第32話:烙印に関する考察(前編)
どんちゃん騒ぎから明けて翌朝。
オリビア・ケーヒルはシャックス公爵邸の長い廊下を一人で歩いていた。結局、昨晩は宴席での戯言では終わらず、松原美羽、薊鉄心と共にゴルフィール王国の公爵が一人、メローディア・シャックスの邸宅に厄介になったのだった。最終的には鉄心が提案を飲んだ形だ。彼としても、酒の入った美羽と二人きりで自宅に泊まって間違いを起こさない自信が無かったのかも知れない。
毛並みの良いスリッパがフローリングを擦る音がやけに大きく聞こえる。家人たちは起きている時間だと思われるが、厨房で料理か、家主の朝の支度を手伝っているか、とにかく姿は見えない。
しばらく歩き、地下シェルターの入り口がある部屋に辿り着くと、オリビアはドアを開けた。部屋の中央、床のハッチが開きっぱなしになっている。耳をそばだてると、ダーン、ダーンと微かな音が拾える。
「相変わらずストイックだな」
苦笑交じりに独り言ちて、階段を降りていく。すぐに地下シェルター、というより巨大な地下室と言った方が正確か、だだっ広い空間へ繋がった。
そしてその中央に薊鉄心、彼女の部下が居た。昨日は大立ち回りを見せ、六層・七層の魔族を一時に相手し、殲滅せしめた、学園防衛のMVPである。今日くらいはのんびり体を休めているかと思えば、早朝から真剣を振るって稽古に励んでいた。規則正しく一定の間隔で、ダーンという踏み込みの音がシェルター内に反響する。大粒の汗を見るに、既に筋力トレーニングも済ませているのだろう。あまりに勤勉である。
昨晩にしても結局、彼だけは一滴も酒を呑まなかったし、帰り道も常に周囲をそれとなく警戒しながら歩いていた。勝って兜の緒を、他の三人の分まで締めていたのだ。齢十七にして超一流。強いワケだ、とオリビアは思う。扱いきれない所も多々あるし、理解不能のこだわりに頭を抱えることも数えきれないが、それらを覆い隠すほどに眩い剣士としての華があった。戦闘技術の華麗さだけでなく非戦闘時すら抜身の刀のように鋭利な生き様も含めての華だ。つまる所、上司であると同時、恥ずかしながら、彼のファンでもあるのだろう、とオリビアは自己分析している。正直、あと三十歳近く若ければ、美羽やメローディアと同じく目をハートにして彼の戦いを見つめていた可能性は全く否定できない。
「ああ……オリビアさん」
そのうち視線に気付いた鉄心が、脇に置いておいたタオルを拾い上げてから上司の下へ歩いてくる。軽く朝の挨拶を交わすと、オリビアは小脇に抱えていたノートPCを床に置いて起動する。
「ちょっと、公爵のお嬢様と美羽くんが居ない間に話しておきたいことが幾つかあってな」
「ええ」
半ば予想していたらしく、鉄心は顎の汗をタオルで拭いながら鷹揚に返事する。
「まずは昨日の検体の査定が上がっている。マンティコアは3億、サイクロップスは1億5千か。腐敗狼たちは、損傷が激しいのもあって、まとめて百万程度だな」
いずれも円換算だ。そしていずれも妥当な値だったらしく、特に鉄心の表情は変わらない。
「血も幾らか回して貰えました?」
「ああ。そっちは午後、事務所に届く」
魔族の血はハゲ呪術に必要だ。真っ先に確認する辺り、ブレがない。
「前も聞いたかもしれないが、自分の血ではダメなのかい?」
「俺の血を使っちゃうと、多分強すぎるんですよね。対象がハゲるだけじゃ済まない可能性が」
術者より力の上回る対象には効かない、どころか呪詛返しを受ける可能性もあるのが呪術の常だが、逆も然りで、あまりに弱い者を全力で呪えば、苛烈な結果をもたらしかねない。そしてそれはハゲ呪術の理念(殺さない範囲で痛めつける)に反する。加えて今は例の確変状態の事もある。鉄心には原因も発動条件も見当がついていない以上、媒体を強力なものに変えた上でブーストが掛かる可能性もあるのだ。そうなると対象だけでは受けきれず、周りの人間にまで類が及ぶ、なんて可能性も有り得るかも知れない。軽い気持ちで試すのは憚られる。
「なるほど。じゃあやはり当分は要るみたいだな」
首肯する鉄心。
そこで少しの沈黙が訪れる。場の空気自体も少し変わった。世間話の延長レベルはここまで、という雰囲気だ。
「で。予報のズレに関しては?」
前置きも無く本題に斬り込む鉄心。
今回のズレは明らかに異常だった。昔なら兎も角、予報の確度は日進月歩、四日以上早まるなど通常は考えられない。何らかの外的要因があったのではないか、と鉄心は睨んでいる。
「まだ正式には何も」
オリビアは首を横に振りながら、
「ただ、少し繋がるものがあってね。少々荒唐無稽に聞こえるかも知れないが……」
要領を得ない話をする。同時、ノートPCが立ち上がったようで、床に座って操作し始めた。隣に座った鉄心にも見えやすいように角度を調整してから、動画の再生ボタンを押した。
動画は再生時間としては十数秒程度の非常に短いものだった。しかし問題はその内容だった。
背景から察するにどこかの山間。景色を撮っていたのだろう。そこで突如として空間が揺らぎ、ゲートが顕現しかけたかと思うと、そこに二重丸で囲われた五芒星と、その中央に閉眼した瞳の模様が浮かんだ。そして次の瞬間、ゲートごと掻き消えた。撮影者も動揺しているのかカメラが地面や空を映し、消えたゲートを探しているようだ。彼は民間人らしいが、楽しいピクニックが唐突に死出の旅へと変ずる恐怖を味わいかけた所で、再び何事もなかったかのように平穏を取り戻したのだから、感情のジェットコースターとしか評しようのない心中は察して余りある。動画はそこでシークバーが右端に到達した。
そのバーの途中をクリック、模様が浮き上がった箇所で一時停止し、鉄心は食い入るように画面を凝視する。
「動画自体は、はぐれゲートの出現の瞬間をたまたま捉えたもの、になるハズだったが」
「その主役たるゲートが何故か忽然と消えた」
オリビアの言葉を引き継いだ鉄心が画面から目を離さないまま呟いた。
「その模様と一緒に、な」
そしてオリビアが締め括る。
「ちなみにこの動画は、例の知己だと言う研究者が?」
ああ、と短く答え、オリビアは別窓でメールソフトを開く。受信ボックスの一覧の中から最新のメッセージをクリック。受信時間を見るに深夜。時差も考慮すると、かなり迅速に調べてくれたことになる。サブジェクトの下にある添付ファイルが先程の動画だと言う。
本文、つまり研究者の見解は以下の通り。
動画にあるゲートは予報外であり、突発的な所謂「はぐれゲート」(非常に小型のものでサポートの探知網から漏れやすい。下層の魔族が極少数吐き出されるのが一般的だ)に分類されるものである。ゲートのメカニズムの全容は未解明だが、魔界と人間界の位相が局所的に重なった時こちら側へ顕現すると考えられている。魔界側で用意されたゲートが徐々に徐々に人間界へ近づいてくるイメージだ。予報はそれを遠目にクレヤボヤンスすることによって可能となっている。必然、大型のゲートの方が目立つので見つけやすいが、逆に小型の物は探知しにくい。サポートの探知班も人間がやっているのだから、どこにいつとも知れないゲートを探して国全部を網羅しきるのは難しい。現状は大型の、被害が大きくなりそうなものさえキチンと発見できれば優秀という評価だが、今後はこういった「はぐれ」に関しても手を講じたい。
「……本題までが長い」
鉄心の苦言に、オリビアも鼻を鳴らす。
「研究者ってのは大体そんなもんだけどね。興味のないことには一言二言しか返さないくせに、自分が研究している分野となると狂ったように喋る」
実感がこもっている。鉄心は内心で上司をねぎらいながら、文章を流し読む。すると段落が変わった辺りで話も進んだ。
この動画内の「はぐれ」に関しては十傑ないし彼らに準ずる知能を有した魔族が魔界側からキャンセルをかけたと考えるのが妥当である、と記述されている。
「キャンセル。そんなことも出来るのか?」
鉄心の疑問の答えはすぐ下に書かれていた。
理論上は可能である。そもゲート自体が彼らの魔力(我々で言う所の氣)を注ぎ込んで作られていると推測されているのだから、蓄えられた魔力を霧散ないし封印させる方法があるのなら、ゲート自体が消滅しても何らおかしくはない。その方法と思われるのが動画内にあった例の特殊な模様の魔法陣である。
魔族が用いる魔法陣には人間にも直感的に効果が理解できるものも多くあり、この場合だと閉じた目が意味する所は即ち魔力も休眠状態に移行したという解釈が適当と考えられる。つまり瞳が半開きという事は、その休眠状態が目覚めかけているという徴を意味するのだろうか。サンプルが少なすぎる故、かなり憶測が混じるが……描いた魔法陣が発動すると休眠した魔力と共に不可視化する。その魔力が何らかの要因で目覚めかけると、それを知らせる為に再び可視化する仕掛けが施されているのでは。
以上が研究者の推論らしかった。




