが終わるとロビーへ行き、会計待ちのために再びソファーに体を預けた。
「テッちゃん」
「鉄心」
座るとすぐに鉄心の横合いから声が掛かる。彼の姿を見つけ、駆け寄ってきた二人。黒髪のショートボブに黒縁メガネ、地味な印象ながら顔立ちの整った少女、松原美羽。金髪碧眼、ドールのような小顔に、美しい目鼻立ちの少女、メローディア・シャックス。鉄心と共に魔界から生還した少女たちだ。
「二人とも起きたんだ?」
病院へ行く鉄心を心配し、ついて来たは良いものの、心身ともに疲労困憊だった少女たちは、車の中で熟睡、病院に着いても起きられなかった。そして今しがた覚醒し、慌てて鉄心の下へやって来たという経緯だ。
「ええ。ごめんなさい。付き添いたかったのに」
「いえ。それでまあ、感染症だとかは見つからなかったみたいで、ただちに魔界で何かに感染したとかは無いかと」
傷の治療の他に、それも気に掛かっていたため、オールグリーンのお墨付きに二人も安堵した。
「まあ生物は奴ら以外は居なさそうだったし、可能性としては薄いとは思ってましたけどね。ただ後は、あの太陽モドキが大丈夫だったかって所も気になるんで、折を見て皮膚の検査もしてもらいましょうかね」
さながら熱帯雨林の奥地から戻って来たかのような入念さだが、無理もない。地球ですらない可能性が高い場所だったのだから。
「ごめんね。テッちゃんばっかり受けてもらって」
「ああ、まあ」
美羽とメローディアも検査を受けるべき、とも思うのだが、あの例の変異種から貰った呪印を医者に見られると面倒、ということで控えている。免疫や体質は個人差が大きいので、鉄心が大丈夫だから他の二人も絶対大丈夫とは言えないが、現状はそれで推定セーフと納得するより他ない。印を早く消した方が良いのは全員わかりきっているが、それを提案するということは、セックスしましょうと誘っているのと同義なのだ。誰も軽々とは言えなかった。
「背中の傷は二週間安静。ただ継続的に癒を使うから、実際の治りはもっと早いと思う」
鉄心が言いながら前傾になり、親指でクイクイと背中を指す。話が終わった辺りで、ちょうど電光掲示板に彼の受付番号が灯った。
シャックス邸に戻ると、改めて魔界での一部始終を大人組ともシェアした。上首尾で終えたことをまず喜び合い、静流などは鉄心の手を両手で握って、そこに額がつくほど深く頭を下げた。まだ予断は許さないが、乱獲派の動きも今のところは無いようで、メノウの言うように、残り数日を乗り切ればという希望は抱いて良さそうである。
「本当に何とお礼を言って良いか……」
静流は感極まり、涙を浮かべている。
「いえ。もう俺にとっても美羽ちゃんは友達ですから」
鉄心が微笑んで返すが、当の美羽は、
(友達かあ……)
と少し凹み、
(いやいや。感謝こそすれ、今それ以上を望むのは空気読めてないから)
と自戒。忙しかった。
「それに、メロディ様の殊勲賞がなければ無事に帰っては来られなかったでしょう。なので礼なら彼女にも。勿論俺からも……ありがとうございました」
「え!?」
急に水を向けられたメローディアは、目を丸くしている。
「そ、そうですよね! ありがとうございました!」
「ありがとうございました」
松原親子もソファーから立ち上がり、揃って頭を下げる。
「そんな、私は大したことは何も」
「いえいえ。変異種の一体を討ってくれたのは、間違いなく戦局を一気にひっくり返すビッグヒットでしたよ」
「そう……かしら。アナタが危ないと思ったら無我夢中で、あまり細かい所は覚えていないけれど」
全員に注目されて面映ゆいのか、メローディアは少しだけ口元を緩めて視線を下げる。しかしすぐに上目遣いでチラリと鉄心を見やり……ニコリと笑いかけられて、また照れて俯いた。こういった様子や、これまでの態度も鑑みて、静流は娘が以前言っていた恋のライバルというのが、この麗しの公爵であると確信に至る。
「ちなみに腕とか肩とか大丈夫ですか?」
「……痛いわね。凄く。さっき車でウトウトしてた時も、しょっちゅう痛みで目が覚めていたわ」
メローディアは照れ顔から一転、渋い表情に変わった。飛行する馬体を横から突き刺し、留め置いたのだから、当然両の腕、肩に多大な負担を掛けた。祝という技がそもそもドーピングに近く、術後は反作用があるというのに、更に無茶をしたわけだから、然もありなん。
「脱臼とかは大丈夫でしょうけど、後で湿布や電気治療やっときましょうか。多少マシになりますよ?」
「電気治療って……そんな設備は無いわよ」
「小型の低周波治療器がありますよ。俺ので良ければ……あ、いや、直接肌につけて使ってるんでアレですね。明日みんなで買いに」
「あいたた。何だか急に痛くなってきたわ。貸していただけるかしら。今日、今」
メローディアには意外とお茶目な所がある。鉄心も苦笑して頷いていた。
(うわあ、結構グイグイいくのね~)
静流としては、娘の初恋を応援してあげたい気持ちはあるが、相手が平良の序列四位、恋敵が公爵となると厳しいかと悲観的。だが、
「美羽ちゃんが氣を分けてくれたのも助かった。ありがとう」
対面に腰掛ける美羽に対しても、幼子に語り掛けるような優しい笑みを浮かべる鉄心を見て、そうでもないかと思い直す静流。このナチュラル二股志向には、美羽たちですら未だ慣れないのだから、初めて見る者が困惑するのは無理もない。
「そんな! ありがとうは私だよ! 本当に、一生分の恩を受けたから」
熱を込めて言う美羽。言外に一生かけて恩返しする、と。娘も負けじとグイグイいくのを見て、静流は驚いた。引っ込み思案で人見知りの気がある美羽が、こうまで変わるか、と。
(ああ、本気の恋をしてるのね、美羽。頑張りなさい)
静流は心の内で、娘にそっとエールを送った。
話し合いの議題は今回の遠征で挙げた戦果へと移った。
魔界の様子、時間の件、餓魔草が人の想念や記憶まで吸い取る件、三層魔族討伐の事実、変異種の存在……エトセトラ。どれも学会を揺るがすレベルの話だが、逆に言うとどれ一つ公には出来ないという判断だった。メリットは人類の魔族への知識、理解の深化。デメリットは鉄心たち個人の平穏が脅かされる事。
「最悪、平良の中の信頼できる人には話すのも手かもだけど……それも慎重にいきたいな」
という鉄心の総括に誰も異は唱えず、現状は部外秘という判断で落ち着いた。




