第5話:貴族様
田中 万智は語学学校からの友人、松原美羽のことをよく知っている。少し周囲に流されやすかったり、友人が周りに居ると少しだけ気が大きくなる所もあるが、基本的には引っ込み思案の大人しい性格の少女なのだ。そんな子が今、怯えた表情で三人の貴族令嬢たちを見上げている。形の良い唇を震わせ「すいません」と消え入るような声で、それだけを紡いだ。
「は? それで済ます気? 何だっけ、日本のヤツ。ああ、土下座。アレしなよ、アレ」
「……」
「あーあ。制服が汚れたんだけど。お尻も痛いし」
ぶつかった女が、ゆっくりと立ち上がり、スカートを軽くはたく。そして瞳に燃えるような怒りを滲ませ、いまだ立てずにいる美羽を睨みつける。
「聞こえてんのか? なあ!」
もう一度怒号が飛んだ時、田中、上原、浜垣の三人が駆けつける。
「ちょっと、もう謝ったじゃないですか。やめてあげて下さい」
「ミウミウ、大丈夫? 立てる?」
田中が貴族三人娘に対峙する格好で、残りの二人が美羽を助け起こそうとしていた。気丈に振舞う田中だが、よく見れば足が小刻みに震えている。肩を貸して助け起こす二人も、この後どう逃げ出すかの算段を青い顔で必死に考えているようだった。
「ミウミウ~? ブーブーの間違いでしょ」
彼女のぽっちゃり体系を揶揄して、三人娘の間に嘲笑が巻き起こる。田中は悔しさに唇を強く噛んだ。
「誰か」
美羽が祈るように呟くが、平民の生徒たちは触らぬ神に祟りなし、と渡り廊下を迂回していく。集まって来た貴族連中は面白い見世物(平民の土下座ショー)を期待してニヤニヤと下卑た笑みを浮かべていた。救いの手はどこにもなかった。
「おい、ブーブー! いつまで待たせんだ!」
「……貴族の家には鏡もねえのか? どう見たってお前らみたいなブスより美羽ちゃんの方が可愛いだろ」
いや、救いの手はあった。呆れたような声で、汚物を見るような目で三人娘を見る少年がそこに居た。
「な……な……な」
鉄心のその台詞に、不遜な態度、不躾な視線。貴族と平民が逆転したかのような振る舞いに、どこから反応するべきか脳がショートを起こしてしまったようだ。その隙に、鉄心は四人に合図し、自分の後ろに避難するよう促した。彼女らも呆気に取られていたが、すぐさま意図を汲んで指示通りに動いた。と言っても、もはや貴族三人娘の意識からは美羽の事などとっくに消え去り、矛先は完全に鉄心へと移っていたので、そう慌てることもなかったのだが。
「殺しましょう。イザベラさん」
やがてショックから立ち直った一人が、今度は脳が焼き切れるような怒りを抑えながら言った。イザベラと呼ばれた少女が、これは事の発端の、美羽と衝突した少女だが、腰に差したレイピア(これが彼女の魔導具だろう)を抜いた。これで両者後には退けなくなった。対峙して近くで見ると、面長の顔に、こけた頬、ややしゃくれた顎が馬を思わせる。その顔が怒りで真っ赤に染まっているのだが、鉄心は構わず更に燃料を投下していく。
「俺も全然イケメンとかじゃないからアレなんだけどさ……正面だいぶキツいね、キミ」
瞬間、イザベラが大きく踏み込んで刺突を繰り出した。
勝負は一瞬で決した。いや、勝負と呼べる代物ですらなかった。イザベラは右手を抑えて苦悶の声を上げていた。レイピアには籠状になった護拳がついていたが、その性能も虚しく、恐らくは突き指、最悪指の骨が折れている可能性もある。肘にかかった衝撃も相当のものだったであろうことは想像に難くない。皮膚を破って骨が飛び出したと錯覚したかもしれない。
「何が……起きたの?」
声は浜垣のものだったが、この場にいる殆どの者の代弁でもあった。
とはいえ、鉄心に言わせれば非常にシンプルだ。刺突に対し盾を展開し押し込んだ。彼のしたことはそれだけだった。恐らくイザベラは実戦的な訓練はほとんど積んでおらず、フルーレ(練習剣)などの、衝突に対してたわむ剣と同じように魔導具を扱ったのだろうと鉄心は推測する。が、実態はもっと酷く、彼女の家名に忖度した相手や、明らかな格下相手としか戦ったことがないので、こうなっているのだった。控え目に言って彼女は自分を天才だと思っていた。なので彼女の人生において自分の刺突が相手に当たらなかったことなどないし、まして硬い盾で防がれるなど初めての経験だった。それが恐るべき反射神経で刺突に対して真正面に角度調整された、自分より遙かに格上の実力者の練氣の塊のような圧倒的質量をぶつけられたのだ。鉄心が最後に少しだけ角度をずらして右前方へ衝撃を逃がしてくれなかったら、冗談抜きに腕が砕けていた。
イザベラの魔導具たる細剣も切っ先が欠けていた。更に剣の中ほど辺りまで亀裂が入っている。魔導具は通常の金属とは大きく異なる。形状や、それの維持において、使用者の練氣の影響を受ける。つまり、彼女のレイピアが硝子のように脆性決壊を起こしかけているのは、練氣が尽きた、魂の内燃機関が止まった、完全に心が折れてしまった、ということを意味する。切っ先の損壊は純粋な力負けの結果だが、その後は彼女の心の弱さが招いた。
(こういう攻撃的な人間ほど恐ろしく打たれ弱いのは万国共通なんだろうか)
己の力(それも周囲が作り上げた幻だが)を過信し、相手の魔導具すら判別できていない状態で不用意に全体重を掛けんばかりに強く踏み込んだ失着。切っ先が折れたとて刃はついているのだから、斬りつける戦い方はまだ残されていたにも関わらず、早々に戦意を喪失してしまった惰弱。
鉄心は無意識に渋い顔を作っていた。このイザベラは制服のリボンの色から判断するに二年生。上級生でこの状況判断能力では、今回のゲートが出現した時に果たしてどれだけの人間が冷静に行動してくれるやら。戦えと言っているワケじゃない。それは鉄心の仕事だ。むしろ先程の四人組のように素直に退避してくれるなら重畳なのだ。問題は貴族連中が「おままごと」の延長で魔族との鉄火場に首を突っ込んでこないか、という一点。
気を取り直し、鉄心は左手を振る。ロウソクの火を消すような動きだった。彼の左手に嵌められた不似合いな銀のブレスレットは盾を展開している間、仄かに発光していたのだが、今のでフッと掻き消えた。パフォーマンスである。自分は盾使い・シールドマンですよと、オーディエンスに印象付けたかった。相応の実力がある者が見れば、ブレスレットは氣に反応して光るオモチャで、発動の瞬間、真に氣が集中していたのは彼の背中、ジャケットの下に挟んだ小型の二刀と知れたハズだ。二刀が一つ聖刀・匣。加護を与えた空間や対象への侵入・攻撃を阻む不可視の匣を生み出す剣技であり、普段は結界として使う事が多いのだが、腕に纏えば籠手にも応用できる。
「そこ! 何やってるの!」
甲高い女性の声で、場の空気が変わる。サリー先生が騒ぎを聞きつけ走って来たのだ。後から聞いた所によると、ミラのグループが職員室まで知らせに行ってくれていたらしい。
「これはどういうこと? 薊くん?」
「違うんです! 先生、これは私が!」
割って入る美羽に、鉄心は目顔で制止する。「ついてきなさい」と硬い声で言うサリー先生の後に、黙って従い、校舎へと入っていく。美羽は己の無力を感じながら、見送るしかなかった。
「貴族様だけお咎めなし? マジで狂ってるよ」
イザベラの方には救護の人間が駆け寄り、教員も気づかわしげに肩を撫で落ち着かせている。そんな様子を見て、田中が吐き捨てるように言った。