第60話:不対等恋愛論
やはりあの泉がナイトメアたちの塒になっているらしく、そこを過ぎると、いよいよ完全な静寂が訪れた。動物が通った痕跡すら殆ど感じられない。加えて、再三確認したように、小型の昆虫や微生物すら存在するか疑わしい環境下。まるで冥界に踏み込んだかのような錯覚を覚えて、美羽は小さく身震いした。
鉄心はその無音で無明の世界にリュックをドスンと下ろし、ジッパーを開いて中を探ると、細い紐と鈴を取り出した。それらを持って、後ろから追いついてきた少女二人とすれ違い、道端の石筍の前にしゃがみ込んだ。その岩肌、地上から数十センチ程度の箇所に紐を括りつけていく。
「何やってるの?」
メローディアが訊ねると、
「あっちの石筍との間に紐を渡すんです。そこに鈴を取り付ける。すると何か振動があると、つまりナイトメアたちが近づいてきて蹄で地面を揺らすと、鳴る。そういう仕掛けを作るんです」
と丁寧に答える。もちろん彼が休む間、少女たちに見張り番をしてもらうつもりだが、地上と違って視界が悪いため、聴覚の保険も欲しかった。
「ちょ、ちょっと。それくらい私がやるから、テッちゃんはもう休んでよ。あ、それか、その……する?」
「ん? いや休んでから、それでも回復が追い付かない感じなら貰うよ。ありがとう」
そう言って鉄心は立ち上がり、作業場を美羽に明け渡した。「じゃあお願いしようかな」とだけ残し、マットレスを敷いて、あっという間に転がってしまった。作業を引き継いだ美羽が完了して戻ってくる頃には、彼は小さな寝息を立てていた。
「疲れたんですね」
「いえ。どちらかというと、ナイトメアの催眠が効いているのでしょうね。彼のタフさから言って、あれだけでダウンってのは考えづらいから……」
ナイトメアの大群、その全てのヘイトは鉄心に集中している。群れから離れた二体ほどをメローディアが仕留めたが、大群の方はそれを知らない。最初の接触で鉄心を最大の脅威と認識したままなのだ。本当は一番力の弱い美羽、ないし新兵のメローディアを狙った方がパーティの足止めには最適なのだが、そんな分析力や知能があるハズもない。野生の勘に任せて一番危険な敵に全員で集中という単純な戦略だ。
そして大型の匣を連続使用して氣を消耗した所に、下層とは言え二十を超す魔族の得意技を一身に浴びれば、さしもの鉄心も少々分が悪い、という事だろうか。
「……私のせいですよね。敵を倒さないってことは、こういう事態も招くって」
かけた慈悲を返してくれるような相手なら魔族などと呼ばれてはいないだろう。メノウが理知的で互恵の何たるかを理解していたのも、美羽の認識を甘くした要因だった。
「……」
この時、メローディアの心中は穏やかではなかった。「そうね、アナタのせいね」と言えれば楽だったのかも知れない。そして一瞬でもそんなことを考えた己を恥じた。何故なら、
「それなら私も同罪よ」
鉄心に甘えきっているのは彼女も同じだったからだ。
「正直ね。アナタがこの作戦を提案してくれた時、助かったと思ったわ。鉄心の思うペースで、あの殆ど人間界の馬と見た目の変わらない生き物を殺戮していくのは……私には……」
最後まで言い切ることが出来ず、泣きそうな表情で俯いた。その甘さのツケは全て鉄心に払わせている無力感。アタッカーとしての不覚悟を露呈してしまっている醜態。
「鉄心に見限られたら、どうしよう」
「それは……私も同じく不安です」
そう言い合って、二人で力ない笑みを交わす。
「アナタが居てくれて良かったわ」
「それはこちらのセリフです。テッちゃんと二人きりだったら、自分の不甲斐なさばかりグルグル頭の中で巡って、自己嫌悪で鬱になってたかもです」
「あら? それは不甲斐ない仲間の私が居て救われたということかしら?」
メローディアの悪戯っぽい言い回し。美羽は「そんなとんでもない」と両手を左右にブンブン振って、
「メロディ様はご立派です。私だったらあんなに勇猛に戦えないです」
力を込めて言った。実際、掛け値なしの本音だった。美羽は自分がもしメローディアと同じくらいにアタッカーの才覚を持ち合わせていても、その道は選べないと思うのだ。
「鉄心からは入れ込み過ぎの猪突猛進と思われてそうだけど……勇猛とは真逆で臆病だからこそスイッチが必要なのよ」
一旦オンにすれば止まれないポンコツスイッチ、とメローディアは自嘲する。やり遂げるまでに切ってしまったら、もう二度とオンに入らないのを自分でも分かっているのだ。
「鉄心を見ていたら分かったでしょう。五秒前まで呑気に笑っていたのに、五秒後には眉一つ動かさずに殺生を行っている。あれは多分、人間相手でも全く同じことが出来る人よ。超一流のメンタリティというヤツね」
「……ん~。テッちゃんを基準にしたらダメだと思うんですよ。あの人って多分、じゃなくて間違いなく世代最強のアタッカーですよね。しかも世界レベルで。そんな人と比べたら、自分が出来るようになった事が小さく見えてしまうのは当然です。でもでも、逆に小学校の頃、逆上がりすら出来なくて居残りさせられていたような運動音痴の私からすれば、高校二年生で大人のアタッカーでも倒せないこともあるような魔族を倒せてるって時点で、凄すぎるって感想しかないです!」
美羽はグッと拳を握りながら必死に言い募る。もちろん内容は変わらず本音だが、それに加えて何とかメローディアを元気づけたいという真心も感じられた。
「……ありがとう美羽。それを言えばアナタもよ。鉄心と比べて覚悟が足りないと思っているんでしょうけど、比べても仕方ないわよ。臆病な私からすると、体の中に得体の知れない力があって、十傑からも狙われてるって状況で他人を気遣えるアナタは十分に心が強いと思うわ」
「照れ照れ」
「自分で言うのね。可笑しいわ」
メローディアは幼子を見るような優しい笑みを浮かべた。必然的に場は柔らかい空気に満たされる。メローディアは一度後ろを振り返り、鉄心の寝顔を見た。眉根が寄っている。暑いのだろうか、と毛布を腹の辺りまで下げてやった。
「……ねえ、美羽。アナタ……一人の男をシェアする事についてはどう思う?」
核心だった。美羽は息を飲んだ。
「私はそこまでプライドの低い人間ではないつもりだし、財もあるし家柄も……誇る気はないけど純然たる事実として高位貴族の家系よ。それに容姿も人より遙かに優れているのも自覚している」
謙遜ぶって自分を中の上くらいの容姿だとか言うつもりは毛頭ないらしい。ここら辺は日本人とは少し違う感覚だなと美羽は再び軽いカルチャーギャップを覚えた。
「だから私と釣り合う男なんて、そうそう居ないだろうと思っていたし、見つけたとしても当然、一対一の恋愛、結婚になると思っていたのよ。或いは母のように、妥協して選んでやったという優位を夫に持った状態での結婚生活になるのかな、とか」
「ぶっちゃけますね」
美羽はタジタジという様子だ。
「日本人の女の子は、こういう本音は隠すもの?」
「まあ、概ねは。けど気心知れた女友達同士だったら」
そこまで言って、その気心知れた女友達になろうと言われてるのかな、と美羽も思い至る。胸襟を開いてくれているのか、と。メローディアは美羽の内心を察してか、親しげに笑った。
「一つ最悪の縁談があったのよ。現国王の弟、王位継承権第二位の人ね。その人の第二夫人にならないかというヤツ」
「え? 確かゴルフィールの女王様って四十過ぎてらっしゃいますよね? その弟さんってなると?」
「彼も今年で四十二になるわね」
「うわぁ」
心の底からドン引きした声音だ。
「気持ち悪くて、会うのが嫌でたまらなくなった。別に親しいわけでもなかったけど、嫌っているほどでもなかったのに、もうパーティーで挨拶するのも気が重くなった。だって当時、私14かそこらよ? 生きてたら父と同じくらいの年代の男からそういう目で見られているなんて、考えただけでおぞましかったわ」
「ですよねえ」
美羽も自分に父親が居たらそれくらい、という年頃の男から無遠慮な視線を乳房に向けられると、毎回怖くなる。男性の生理として仕方ないのだと諦めるようにはしているが。
「そういうの考えるとね。鉄心をアナタとシェアする方が比較にならないくらいベターかなって、思ってしまうのよね」
確かにそういう経験をしてしまうと、結婚観も変わってしまうかも知れない、と美羽も納得。
「貴族も大変なんですね」
「そうよ。恩恵も大きいけど、その分ね。勿論、大好きな彼に私だけ愛して欲しいって気持ちもあるわよ? けどねぇ……」
軽く嘆息する。だが決してネガティブな表情ではなかった。むしろどこか恍惚すら感じさせる。
「さっき私は自分が少し優位な一夫一妻とか言ったけど、まさか相手が優位な一夫一妻ですら足りないかなと思うほどの化物に出会うなんてね。笑ってしまうわ。ねえ?」
「はい」
美羽も苦笑しながら頷く。荒々しい暴君のように踏み荒らす圧倒的な大技に、職人芸もかくやという円熟の二太刀が放つ銀閃の舞。御家史上最年少で平良の四傑にまで登り詰めた不世出の剣客。
「ん~」
と、そこで二人の会話が五月蠅かったのか、鉄心が唸って二人に背を向けるように寝返りを打つ。少女たちは「ふふ」と鼻から息を漏らしてしまった。




