第42話:いざ魔界へ(後編)
夜の九時三十分。諸々の支度を終えた二人は、例の防音室(すっかり秘密の談義用の部屋として定着している)に入った。他の三人は明日でも良いのではないかと言ったが、美羽が今日と言った。明日に引き延ばした所で、どうせ今晩は眠れないだろうし、なら寝不足で乗り込むより今日のうちに、というのが一つ。もう一つは単純に明日もう一度覚悟を入れ直すのは精神的に辛すぎるということ。歯医者の予約を急用でずらさざるを得なくなった時の心境の一億倍くらいと美羽は例えていた。
鉄心も賛同した。美羽の気持ちを尊重したいという思いもあったが、何より先延ばしにしたところで事態が好転する見込みがないというのが大きかった。いや好転どころか時間を掛けるほど不利になるかもしれない。メノウの言を信じるなら乱獲派閥が人間界に捜査の手を伸ばすまでのタイムリミットがある上、餓魔草の効果も恒久的なものではないのだから。
二人が室内を見渡すと、既に見送りの三人は中で待機していた。オリビアは努めて感情を表に出さないようにしているらしく無表情。静流は泣きそうだ。メローディアは未だ心は納得できていないようで、悔しそうに顔を歪めていた。
美羽が背負っていたリュックサックを下ろし、中からドアノブを取り出す。予備も考え三個入れてある内の一つだ。皆それだけ出すのだと思っていたが、続けてリュックをゴソゴソ漁り、中からヘルメットを取り出した。どう反応して良いか分からない周囲を他所に、顎の下に紐部を通し、パチンと留め具を鳴らした。
「いや、それは……」
オリビアが言いかけたのは皆が思ったことだ。それは着けてても何も防げないと思う、という。だが間近で見る鉄心からは丸顔の上に頭まで丸くなって一層愛らしい。酒の席で中学は田舎の方だと言っていたので、通学時に着用していたものだろうか。鉄心は美羽のその丸い頬を指の背で軽く撫でてから、「さあ」と促した。美羽はしゃがみ込み、ノブを両手で包んだ。今から氣を注ぐのだ。
一同には一つ、懸念があった。餓魔草によって簡易の栓がされたという美羽の話だったが、氣を注ぐとなると、その栓が抜けてしまうのではないかという。もしそうなら、初回(つまり今回)で最悪でも餓魔草を再び手に入れるのが望ましい、ということになる。だが出来れば今回は偵察に徹したいし、罠であったなら即座に退却する心積もりでいたい、というのが実動の鉄心の意見だった。余計な欲をかいて身を危険に晒すのは本末転倒だと。
だがそこら辺は、杞憂に終わったようだ。何故なら、
「あ、これ凄い。栓をしたままバルブを捻る感覚っていうのかな。吸わせたい量だけ調整しやすくなってる? それか私が感覚を掴んだ? わかんないけど、大丈夫そう」
注ぎながら美羽が実況するのだが、それを聞くに餓魔草の効果は継続されているようだったから。
やがてドアノブがグニャグニャと形を変え、巨大化していく。メノウが持つトンファーも同じように変態し鞭となったが、この気持ちの悪い動きを経るのは彼の魔力の癖か何かだろうか。
三十秒ほど経った頃。ようやく動きが収まり、後には変哲の無いドアが残っていた。軽くニスを塗った木板にノブがついただけの非常にシンプルな造り。家具店やホームセンターで見るようなドアだけのサンプルを想起させる。鉄心が手を伸ばし、ノブを回した。この形態になると弾かれないようだ。押したが開かず、手前側に引っ張ると開いた。開いた先の景色は一面の緑。丘だろうか。背の低い草が斜面に沿って茂っている。
「あれ? 思ったより怖くない?」
美羽の声が明るい。どうしても魔界というとペンペン草の一本も生えない荒野に毒の川が流れていたり、そんなイメージを抱いていたのだろう。それが実際は爽やかな高原だったワケだから、少し警戒度が下がったようだ。別に地形と危険度は連関しないのだが。
ふう、と大きな音がして、皆の注目が鉄心に集まる。大きく深呼吸をしたようだ。ここまで平素と変わらない様子だったが、その内面では静かに臨戦のメンタルを整えていたのだ。「よし」と短く言うと、美羽の手を取り、顔を見て頷く。いざとなると強張った顔をしていた美羽だが、鉄心は構わず手を引き、二人一緒に扉の景色の中へと飛びこんだ。「あ!」と声を上げたのはオリビアだったか、静流だったか、それすらも遠く、二人の身体は遂に魔界へと降り立った。
ただただ衝動に突き動かされた。直前までは本当に見送るつもりだったらしく、その突発的な心変わりはオリビアにも見抜けなかった。或いはもう少し彼女を知る時間があれば、この猪突猛進な側面も警戒できたのかも知れないが。
離れていく鉄心の後ろ姿がメローディアの胸を激しく締め付けた。もしかするとこれが鉄心との今生の別れになるかも知れないという恐怖と切なさ。彼の笑顔を、優しさを、強さを、もう見ることすら叶わずに過ごす残りの人生を瞬間的に幻視した。悲惨なものになると直感した。奇しくも美羽が抱いた虞と同じものだった。
カーテンの陰に隠していた、槍を入れたケース(見送るつもりではいたが、もしかすると土壇場で同行を許可されるかも知れないという乙女のいじらしい期待から用意していた)を引っ掴み、大人二人が止める間もなく、鉄心たちの後に続けて飛び込んだのだ。鉄心が聞いた「あ!」という驚きの声は静流とオリビア両方の声だった。二人は慌てて駆け寄ったが、ちょうどそこで扉が蜃気楼のように消え失せた。後にはドアノブすら残っていない。如何なカラクリかと訝るより先に、とんでもないことになったと顔を青くした。最悪この国の公爵家が一つ無くなる。
「どう……しましょう」
「どう……も出来ないでしょう」
そんな意味のないやり取りを最後に部屋に沈黙が下りた。それはもう長々と。防音室の性能が宝の持ち腐れとなる程に。
草原に降り立った二人は、すぐさま一塊となって周囲を警戒した。鉄心は刀の鍔に手をやったまま、匣を展開しつつ、靴で下草をにじるように旋回し、三百六十度のクリアリングをする。
「何も居ない?」
麓から丘を見上げても頂上に背の高い木が一本ぽつねんと生えているのみ。また後ろを振り返り見渡してみても、草原が広がるのみ。遠くに馬が何頭か群れ成しているのが見えるが、その更に先となると森が広がっているらしく、地平線までは確認できなかった。そして美羽の言う通り近くには何の気配もしないし、設置型の罠なども見当たらない。もちろん一歩進めば地雷が埋まっている可能性はあるにはあるが。
「あ!」
美羽の大声に鉄心は慌てて彼女の方を向く。聖刀も抜き放っていた。しかしそれは用を成さない。美羽が見ていたのは自分たちも通ったドアから一人の少女が出てくる様子だったのだ。
「メロディ様!?」
顔を見て美羽が吃驚する。鉄心は少女の姿を穴が開くほど観察した。容姿は間違いなくメローディア。服装もつい先程別れた時と全く同じ。それでも警戒を完全には解いていない。
「メロディ様……ですか?」
問われ、メローディアはバツが悪そうに頷く。その動きにつられ内側に巻いた金の毛先がふわりと揺れた。これも今朝方、鉄心が手に取ったそれと全く同じに見える。
「今朝、何食べました?」
「え? 美羽が作ってくれた和食よ」
てっきり怒られると思っていたメローディアは全く場違いな質問に一瞬虚を衝かれるが、すぐに答えた。言い淀むような間はなかった。
「具体的には?」
「ええと……ウインナーを開いて焼いたものと、オクラの味噌汁と、卵焼き、あとは……」
そこで彼女は少し恥ずかしそうにはにかむ。雛鳥のように餌付けされたことを思い出したのだろう。その反応だけで十分だった。
「オーケー。もういいです。つまり……追ってきたんですね?」
質問形式にはなっているが、答えは求めていない。というより、今の状況が揺るぎない答えだ。
「え? え? どういうこと? 今の質問って何だったの?」
美羽だけ状況が分からず、鉄心とメローディアの顔を交互に見る。
「……敵の幻覚攻撃とか、そういうのを警戒したんだよ。それくらいありえないことだし、あってはならないことだからさ」
美羽に答える体だが、実際はメローディアに対するたっぷりのイヤミだった。特に後半は完全に彼女の顔を見ながら言っていた。
「うぐ」
「悪い事をしたとは分かっているようですね? 何故こんな無茶を?」
鉄心は静かに怒っていた。その怒気はメローディアにも確かに伝わっているらしく、ほとんど泣きそうな顔になる。そして感情は千々に乱れた。
「だって! だって、最悪もうこのままアナタに会えなくなるかも知れないって! そんなの私耐えられないわ!」
「え?」
予想外の返答、だったのは鉄心だけで、美羽は何とも言えない表情だ。何故こんなことをした? と鉄心が問うのはあまりに酷で朴念仁としか言いようがなかった。
そんな一瞬の虚を衝くように横手から声が掛かる。
「やあ。お取込み中のところ邪魔をする」
メノウだった。不覚を取った鉄心はすぐさまメローディアも力任せに抱き寄せ、匣の中に入れる。そして自分が一番前に出て聖刀を構えるが、メノウはまたも諸手を上げて敵意なしのポーズ。
「そう警戒するな。襲うつもりなら声など掛けない」
それは尤もだ。
「ともあれ。ようこそ魔界へ」




