第55話:不寝番(二人)
やがて四時間が経過し、セットしていたアラームが鳴る。二人はムクリと起き上がるが、やはり睡眠時間としては足りない。目が糸のようになっている。ちなみに、ここから同じように鉄心が四時間眠った後、もう一度交代で二人が四時間、その後は鉄心が四時間。全員が二回に分けて計八時間眠ることになる。
鉄心は起き出してきた二人に軽く挨拶をした後、少し離れた場所へ匣を2セット展開。簡易の化粧室と便所にするためだ。便所の方は、予め折り畳み式ポータブルトイレを広げて設置してある場所を、匣で囲った空間になる。脇には処理袋も。二人とも魔界に来て数時間、一度もトイレに行っていなかったことに気付く。野外での排泄に抵抗があったことと、歩き回って(メローディアは更に激しい運動もした)汗を流していた関係で、尿意が引っ込んでいたのだろう。
デリケートな話題に一瞬で目が覚めたらしく、二人は少しだけはにかんだ笑みを見せ、先に美羽がトイレに入った。メローディアが逆に化粧室へ。自前の化粧ポーチ、水のペットボトルなども手に持っている。そこを鉄心が呼び止めた。
「メロディ様。テーピングはもう外してしまっても大丈夫だと思います。大きな痛みも無いでしょう? ただ一応は患部の確認を……しまったな。手鏡だけじゃやりにくいでしょう」
とは言え、大きな姿見を持ち込むのも現実的ではない。ちょっとの衝撃で割れて無数の刃物になるのだから、逆に怪我の元になり得る。
「……アナタが診てくれるんじゃないの?」
「え?」
「何度も言わせないでよ」
メローディアの消え入りそうな声。顔がほんのりと赤くなり、少し流れた髪を耳に掛けながら、窺うような上目遣いだった。未だ女に成熟しきらない少女が放つ色気。
「診ましょう。俺に任せて下さい。ワンオペのテツとまで言われた……」
「私が診るからテッちゃんは早く寝なさい」
声に振り返ると冷たい瞳をした美羽が居た。いつの間にかトイレを終えていたらしい。
「あ、はい」
魔族の接近があれば、如何に敵意が無さそうに見えても必ず自分を起こすよう厳命してから、鉄心はマットに横たわった。一分と経たず安らかな寝息を立て始める。それを見届けて、二人は少しだけ丘を下る。話し声で鉄心を起こさない為だ。
「こうしてアナタと二人きりになるのは初めてね」
間に鉄心やオリビアらが入って会話することは多々あったが。
「実際まだお会いして数日ですからね」
「数日……そうね。たった数日。だけど私の人生を劇的に変えてしまった数日間だったわ」
メローディアは流し目に丘の頂上を見やる。その劇の主役、王子と呼ぶには鮮烈にすぎる男を思っているのは明白だった。
「私も……ゴルフィールに来るまでは、予想もしなかった事の連続です」
「アナタは、色々と災難だったわね」
イヤミでもなく、本音から。数奇な運命に翻弄され続ける一つ年下の少女にメローディアは同情を覚えている。
「けれどその不運の中で一生モノの出会いがあった」
静かだが、美羽の声には力があった。感謝の域を超えた心酔の色を隠そうともしていなかった。中指で眼鏡の位置を直して、メローディアを真っすぐに見た。
「きっとメロディ様が彼から貰ったものも、言葉では言い表せないほど大きなものなんでしょうね。でも私も負けないくらい大きな恩を受けました」
「そう……でしょうね」
メローディアがそう答えて、スッと沈黙が下りた。平野からも丘の裏手(つまり洞窟の入り口側)からも魔族の気配一つしない。虫も鳥も居ないので、彼女らが黙ると一帯には完全なる無音が訪れる。ふと、本当に世界、人間界から断絶した場所で、たった三人きりなんだと実感してしまい、美羽もメローディアも、得も言われぬ心細さに襲われた。そして二人ほぼ同時に鉄心の方に歩もうとして、その無意識の行動をお互いに見咎めてしまい、
「ふふ」
と笑い合った。
「テッちゃんの顔が見たくなったんですか?」
「そっくりそのまま返すわ」
同じ男に惚れただけあって、実際、感性は似た所があるのかも知れない。
それ以上は互いに何も言わず、鉄心の顔が見えるくらいの距離まで丘を登り直し、二人でその安らかな寝顔を堪能した。それだけで先程感じた孤独感や不安が彼女らの胸中から嘘のように消え失せる。頼もしい、とは彼の為にある形容詞なのかと、そんな馬鹿なことまで美羽は考えていたが、
「思えば頼りきりよね。自然と彼の言う通りにしていれば大丈夫と思えるくらいに、ポンポンと何でも決めてくれて」
メローディアも同じような事を思っていたらしい。徹頭徹尾、鉄心はリーダーシップを執ってくれて、さらにその采配は殆ど間違っていない。さりとて頑迷という事もない。美羽の諫言にもキチンと耳を傾け、今は無理でも時間がある時は育成方針を考えると言明していた。つまり根底にあるのは自分の思い通りにしたい欲求ではなく、どうしたら彼女らをより良く導けるかを希求する弛まぬ温情。二人にも正しくそれは伝わっていた。
(もっともっと愛されるようにならないと)
叔母のアドバイスが念頭にあった。
(少しでも受けた愛情とか恩を返さないと)
養母のアドバイスが念頭にあった。
そして二人全く同じ感嘆に行きつく。人は人をこんなにも好きになれるものなのか、と。
朝が来た。と言っても太陽(?)は結局、この間微動だにしなかったので、その実感は三人には無かったが、ともあれ八時間の睡眠はとり終えた。
美羽がガスコンロにボンベをセットし、試しにつまみを回す。無事点火した。人間界の文明の利器がこちらでも使えた事にまずは一同ホッとする。次に鉄心が共用の大きなリュックサックの口を大きく広げる。そこから水のペットボトルと雪平鍋を取り出す。鍋をコンロに乗せ、そこに水をトクトクと注いだ。その間に美羽はレトルトのパウチとプラスチック食器を用意する。メローディアは二人をぼんやりと見ていた。
「……」
「……」
ああそうか、と二人ほぼ同時に気付く。この人貴族だった、と。
「メロディ様。あっちのリュックからパンを取って皆の皿に二個ずつ分けて下さい」
「え!? 私が!?」
メローディアは心底驚いた顔で、鉄心を見返した。
「日本には素晴らしい諺があります」
「何いきなり?」
「働かざる者、食うべからず」
ニッコリ笑顔で返す鉄心。
「ここはシャックスの屋敷ではないし、俺たちもアナタの家人ではありません。対等な友達です。そしてアナタは友達だけに働かせるような薄情な子ではありません」
「友達……」
メローディアは目から鱗が落ちたといった表情だった。
「嫌な女ね。身分や立場を笠に着るのを嫌っていながら、同じような事をしていたのかしら」
「いいえ。メロディ様は良い子です。本当に嫌な奴はそれを自覚できない。大丈夫。育ってきた環境が違うのは俺も美羽ちゃんも分かってますから」
手を伸ばしてメローディアの頭を撫でる鉄心は、とても優しい声音で続ける。
「それにね。折角の機会ですから、みんなで用意したご飯をみんなで食べるってのも経験して欲しい。アウトドアの醍醐味ですから」
確かに今回の魔界探訪は決して呑気なピクニックではないが、探索中や戦闘中は気が抜けない分、こういう時はなるべく楽しんでおいた方が良い、というのが鉄心の考えだ。
(やっぱホント頼りになるなあ。私だけだったら多分、波風立てたくなくて何も注意できずに自分一人でやってただろうな)
美羽も心の内で感心していた。そしてこの采配、頼り甲斐だけでなく、バランス感覚も優れていた。言うべき所はスパッと言って、だけどそれだけで終わらず、相手のバックグラウンドも理解した上で、新しい価値観も提案している。
「ええ! やってみるわ! レトルトのシチューね! 初めて食べるけど、きっと皆で作ればウチのシェフが作るより美味しいのよね?」
「いえ。そこまではならないですね」
「ええ!?」
そしてこの正直さも彼の美徳ではあるが、そこは乗っておけよと美羽は苦笑した。
シチューが出来上がり、全員で配膳して「いただきます」と手を合わせた。シチューにスプーンを突っ込み、掬って一口。
「あら、美味しいわ。シェフの物より美味しく感じるわよ」
メローディアが目を細めて笑う。美羽も一口頬張って丸い頬を更に丸くして笑っていた。
「これで朝日を拝みながらだったら完璧だったんだけど」
少し気温が下がる朝、一日の始まりに胸躍らせながら、気の合う連中と車座になってシチューを頬張り、体を温める。イメージはそれだった。
「ああ、それだったら風情あったのにね……このカンカン照りじゃあ」
美羽も同調する。現状はむしろ少し暑いくらいで、シチューの温もりも有難み減である。
「そう言えば、メロディ様は肉食べない人なんですよね?」
美羽が何の気なしに聞く。買い出しの時にメローディアに好みを聞いた時、肉を敬遠したのを覚えていたのだ。
「偶然だけど、昨日のナイトメアの死体見ちゃったから、私としても今日は肉入りじゃなくて助かりましたけど」
「あと、メノウのこと思い出しそうで、鶏肉はチョットな」
鉄心も乗っかり、二人で笑う。が、浮かない顔のメローディアを見て、笑いを引っ込める。
「……食べてから話すわ。きっとあまり楽しい話ではないわよ?」
目を伏せたまま彼女は静かに言った。




