第64話:想い溢れて
一瞬で状況を把握した鉄心の怒りは凄まじく、更に魔力塊を吐こうと静止している竜の首筋に実に百近い鎌鼬を放った。連戦の疲れなど、湧き上がる憎悪の前には塵芥に等しかった。放った鎌鼬の幾つかは鱗に阻まれたが、残りは腹側の柔らかい部分に突き刺さり、引き裂き、貫いた。首筋から壊れたスプリンクラーのように血を噴きながら竜はグラリと倒れた。地響きを立てるその死体には目もくれず、鉄心は駆けた。ビルの外壁に叩きつけられたままの兄の下へ。
「きぃ兄!」
嗄れたような声で呼びながら、兄の体を抱き起こそうとして、その体から何かが飛び出しているのに気付いた。鉄筋が深々と腹を貫いている。それも二本。
「噓だ」
鉄心は現実を認められない。これは夢だ。でないと、こんなに優しい人が、こんな場所でその生涯を終えてしまう。夢でないのなら、世界が間違えている。こんな事が起こり得て良いワケがない。鉄心は兄を抱き起すのを止めた。下手に引き抜いて臓器を傷つけては困る。代わりに無線機のボタンを押す。
「至急、救護班を。市の東端、ベルント通りまで」
「……手が回らない。核心人材にもケガ人が出ておる」
「至急」
「すまぬ。王命である」
「よこせって言ってんだよ!!」
無線機が壊れるのではないかという程の怒号。だがそれも虚しく、ミーシャ・ゼーベントは同じ言葉を繰り返すだけだった。鉄心はそのガラクタを地面に叩きつけ、再び兄を見る。白い顔。失血が酷い。手を伸ばしてくるので、その手を握るが恐ろしく冷たかった。命が失われていっている。嫌でも分かってしまった。今まで戦場で幾つも見送って来た、その経験が現実逃避すら許してくれない。
「てっ……しん」
ひどく重たそうに唇を動かす貴一。その唇も血の気が失せ、真っ白だった。
「大丈夫。大丈夫だから。すぐに救護が来てくれる」
鉄心には噓をついている自覚すらなかった。来るに決まっている。でないと世界の方が大間違いなのだから。
「正邪の……二刀……決して……折れない……鉄の心……俺の……自慢の弟」
話す度に唇の端からドクドクと湧き水のように血が流れた。
「俺の……分まで」
最期に、笑った。
「兄貴? きぃ兄?」
握っていた兄の手から完全に力が抜けていた。そしてもう二度とその手に力が入ることはない。数時間前には箸を握って共に飯を食った手。鉄心が小さい頃はよく頭を撫でてくれた手。軽い喧嘩の時には鉄心の頬を引っ張る手。
「……嘘だ」
そこですぐ背後に気配を感じて、鉄心は体ごと振り向いた。魔族の残党なら八つ裂きにしても足りない。だが、そこに居たのは人間だった。父、善治だった。「遅い」と当たり散らしそうになって、ハッと気付いた。父の目から涙が零れていた。鉄心の人生で初めて見た。それでついに、完全に、認めてしまった。最愛の兄、貴一が死んだ。その事実を。
こうしてアックアの惨劇は終わりを告げた。数えきれないほどの無辜の民、報国の英雄たちの尊い犠牲。またその裏で異国の忍たちが噛み殺した声にならない慟哭。勝利と呼ぶには余りにも、失いすぎていた。
まず最初に鉄心が目を覚ました。起きると同時に、強烈な喉の渇きを覚える。干物になりかけているとさえ思った。汗と涙で体も顔もビショビショだった。そしてその顔を拭おうとして手を誰かに握られているのに気付く。メローディアだった。仕方ない。もう片方の手を動かそうとして、そちらもやはり塞がっているのに気付く。美羽だった。二人とも鉄心に引っ張られて、その刺激でゆっくりと目を開けた。彼女らも眠っていたようだ。いや、正確にはほんの少しの間、白昼夢を見たのだった。三人、同じ内容を見た。鉄心の悪夢を、彼の体に触れることで二人も共有したようだった。
鉄心は一度大きく息を吐く。そして、まだボンヤリとしている二人からそっと手を外し、顔を拭って枕元のペットボトルを取って口を潤した。
「テッちゃん……」
「鉄心……」
二人、目の焦点が定まるや、鉄心を見ながら涙が頬を伝っていく。そしてそのまま胸に飛び込んできた。鉄心は何とか両手を突っ張って受け止めるも、悪夢と脱水に苛まれた体にはとても堪えた。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
美羽はひたすらに謝っている。
「鉄心。鉄心。アナタがお母様の尊厳を守ってくれていたのね。ああ……もう、どうしたら良いの? 胸が張り裂けそうよ」
メローディアは悲しみと感謝と同情と激しい恋情の混ざり合った心のままに言い募っている。
とりあえず、鉄心はキチンと身体を起こし、二人が落ち着くまでその頭を胸に抱いていた。
美羽がインスタントのコーヒーを淹れ、皆のマグカップに注いだ。三人で車座になり、中央にランタンを全員分置くと、かなり明るかった。それぞれの表情も良く見える。鉄心は目に力が戻っているが、少女二人は未だ悄然としていた。両手で包むようにカップを持ち、中を満たすコーヒーの黒と、ランタンの白を見るともなく見ている。しかしやがて、
「私のせいです。テッちゃん、本当にごめんなさい。私がナイトメアたちを生かして通りたいなんて言うから」
美羽が消え入りそうな声でそう言った。
「それを言ったら私もよ。まさに士道不覚悟。私の日和を見て、美羽の提案を受け入れたのでしょう?」
メローディアも追随して罪悪感を吐き出す。美羽がまた泣き出してしまった。それを慰める為に鉄心が再び胸に抱き寄せる。それすらも美羽は申し訳なかった。彼の優しさを受け取る資格が自分にあるのかと。
「美羽ちゃん、良いんだよ。俺としても、きぃ兄が実際にどう戦っていたかまで知れたのは嬉しかった。やっぱり……あの人は永遠に俺の誇りだ」
少し涙の残る頬に笑みを浮かべる鉄心。二人も大きく頷いて賛同した。貴一に限らず、あの地獄でなお他者の為に殉じた人、その全員に尊敬の念を抱かずにはいられなかった。
「仮説だけど、例の白光餓魔草、記憶を吸ったヤツが悪夢にも作用したんじゃないか。勝手なイメージで補完されたって感じじゃなくて、真に迫ってた。あれは死んだゴルフィール人が持ってた四年前の記憶が混ざったモノじゃないかな」
そこまで言って、鉄心は頭を振った。
「……考察は後にしようか。メロディ様もおいで」
美羽だけ抱き着いている状態に、いつ自分も合流しようか、しかし今の鉄心に自分から甘えるのは図々しいか、と葛藤しながら腰を浮かせたり沈めたりしていたメローディア。だが当の鉄心から呼ばれれば一も二も無かった。
「おっとと」
左胸に縋りついてきたメローディアを受け止め、鉄心が緩く笑った。右胸に居る美羽とまとめて抱き締める。
「理不尽だよな、この世界は。間違っている事ばかり起こるし、正しい事をすれば真っ先に逝ってしまう」
美羽もメローディアもきつく抱き返していた。三人が一体となって、最初からそういう動物だったかのようだ。
「俺はさ。四年前のやり直しをしに来たんだよ」
オリビアには愚痴を色々と言っていたが、実際、先の学園防衛の任務に際しては彼の中でも期するものがあったのだ。
「そこで、どっか天然な雰囲気がきぃ兄に似た女の子と出会った。自分でも言語化不能な相性の良さというか、放っておけない気持ちになった」
右手で美羽の頬を撫でた。ムニムニと触り心地が良くて、鉄心はまた穏やかに笑う。
「メロディ様には正直、自分からは接触する気はなかったんです。どの面下げてって感じで。キミのお母さんにしてあげられた事は余りに少ない」
左手でメローディアの背中を優しく撫でた。「そんなことない。そんなことないわ」とメローディアは涙声で繰り返す。
「だからさ……二人に出会えたのはきっと天命なんだ。俺に四年前のやり直しをさせてくれる。優しい子を、英雄の誇りを」
そこで鉄心はグッと更に強く二人を抱き寄せた。穏やかな笑みを消し、凛然とした顔で二人の目を見つめた。
「守るよ。今度こそ。絶対に、俺が守る」
この先、仮に乱獲派なる連中が狙ってきても、不退転である。命の使い処はここだ。
「テッちゃん……」
美羽はもう限界だった。惚れ抜いた男にここまで言われて、気持ちを抑え付けられるなら女じゃないとすら思えた。体の芯が痺れるような疼きに、熱く湿った吐息を漏らした。
「鉄心……」
メローディアも限界だった。自分の人生を救ってくれた男が、母すらも救っていた。その上、更に英雄の誇りを受け継ぐまで導いてくれると言う。頭がおかしくなりそうだった。
「美羽ちゃん? メロディ様?」
俯いた二人を覗き込むように鉄心が顔を近づけた瞬間だった。急に上を向いた二人の顔が眼前に広がり、
――――鉄心の唇に、柔らかく瑞々しい感触の何かが触れた。
「ん? んん!?」
人中を境にして、右側の唇に美羽の唇が。左側の唇にメローディアの唇がピタリ重なっていた。鉄心の視界には二人の閉じられた睫毛。右が黒、左が金。
何が起きたのか彼が理解した頃(たっぷり十秒以上は重なっていただろうか)、二人は示し合わせたようにそっと顔を離した。




