第61話:忍び寄る悪意
安眠を妨げても可哀想なので、二人は鉄心の寝床から距離を取った場所へ座り直す。
「私が……もし万が一、億が一、彼と対等になれる日が来たとしても、その頃には彼は、もうゴルフィールに居ないのよね」
「そう……ですね。というか考えたら、それどころか、私の件で残ってくれてるだけで、これが片付いたらテッちゃんは……そっか、そうですよね」
立て続けに難題が降りかかる日々の中で、そんな当然の事すら失念していた美羽。メローディアは逆にそのタイムリミットを意識するが故に、同居を強く勧めたり、過剰にスキンシップを図ったり、積極的にアプローチしていたのだ。最大で彼のバカンスの間、つまり一か月程度で、あの薊の妖刀を手に入れなくてはならない、という勝ち目の薄い恋愛戦争。
「なりふり構っていられないかも知れないわ。見送ってしまったら……次に再会した時、もう既に二人くらい妻が居ますなんて言われても、全くおかしくないもの」
「……やっぱり二人だと思います?」
薄々は美羽も感じている事だ。鉄心は彼女とメローディアに順位をつけていない。
「まあ生育環境から言って、それが普通になっていそうよね。親類も平良なワケだから、そういう男性も多そうだし」
メローディアはフラットな声音。先程の王弟との縁談に関しても、重婚それ自体より大人が子供にという構図や、大した魅力も無い男からのアプローチに対する嫌悪感の方が強そうではあった。
「そう言えば、さっきの王様の弟さんとの話って、どうなったんですか?」
「普通に無理だから断ったわよ」
第二夫人と言う立場なら、嫡子は王家には入れず、公爵家の跡取りとしても大丈夫、というのがメリットの縁談らしかったが。生々しく妊娠をイメージさせられ、それが一層メローディアには気持ち悪かった。
「ええ!? 大丈夫なんですか、それ」
「ウチだって腐っても公爵よ。王位継承権だってある。それに女王陛下も破談に協力してくれたわ」
改めてメローディアが、やんごとない身分の人間なんだと実感する美羽。
「あんなのと……失礼。あの方とは年齢も離れすぎているし、当然だけど恋愛対象外だし。でも放っておくと御家の前に私という個を殺した縁談が有り得る立場なのよ」
メローディアは首だけ振り返って、鉄心の寝姿を見る。
「それを考えたら、仮にシェアでも同着一番でも、あんなにカッコイイ人と結ばれるなら……」
メローディアが先と同じ結論を繰り返す。美羽が思っている以上に、権力や家とは厄介なものらしかった。加えてメローディアは戦士としての道を往くのだから、
「もし彼がゴルフィールを去って行くのなら、子だけでも宿して貰うべきかしらって」
まあ当然そうなる。処女膜を後生大事にとっておいて、天国で悔いても仕方ない。「この人だ」と心底から焦がれる相手が居るのなら、細かいことに構っていられるほど彼女に猶予は残されていないかも知れないのだ。まさに「命短し恋せよ乙女」を地で行く人生だ。
「美羽は? どうなの? もし仮に彼が両方欲しい、そうでなければ抱かないと言ったら」
「……捧げます」
口だけになっていないか自問自答しながら。それでも美羽の答えは変わらなかった。彼の出す条件を委細飲んでも、それで今より深く可愛がってもらえるなら、と焦がれずには居られない。そもそも対等を願えるほどの何かを自分は鉄心に返せたか、ということなら胸の内に問うまでもなく否である。
「というかね。想像してみなさい。もし鉄心にキスでもされたら、もうそれが何番目だとか、誰と一緒だとか、全部吹き飛ぶと思うわ。それどころか失神するかも」
「ああ……それは」
考えただけで美羽の大きな胸がきゅうと切なくなる。されたい。ただ強烈に彼女はそう思う。その熱情の前には、倫理とか結婚観とか、優劣とか、確かに全てどうでもよくなってしまうかも知れない。
「仮にその後、アナタと反りが合わなくなったり、やっぱり自分だけで独占したいと思う事があったとしても、今は何よりも彼を手放さない、それが一番重要なのではないかしら。そのためには二人がかりでも既成事実を作って、情に訴えて……」
結構えげつない、と美羽が思ってしまうのはやはり甘さ故か。恋は戦争とは言うが、鉄心を縛り付けるようなやり方で本当に良いのか。判断がつかないまま、当の想い人を振り返った時だった。異変に気付いたのは。
時は少し遡って、人間界。ゴルフィールの首都、グランゴルフィールの北部、いわゆる貴族街と呼ばれる閑静な住宅地での出来事である。
子爵位を戴くダグラス家の邸宅、その書斎が血の海に沈んでいた。複雑な幾何学模様が編み込まれたウールの高級絨毯が、まるで雑巾のように家主の血を吸っていく。基調の白が赤黒く染まって行く様を、ヘビを彷彿させる面長の顔に三白眼の女が無感動な顔で見つめている。いや、彷彿と言うより、ヘビそのものの部分が多数見うけられる風体だった。首の全部と顔の一部には鱗が生えているし、嘆息した時に覗いた舌は二股に分かれていた。明らかに魔族、それも亜人種しか居ないとされる十傑の一角と見て間違いないだろう。
「馬鹿な男だねえ。素直に息子を渡していれば死なずに済んだものを」
元より小さな女の黒目がスッと細められ、糸のようになった。その視線の先には、俯せに倒れて絶命する老境の男。ダグラス家の現当主だ。そしてその遺体より更に向こう、書斎の壁に背を張り付けている少年の姿があった。蒼白な顔で歯を鳴らして震えている。後退りしようと足をバタバタさせているのを見るに、もう既に背中が壁にくっついている事すら認識できていないらしかった。
「ジーン・ダグラスだね。なあに、そんなに怖がることはないさね。なにも命まで取りはしないよ。お前の先生も既に同じ目に遭っているけど生きてはいる、大丈夫さね」
女はゆっくりと歩み寄る途中、ダグラスの当主の遺体をぞんざいに蹴り飛ばした。遅くに産まれた三男坊のジーンを随分と可愛がっていた、その優しい笑顔は永遠に失われてしまっている。
「やめ……やめて。来るな」
ジーンがうわ言のように呟くが、女の歩みは止まらない。つい三十分前、ジョシュ・リグスからも似たような言葉を聞いたばかりだったから「人間はどれも同じだな」と至極つまらなさそうに鼻を鳴らした。
そうしてジーンの前まで来ると、女の鼻が異臭を嗅ぎ取る。発汗の異常により体臭が強くなっている上に、小便まで漏らしてしまったらしく、両者の混じった得も言われぬ悪臭が漂う。
「汗を呪ったのかい。面白いっちゃ面白いが、アタイのように汗をかかない蛇には怖くないねえ」
そう言って女はニヤリと笑う。ジーンに話しているワケではない。コミュニケーションを取る価値があるとも思っていない、ただの獲物だ。だから話しかけているのは未だ相まみえぬ呪いの術者、つまり薊鉄心に、である。
「会えるのが楽しみだねえ。っと……その前に」
何とか這って壁伝いに距離を取ろうとするジーンを女は後ろから蹴飛ばし、倒れ伏した頭へかぶりついた。腐敗狼には流石に劣るが、それでも人間を傷つけるには十分な大きさの牙が四本、いつの間にか口元から伸びている。
「あ……が……やめ……」
途切れ途切れにジーンは言葉を発するが殆ど意味を成さない。そのまま二十秒ほど経っただろうか。女は唐突に口を開くと、獲物の体から距離を取った。ジーンの額が床を叩き、ゴンという音が響く。死んではいないようだが、意識は完全に失っているらしかった。
「ほう……これもまた良い魔力の練り方だねえ。相当な実力だ。っていうか、アタイより上じゃないのさ」
クスクスと笑う女。如何な精神構造か、強敵の存在は脅威ではなく愉悦になるようだ。
「さてと。呪いを破ってやった今なら、あの坊やの精神攻撃系の耐性も一時的に下がっているハズ。一体どんな悪夢を見るやら……ふふふ。ははははは」
蛇女、第三層魔族・アメジストは頬の半分ほどまで裂けた唇を醜悪に歪めて笑うのだった。
「メロディ様! テッちゃんが!」
美羽は勢いよく立ち上がると、鉄心の傍へ駆け寄る。メローディアも遅れて追随した。二人、並んで鉄心の寝床まで戻ってくると、そこには酷く魘される想い人の姿があった。毛布は既に蹴飛ばされていて、全身をのたうち回らせている。手は胸を搔きむしるような仕草をし、苦悶の表情を浮かべていた。寝汗も凄い。額に浮いた大粒の雫が後から後から滴っている。
「ど、どうしよう! 病気とかじゃないですよね!?」
「恐らくナイトメアたちが見せる悪夢、精神攻撃だと思うわ」
「どうしたら!」
「少し落ち着きなさい。悪夢だけで亡くなったというのは聞いたことがないし、だ、大丈夫のハズだから」
そう宥めるメローディア自身も、美羽の焦りが伝染して頭がパニックになりそうだった。
「と、取り敢えず起こしましょう!」
「そ、そうですね! 起きてくれさえすれば!」
二人それぞれ、鉄心の肩と腕を掴んで揺らそうとした、その時。彼女らもまた意識が遠のくのを自覚した。




