第69話:2章エピローグ(前編)
見慣れたシャックス邸の防音室内を見るや、美羽の目から涙が零れた。高級ピアノも、作戦会議で座っていたソファーも、数年ぶりに見たような心地だった。生きている。生きて帰って来られた。その実感がようやく、そして一時に押し寄せ、美羽はついに立っていられなくなって、座り込んで泣き出してしまった。眼鏡の下に指を入れ、滂沱の涙を拭っている。そのうち、メローディアもつられたのか、目を赤くして、さめざめと泣き始めた。美羽の傍に膝をつき、慰めるように肩を抱いていたが、やがて正面から抱き合って二人で泣いた。
鉄心は邪魔をしないようにそっとその脇を抜け、寄木のテーブルに近づき、置いてあった携帯電話を手に取った。パカッと蓋を開けると日付と時刻を確認する。出発した次の日の朝十時前だった。つまり向こうではほぼほぼ二十四時間過ごした(午後九時半に魔界へ出発、餓魔花獲得が翌日の夜九時半ごろ)が、こっちでは十二時間程度しか過ぎていない計算になる。およそ二分の一。
(すげえな、おい)
今回の旅は凄まじい発見に満ち満ちている。それこそ学会を揺るがすレベルの物も多数だ。色々とまとめたいが、今は先にすることがある。鉄心はソファーに座り込み、上半身裸になる。作業着もアンダーシャツも熱線が貫通しており、穴が開いていた。残りの氣を練り、癒に回す。アドレナリンが切れた今、背中の痛みはそろそろ限界近かった。数十秒かけてある程度は治せたが、完全とはいかない。後は素直に医療のお世話になるのがベターかと思案する鉄心。
「テッちゃん。痛い?」
まだ鼻をグズグズ鳴らしているが、美羽も少し落ち着いたようで、鉄心の怪我にも気を回す。メローディアも心配そうに背中の傷を見ている。褥瘡のように赤く湿った傷口。内臓まで達してはいないが、思った以上には肉を抉られている。
「後で病院に行くけど……その前に来客みたいだ」
鉄心が顎をしゃくった方向、部屋の中に突如、ゲートが現れる。鉄心は美羽たちを呼び寄せ、ソファーに座る自分の後ろへ移動させた。ゲートは空間に定着し、ゆっくりと扉を開いていく。中から現れたのは予想通り、メノウだった。三人固まっているのを見るや、
「最初の丘で待ってて欲しかったのだがね。餓魔花を手に入れたんだろう?」
と挨拶も無しにやや不機嫌そうに言い放った。鉄心は注意深くその顔を観察しているが、目が泳いだり芝居がかった嘘くささは見受けられないようだ。あくまでも彼の勘が基準になってしまうが。
「どのクチバシが!」
激しかけたメローディアを手で制した鉄心。
「メノウ」
呼びかけて、手に持っていたビニール袋を投げつける。受け取ったメノウは怪訝な表情だ。鳥だから正確には分からないが。
「開けてみろ」
言われるまま開けて中身を取り出して、メノウは驚愕に目を見開いた。
「な……!? コイツは……アメジスト!」
鉄心は鳥人の様子をつぶさに観察している。肩や腕の筋肉の動き、表情の動き。作為的なものを内心に抱えていると、本当に細かな所に力が入っていたりする。狸寝入りしている人間を抱き上げると存外軽いのが良い例だ。
だが、鉄心の見立てでは、やはり不自然な所はない。シロ、だろうか。それに、戦闘直後は思わず疑ったが、冷静になるにつれ、可能性は薄そうだとも思っている。仮に仲間面で油断させておいて、一番気が緩むだろうゴール付近で討つつもりだったとして、鉄心の実力は嫌というほど知っているメノウが、単騎で刺客を向かわせるというのは考えにくい。
「お友達か?」
「いや……同じ層の魔族ではあるが完全に没交渉だ。言うなれば無所属か。件の乱獲派閥でもない……ハズだ。私の知らない所で繋がっていなければ、だが」
何と、三層の魔族だったようだ。メローディアは改めて身震いしてしまった。ついに自分の想い人は単独で三層魔族まで討ち果たしてしまったのだ。
「ああ、なるほど。コイツに襲われたのだな。それで私も関与を疑われていると」
「素直に吐いた方が良いわよ? 同じ層が殺られたということは、アナタだって彼には敵わないんだから」
メローディアが腰巾着のようになってしまった。こういうのは普段の彼女は強く嫌悪するような振る舞いだが、自己の客観視も見失い、鉄心を自慢したい、鉄心の力を誇示したいという欲求を抑えきれない様子だ。
「私が仕組んだことではないよ。信じてもらえないだろうか」
「で、でも!」
そこで美羽も割り込んでくる。
「あの変異種たちも襲ってきました。地図に書いてた記述と食い違ってて、それって私たちを油断させるためだったんじゃ……」
「ん? 何を言っている。変異種が襲ってきた? キミたちを?」
今度はメノウは半目になって訝しむ。
「そもそもアレは何なの? 空飛ぶナイトメア? それにしても少し体色が違ったし、角も遙かに立派だったわ」
「……奴等はバイコーンだ。ユニコーンと真逆の性質を持つ。つまり清らかな処女に攻撃を加える」
「な!?」
「……!?」
美羽とメローディアが自分の体を掻き抱いて一歩下がる。いきなり性体験の話をされるなど、全くの予想外だった。
「私は最初にキミたちに生殖した事があるか聞いただろう。あの時キミたちは頷いていたハズだが?」
鉄心が生食と勘違いした件だ。数日前に寿司を食った記憶も新しく、確かに全員訝りながらも頷いていた。
「ああ……そっちの生殖を言ってたのか」
鉄心が誤変換していたことについて説明してやると、得心いったという表情のメノウ。あの時の魚云々の驚愕も含めて、ここまで計算して演技しているような雰囲気は流石にない。鉄心の最終判断として、メノウは九分九厘シロ、その仮定で進めようという事になり、後ろの二人にも了承を得た。
「無所属って事は、乱獲派の連中に美羽ちゃんがバレたって線は薄いのか?」
「恐らくは。我慢するような連中でもない。構成員は全部が四層。五層以下よりはマシな知能があるというだけで、賢明とは程遠い」
少し侮蔑の色がある。メノウとしても「十傑」として一括りに語られるのは不服な様子だ。
「なので、今ここに殺到していないという事は……まあ一応あと数日は要警戒だが、その間に何のアクションも無ければ、十中八九セーフだろう」
美羽がホッと安堵のため息を漏らす。メローディアはそんな彼女の頭を優しく撫でようとして、二人ともまだメットを被ったままなのを思い出し、苦笑しながら脱いだ。
「……それと遺体なんだが、こっちに渡して欲しい」
「……良いぜ。ただし、そっちの銃はくれ。あと情報もだ」
鉄心が思いの外あっさりとメノウの要求を飲んだことに少女二人は驚く。「良いの?」と二人ハモリながら訊ねる。
「正直、三層魔族の死体なんぞ持ち込んだら、詮索どころじゃ済まない。芋づる式に美羽ちゃんの事も嗅ぎつけられるだろうし、俺にもデメリットばかりだ。元々コイツとの交渉材料にしようという腹積もりだったんだよ」
「え……そうなのね。でもそこまで言ってしまわない方が」
メローディアは少し困惑気味。腹芸は苦手だとは言っていたが、流石に正直が過ぎないか、と。
「ふ。まあ暴力という最強のカードを持っているからこその余裕だろうな。個人的には話が早くて助かるが」
メノウは鼻を鳴らす(ような音を出して)と、生首の入った袋と、床に乱雑に置かれ大布を掛けられただけの胴体とを順に見た。そして最後に、テーブルの上に置かれた銃。
「そのブラックマンバ。扱えるというのか?」
「さっき何気に氣を通してみたら、感触は悪くなかった。まあ頑張るわ」
「これ以上強くなろうとは、本当に平良は恐ろしいな」
「いや、それがなあ……」
鉄心は逡巡したのち、
「どうも俺の呪の一部が封じられてるっぽいんだよ。だからその分の戦力補強の為に使いたい」
ぶっちゃけた。美羽もメローディアも、そして打ち明けられたメノウ本人も、今度こそ度肝を抜かれた。知られれば一等不利な情報を(一時協力関係とは言え)敵対勢力に自ら伝えてしまうなど。大胆不敵を通り越している。少女二人は不安に駆られて想い人の後頭を見つめるが、結局何と言って良いか分からず、口を挟めなかった。
「心当たりはあるか?」
だが鉄心としては多少のリスクを負ってでも、情報が欲しかった。涼しい顔をしているが、内心では邪刀の機能不全を一刻も早く治したくて気が急いているのだ。ハゲ呪術が使えない、という不便は想像するだけで窮屈すぎた。
「間違いなく、キミの呪を解析されたのだろう。コイツは呪術の大家でもあった」
「やっぱりか。だがソイツを殺した今も全然ダメな感じなんだが?」
「己の死で以て更に呪いが強固になる。人間界でもそういう逸話は多くあるだろう?」
死んでもこの恨み晴らさでおくべきか、というヤツだ。なるほど、と鉄心。
「……こちらでも解呪の方法は探ってみる。だが私と同格の魔族の呪術だからな。あまり期待はしてくれるな」
「最悪は、お前らの三層に入れてくれ。ソイツの家でも見つければ研究ノートくらいあるかも知れん」
鉄心の言葉にメノウは瞑目して考える。彼は彼で既に色々と掟破りをしているのだろう。
「……分かった」
やがて絞り出すように了承する。この件はそれでまとまった。
「では本題だ。ミウ・マツバラ。封印の最終仕上げを行おう」




