第71話:初めてのハゲ呪術
薊鉄心は、夢を見ていた。
それは遠い日の少年時代。初めて彼がハゲ呪術を使った時の事だった。
小学校二年生に上がる頃には鉄心は、既にクラスで一目置かれる存在となっていた。容姿や勉強の出来は並程度だが、運動神経がずば抜けており、体育では殆ど無双状態だったからだ。家の方針で、幼稚園の年長から武術も幾つか掛け持ちで習っており、わけても剣道と徒手空拳においては、輝く宝石のような才覚を見せ、大人すら唸らせていたほどだ。その自信が精神にも良い影響を与え、歳不相応な落ち着きを纏わせていた。女子にはモテ、不良予備軍のようなグループすら彼を「くん」付けで呼んだ。
ただ当の彼本人は、強くなることに夢中で、また最近になって使い手として選ばれたユニーク武器「邪正一如」の研究が忙しすぎて、そういった周囲からの視線には無頓着であった。
そんなある日、時期外れの転校生がやって来た。鉄心の隣のクラスに編入となる。鉄心は特に興味が無かったのだが、その日のうちに廊下ですれ違った。ビックリして思わず振り返って二度見をしてしまった。その転校生、長谷は無毛症・乏毛症と呼ばれる障害のある子供だった。
子供は残酷だ。彼はすぐに揶揄や嘲笑の的になってしまう。あだ名は一つしかなかった。
しかし鉄心は相変わらず自分事で忙しかった。それは勿論、多少なりの同情はあっただろうが、他クラスに乗り込んで介入しようとまでは思わなかったのだ。
それから数日が過ぎた。長谷は事あるごとにイジリを受けていた。廊下でもそんな場面を見かけたので、鉄心は流石に止めに入ろうかと思ったが、当の長谷が笑っているので、そのままにしておいた。鉄心も大人びていようと、まだ当時は八歳。分からなかったのだ。その笑顔に卑屈な媚びが含まれているのを。
「おいハゲ! じゃなかった長谷!」
「アハハハハハ」
そんな周囲の揶揄に、ただ黙って笑っている長谷。笑ってやり過ごしていたら、これ以上エスカレートすることはないのではないか、そういう希望に縋って。
それから更に数日、長谷が転校してきてから二週間ほど経った頃だっただろうか。事件は起きた。放課後、いつもはすぐに帰る鉄心だったが、その日は日直のため、下校が遅くなった。ランドセルを背負って教室の外に出ると、ゲラゲラと品のない笑い声が聞こえた。隣のクラスからだった。鉄心は少し迷ったが、様子を見に行くことにする。教室のドアには鍵が掛かっていないようで、鉄心は開け放った。
「え?」
「何だ?」
イジメっ子たちが一斉に振り返る。三人がかりで長谷を囲んでいるようだ。その内の一人はハムスターを掴んでいた。教室の後ろに木造りのランドセルロッカーがあり、その上にケージを置いて各クラス、小動物を飼っているのだ。イジメっ子が持っているのは、その飼育動物なのだろう。
ハムスターは、不自然に毛が抜けていた。その抜けた毛の束は残りの二人が持っている。一人が捕まえて抑えつけ、残りの二人が毟り取っていたらしい。
「何やってんの、オマエら」
言いながら鉄心がゆっくりと近付いていく。イジメっ子たちより体が一回り大きい鉄心が、怒気を孕みながらやってくる。三人には相当な恐怖だっただろう。つい最近、小学校低学年の空手大会で優勝、学校でも表彰されたおかげで、鉄心の強さは彼らも知っている。
「ち、ちがう。これは、ち、ちがうから」
「そう。いじめてたとかじゃなくて」
持っていた毛束を慌ててポケットに隠して、少年二人が卑屈な笑みを浮かべる。
「こ、こいつが言いだしたんだよ」
最後の一人、ハムスターを持っている少年が、空いている方の手で長谷を指さした。長谷は驚きに目を瞠り、激しく首を左右に振った。
「ウソつくなよ。オマエがやろうって言いだしたんだろ。ほら、あざみくんが……いたたた、いた! いたい!!」
言い終わる前に鉄心がその少年の手首を掴んで逆に捻り上げた。そして取り落としたハムスターを空中でキャッチ。そのまま足を上げて少年の尻を蹴りつける。二度、三度、四度。バコンバコンバコンと、乾いた大きな音が教室内に響き渡る。
「う、うわああああ」
残りの二人は一目散に逃げだす。鉄心にしこたま蹴られた少年も泣きながら地面を這って逃げる。なおも追いかけようとした鉄心だったが、左手で包み持ったハムスターがモゾモゾと暴れるので立ち止まった。ケージの蓋を開け、そっと中へ戻してやる。体の一部は毛が無く、ピンクの地肌が剝き出しになっていた。
「……なんで止めてあげなかったの?」
鉄心が長谷に向き直って、そんなことを聞いた。長谷は俯き、
「こ、こわくて」
と蚊の鳴くような声で答えた。
「なんでアイツらはこんなことしたの?」
「ボ、ボクとおんなじにするんだって。あしたクラスのみんなが来たときに、ボクとおんなじようになってたら、わらいがとれるって」
付け加えるなら、このクラスの生き物係は、このクラスで一番可愛い少女だったため、彼女の気を惹きたい気持ちも彼らにはあったのだろう。いわゆる「好きな子ほど意地悪したくなる」小学生気質全開の所業だった。
「くだらない」
鉄心はそれだけ言い捨てて、後は長谷を振り返ることもなく立ち去った。
翌日、鉄心は教師に呼び出され、暴力を振るったことを叱られた。しかし、大人の教師に二人がかりで叱られたというのに、鉄心の返答はケロッとしたものだった。
「せんせいたちがイジメを止められないから、オレがやったんだよ。なんでしかられるの? 何もできなかったせんせいたちは、なんでしかられないの?」
普通の八歳児は教師に叱られればシュンとして反省するか、勝ち気な子でも相手のイジメっ子たちにも罰を与えて欲しいと抗議するのが関の山だろう。この年頃の子供にとって教師は無謬の裁定者のように思われるのが普通であるし、そうなるように刷り込んである。だから、まさかの反論で、教師たちは面食らった。生意気だと感じたのか、自分たちだけでは丸め込めないと思ったのか、彼女らは鉄心の保護者を呼ぶ決断を下してしまった。親を呼ぶと言えば、暴力を振るった事実に後ろめたさを感じ、大抵は詫びが入るものだからだ。だが、鉄心はそれでも泰然としており、そのことが更に教師たちから冷静さを失わせ、本当に呼び出すまでに至った。
そして、当時平良の序列六位にあった父、薊善治がやって来てしまった。たまたま担当案件がなく休暇中だった。ワインレッドに金の昇龍が刺繍されたカッターシャツに高級ブランドのスーツを着ていた。二の腕は細身の女性教師の足よりも太かった。平日の朝から平然とやって来れる辺り真っ当な仕事をしているとは思えなかったし、何より纏う空気がカタギのそれではなかった。
「ウチの子からは、イジメられている子とハムスターを守ったと聞いていますが?」
地鳴りのような低い声。たった一声で場を掌握してしまった。
当時中学三年生、十五歳だった次兄、薊貴一は事の顛末を聞くと、鉄心にこんな教訓を授けた。
「俺たちはあまり直接的にやってはダメなんだ。力が違い過ぎる。普通の社会で上手くやっていくには、バレないように立ち回らなくちゃいけないんだ」
平良なら名の御威光があるが、薊はあくまで影。一般にはまず知られていないし、それを是とする。鉄心は「ふうん」と気のないような返事をしながら、その実、兄の言葉を自分なりに解釈していた。
そして、スッと思いついたのが呪術で彼らの髪を奪うことだった。とても自然に発想していた。そんなにハゲが面白いのなら、彼らもそうしてやれば良い。ただしバレないように。
それから一月以上もの間、鉄心は放課後になると隣のクラスへ行き、成敗し損ねた少年二人の机や持ち物を漁り、抜け毛を採集した。毎日である。この年頃の少年は様々な事に興味が移ろいやすく、また冷めやすい。だから鉄心がここまで偏執的な気性を、泰然とした顔の裏に隠してあるとは、家族ですら全く見抜けなかった。
鉄心は最初は藁人形などは用いず、触媒も思いつかずに塩などを使っていた。だが失敗に失敗を重ね、徐々に徐々に今現在の形に近づいていった。ただ触媒にしたのは魔族の代わりに自身の血。そして事件から一月半後、ハゲ呪術は成功する。絶大な威力だった。
少年二人は十年近く経った今なお髪が全くない状態である。ついでで呪った教師二人も薄毛の状態が続く。彼我の実力差が小さな少年時代ですら、この有様である。今やればどうなるか鉄心自身にも分からない。オリビアに自身の血が触媒ではダメかと聞かれた時に、あやふやな答えだったのは、こういった事情からだった。
一般的には、鉄心の行いは「悪」と言われるのかも知れない。自身が直接の被害を受けたワケでもないし、あの事件以後は長谷へのイジリも無くなっていた。なのにそれを一カ月以上もかけて過剰防衛的な復讐を行うのは筋が通らない、と。それこそ教師らは、そう言うだろう。
だが鉄心は知ってしまった。世間で「悪」と呼ばれるような行いでしか逆に正せないことがある。何一つ悪い事をしていない長谷は、ハムスターは、「正義」の救済網から漏れようとしていた。いや、そもそも世に蔓延る「正義」自体が、弱者に忍耐を強いることで秩序を保つための暴力の別称にすぎないのだと。なら正義だ悪だと分けることにどれほど意味があろうか。薊鉄心、齢八にしてあまりに早い「気付き」だった。




