第65話:三人、三度
離れていく二人の顔を呆然と見つめながら、鉄心は未だ固まっていた。軽く指先で自分の唇の右、左と触る。そしてようやく動き出す。不測の事態にも無類の対応力を見せる超一流のアタッカーも、色恋では型無しだった。
「今……キスされた?」
改めて言葉にされると、した方の二人も恥ずかしくなって、はにかみながら小さく頷いた。
「そっか。俺の自意識過剰とかじゃなかったんだ」
二人の顔を見ると、未だ潤んだ瞳で唇を半開きにしている。そのしどけない様子に、鉄心の胸が熱くなる。彼女らにしても、あまりに気持ちが高まり、一番敏感な口唇で愛おしい相手に触れ合いたいという衝動に体が勝手に従った、というのが実態だった。そこには理性よりも本能を強く感じ、目の前の美少女二人もまた動物なのだと強く意識させられ、鉄心の動悸は速まるばかりだった。
「あ、あの、ゴメン。いきなり。許可も無く」
美羽が思わず謝る。少し離れて頭を下げようとしたが、未だ鉄心の右腕の中で、それもままならない。「あ」と小さく声を出した時には、逆に掻き抱かれ、そのまま唇を奪われていた。今度は一対一。正面と正面。美羽の眼鏡が鉄心の眉の辺りにぶつかって軽くズレた。歯も当たってしまっただろうか、少しだけ唇にも痛みが走る。三秒ほど重なり、鉄心はゆっくりと腕の力を抜いた。
「気持ち良いんだな、キスって」
そこで今度は左腕を強く引かれる鉄心。視線を向けるとメローディアが泣きそうな顔で見ている。微笑して、一度唇を舐めた鉄心はそのまま、メローディアを抱き寄せ、接吻する。今度は美羽の時の反省を活かし、ゆっくりと唇だけを重ね、それから少しずつ深めるようにした。
「うわ……うわ」
自分もしたしされたというのに、鉄心とメローディアのキスを客観的に見ると、頭がパンクしそうになる美羽。嫉妬どうこうより、自分から始めたクセに、現状に追いつけていない。自分がキスしてしまった事も、キスを返された事も、今あの彫刻のように美しいメローディアが逞しい腕に捕まえられて身動き取れない状態で唇を奪われている事も、全部が夢のように思えていた。
たっぷり十五秒近く二人は重なり、離れた。メローディアの小さくて瑞々しい唇の端から唾液の雫が伸びていた。
「ありがとう。嬉しかったよ」
鉄心は左右の手で二人の背を優しく撫でて、そんな事を言った。美羽もメローディアも何と言って良いか分からず、無意識的に頷くのみ。そして脳が事態に追いつくにつれ、徐々に赤面していき……美羽がまず立ち上がって、「トイレ」と告げた。鉄心が匣で囲いを作ってやるや、ランタンを持って、風のような速さでそこへ飛び込んだ。簡易組み立て式のトイレを持って入っていないので、小便でも大便でもなく方便だと知れる。恥ずかしくて鉄心の顔が見れないので緊急避難ということだった。メローディアも一瞬どうしようかと鉄心の顔を見たが、つい数秒前まで繋がっていた唇が目に入り、やはり強烈な羞恥に襲われる。結局、美羽の後に続いて匣の中へ飛び込んだ。
「……しちゃいましたね」
「……しちゃったわね」
先に入っていた美羽が後から入って来たメローディアに振り向いて、何の生産性も無い確認をして、何の生産性も無い肯定が帰って来た。
「アナタが顔を近づけていくのが分かったから、先越されまいと」
「それは私もですよ。メロディ様がキスしちゃうって思ったら、私もってなって」
実に不毛だ。ほぼほぼ同着だったのだから、どちらかの責任を論じるのは意義が薄い。それが分かったのか、二人して口を噤む。そうするとメローディアの口端に先の唾液の跡がヌラリと光っているのが目立った。美羽の視線から、濡れた感触に気付き、メローディアは慌ててジャージの裾で拭った。
「……」
「……」
美羽も自分の口周りをさり気なく触って情欲の残滓が無いかチェックした。
「……あっちからもしてきたという事は、成就という事なのかしら?」
「……ちょっと分からないですね。最悪、しょげている自分を慰める為に私たちがしたって思っている可能性も」
凹んでいる飼い主の口を舐める動物のグルーミングかのように。
「というか、もし受け入れてもらえたのだとしても、私たち二人まとめて、って事ですよね」
ごく自然体で二股をかけられているのだが、あそこまで堂々とされると、悩む自分たちの方が変な気さえしてくる二人。
「どうかしらね。美羽を選ぶつもりかも知れないわ」
「え!?」
美羽からすると寝耳に水だ。こんな美人を差し置いて自分が、というのは考えづらかった。今も闇混じりの蛍光灯の中にあって、その顔立ちの彫りの深さから、目鼻は非常にクッキリと浮かび上がっている。本当に美しい、と美羽は思う。しかも、鉄心にあれだけ目を掛けられている。だから、
「ど、どうして」
そんな風に思うのか不思議でならなかった。
「だって。だって、セカンドキスはアナタの方に先にしたわ」
あ、と美羽。だがそれに関しては彼女にも言い分はある。
「でもメロディ様の方が深くて長かったです!」
それこそ両者の唾液が混合するくらいには。美羽の軽い物より、より深い気持ちが入っているではないかと邪推してしまうくらいには。
「……」
「……」
隣の芝が青く見えている状態なのだろうか。二人とも判断がつかず、沈黙が流れる。
「ていうか、さっきは仮にキスされたら順番がどうとか気にしてる余裕も無いって言ってましたよね?」
「言ってたわね。けど思いの外、人間って強欲なのね。知らなかったわ」
そこまで言って、二人は急に可笑しくなって相好を崩した。結局、メローディアも美羽同様、恋をしてから予測のつかない自分に出会ってばかりなのだろう。
「はぁ~。けどね。実際、彼が私たち二人を選んでくれるなら、それはそれで安心してしまうのよ」
「分かります」
「正直な所、もし私だけを選んでくれたとしても、美羽を泣かせて自分だけ幸せになれる自信が無いわ。絶対、心の何処かに引っかかると思う。何も知らない女なら、どうとでも割り切れるけど、これだけ近くで見てしまうとね」
「それは私もそうです」
美羽などはメローディアに更に輪をかけて気が小さい。押しのけて、もぎ取って、ハイさよなら、と言えるような人間ではなかった。
「だから、こう……テッちゃんが二股野郎である事実にかこつけて、選ばれない恐怖も、傷つけてしまう恐怖も、最初から選択肢に無い状態にしてくれたら」
「楽よね」
奇しくも、鉄心が話していた、アタッカーが持つべき覚悟の件と似ていた。命を奪われる覚悟、奪ってしまう覚悟。その相似は、つまり恋愛も戦争であると、何度目か分からない再認識を少女二人にもたらす。しかし二人は互いに刃を向けるには、共感力が強すぎた。たった数日とは思えない、密度の濃い時間を共に過ごし、同じ相手に救われて恋を知り愛を学び始めた、その境遇が。奇妙な連帯、絆を育み始めている。
「鉄心が実際どう思っているのか、三人で話し合った方が良いのでしょうけど……今はまず、この洞窟の攻略に専念すべきよね」
「はい……けどメロディ様って」
「何かしら?」
「やっぱり凄く日本人のマインドに近い気がします」
「あらそう?」
少し嬉しそうに笑うメローディアだったが、美羽が言っているのは先送り体質のことである。やはり自分と彼女は意外と似ているのかも知れないな、と。
二人が囲いから出ると、鉄心と目が合った。流石の彼も照れ臭いらしく、はにかんだ笑顔を浮かべる。一先ず安堵する二人。いくら朴念仁とは言え、あそこまですれば意識してくれるのだな、と。グルーミングの一種だとは思われていない、と。
「その……さ。美羽ちゃんの氣、確かにこっちに来たよ」
「へ? 氣?」
「うん。ほら、メノウが書いてたろう? その、接吻が一番効率よく授受できるって。あれマジだったみたい。前の胸の時より簡単に来てた」
そんな事をあの時に感じ取っていたとは。美羽は驚きに固まった。
「メロディ様にも送ってみたけど、こっちは普通に手を重ねるのと大差なかったかな」
メローディアも啞然。何と抜け目のない。そしてキスの順番が美羽からだったのは、この実験の為だったのだと理解する。
「ごめんね。最初に美羽ちゃんにされた時に流れ込んできたのに気付いちゃってさ。つい」
鉄心は少し芝居がかった感じで頭を掻いてから、
「恥ずかしながら、俺あれがファーストキスだったからさ。実験の名目でもないと出来なかったっていうか。はは」
と面映ゆそうに笑う。
(普段は不敵なクセに、変な所で可愛いんだから)
美羽が隣を見るとメローディアも、子供を見るような優しい目で鉄心を見ていた。そしてタタタと駆けると、鉄心の横に座り、左腕を取った。
「私もよ。あれがファーストキス。安くないんだから」
そして悪戯っぽく笑うと、
「美羽はどうか知らないけれど」
と挑発する。水を向けられた美羽は慌てて「私も初めてですよ~」と情けない声を上げながら傍まで来て、やはり鉄心の右側に座ってメローディアに倣うように腕を組んだ。鉄心を挟んで少女二人。これが今後の定位置になるのだろうな、とそんな予感を抱いていた。




