第25話:胸の烙印
「これ、ニ日くらい前に突然浮き上がってきて。こんなのがあるから……これ、消えませんか? 消す方法、知りませんか?」
後半はオリビアへ。縋るような美羽の視線に耐え切れず、オリビアは「すまない」とだけ小さく返した。十傑の言う烙印がそれなのか、そうだとしてその烙印にどんな意味があるのか、全く見当もつかないのに、安請け合いは出来なかった。
「そんな……」
美羽の膝がカクンと力を失い、そのまま鉄心の方へ倒れ込んでしまう。血が足りない所へ、興奮しすぎたのもあるだろう。乳房の間に鉄心の顔が挟まる形になり、濃密な女の香りと窒息状態に彼は頭がクラクラする。本能とは言え、この非常時に不埒な思いがよぎる自分が酷く不誠実に思えた。
「テッちゃん……怖い。怖いよ」
だが美羽の余りに弱々しい声に、鉄心も自然と邪念が消え去る。膝立ちになり、逆に彼女の頭を胸に掻き抱いた。大丈夫、大丈夫、と繰り返しながら、昨晩のように頭を撫でる。オリビアはそんな二人の様子を見て迷ったが、一つの提案を持ちかけることとした。
「私は門外漢だから分からないが……」
近づいてきて、美羽の前にしゃがむ。手にはデジタルカメラを持っていた。
「その胸の模様を撮らせて欲しい。魔族研究のエリートに伝手があってね。何か分かるかも知れない」
ついさっき消す方法を知りたがっていたし、てっきり二つ返事でオーケーすると思われたが、美羽は何か思い直したのか、不意に脱ぎ捨てたスウェットを掴んで、胸を庇うように被せ持った。
「あの……それって人体実験とか、そういうのに」
「あー。なるほど」
これは鉄心の相槌だ。確かにそういう危険も考慮しなくてはならない。魔族は恐ろしいが、人間だって負けていない。
「ママにも相談したんだけど、今週末会った時に詳しく見て話そうって。まだ医者や研究者に話すのは少し待とうって。モルモットにされるかも知れないから。だいぶ悩んだけど、何か症状が出て、どうにもならなくなった時の最終手段にするべきかもって」
「……お母さんも、それが魔族絡みだと思ったのかな?」
「うん。ママもサポートで働いてて。こういう呪い? みたいなのを受けた人を見たことがあるって。そしてその人は研究機関に連行されて全然戻って来ないって」
そこまで自分で言って、美羽はハッとする。
「もしかして、オリビアさんも知った以上、報告する義務があるとか?」
鉄心に抱きつく力が更に強くなる。オリビアは苦笑。いつの間にか悪者にされている格好だが、不用意に被害者を掻き回してしまった報いと思えば、詮もない。
「そんな義務は無いから安心してくれ。私の本来の仕事からは完全に逸脱した領分だからな」
肩をすくめ、両手を挙げて降参のポーズ。
「撮影だけして、美羽くんの名前も出さず、こういう模様に見覚えがあるか聞いてみるだけにするよ。それなら良いかい?」
判断つきかねるのか、美羽は鉄心の顔を見た。
「……オリビアさん、その伝手の研究者は、倫理的に真っ当な人ですか?」
「キミがそれを聞くかね。キミよりは全然イカレてないよ」
笑いながら返してくる。美羽としてはキョトン顔だ。彼女は鉄心の貴族クラスでの振る舞いやハゲ呪術の事など知らないので当然の反応だろう。
「うーん。美羽ちゃん、オリビアさんは人の命に関わるような騙し討ちはしない人だよ。上手いこと、さり気なく探ってくれると思う。預けてみたらどうかな?」
実際問題、美羽自身が言っていた最終手段に打って出る時なのかも知れない。病魔のように直接的に蝕むワケではないが、十傑が狙ってくるファクターであるなら、命の危険度ではさして変わらないだろう。事ここに至っては放置は難しい。
「……そうだね。怖さはあるけど、今のままだって危ないのは変わらないんだよね」
鉄心の庇護下、普通の生活に戻れた気になっているが、三秒後には魔族に囲まれているという可能性もゼロではない。薄氷の上の平穏かも知れないのだ。
「あの、お願いします。オリビアさん。それと失礼な態度だったかも知れないです。ごめんなさいでした」
鉄心もオリビアも少し意表外な顔をする。動揺覚めやらぬ、いや仮に平常な精神状態であっても魔界十傑に狙われているかも知れません、なんて言われれば誰だって余裕をなくすのが普通だ。自分の事で手一杯になっても何らおかしくないというのに。鉄心はついつい、美羽の頭を撫でてしまう。やはり優しい子だ。自分の見立ては間違っていなかった。こういう子を守りたいと強く思う。
「あー、ゴホンゴホン」
オリビアのわざとらしい咳払いで、鉄心も手を止める。美羽も何の抵抗も無く体を預けていた自分に気付き、そそくさと距離を取った。
「まあ私が言うのも何だが、良い落としどころだろう。その模様が十傑の言う烙印かは確証があるワケではない。だが状況証拠的に無視できるレベルでもない。なら最終手段の一歩手前、匿名で専門家にオピニオンを求める」
オリビアがまとめる。今度こそ、美羽は前を隠さず、彼女に写真を撮らせた。当然、顔が映らないように角度は調整されている。デジカメの画面で確認すると、そこはかとなくエッチに見え、鉄心は自分を戒める。医療現場で撮る患部写真や創部写真のような物だろうに、邪な感情を抱くとは、と。
「あの……なんか顔が映んない分、いやらしいお店のみたいで」
「そうだな。やはり模様だけのスケッチにしておくか」
「……」
遠い目をする鉄心。いやらしさ云々はさて置き、実際、冷静に考えると写真まで持ち込んでしまうと、患者とも撮影が出来る関係とバレる。スケッチなら思い出しながら描いた風を装い、出処がどこかボカせるかもしれない。虫の良い話だが、今はリスクを考えると美羽の情報はなるべく秘匿しながら、模様の情報だけ最大限欲しい。
「ところで、鉄心?」
「はい?」
「いつまでここに居るんだ。部屋の外で待っていなさい」
「なぜ?」
「何故って、美羽くんは上を脱いでいるんだぞ? デリカシーというものが無いのか?」
「え!? いや、だって、さっきまで普通に」
「テッちゃんのエッチ」
「ええ!?」
さっきまでは非常事態、状況が落ち着けば非常識、ということらしい。理不尽を感じながらも、鉄心は言われた通り、マンションの廊下で待ちぼうけるのだった。
十五分ほどして、部屋の戸が開き、オリビアが出てきた。
「終わりましたか」
「ああ。後で必要な物を買って届けるから、また来るが」
「ん? 何だったら自分たちで買いに行っても良いですよ? 美羽ちゃんも家の中に缶詰じゃ辛いでしょうし」
「……そういう所だぞ」
「何が」
「彼女、アレの最中らしいじゃないか。生理用品も一緒に買いに行くのか? 当座の下着も」
「……」
これ見よがしに盛大な溜息を吐かれてしまった。なるほど、鉄心の気が回らなかったらしい。
「というか、彼女はいつまで俺の所で保護になるんでしょうか」
「そのことなんだが……実はキミには、今回のゲート、当初のヤツな、その件が終わったら一か月程度のバカンスを、と考えていたんだよ。つまり、その予定していた余暇をそのまま警護に当てるという形で、ゴルフィールに残って、その一月の間に十傑の件も片付けてもらうってのが……」
「それだと俺のバカンスが消失してるんですが?」
「悪いとは思うんだけどね。ただ、美羽くんに我々の組織に依頼できるほどの財力は無いだろうし、後はもうキミが見捨てるか、無賃労働をするかの二択みたいな?」
ひどい話もあったものだ。実質は一択だろうに。流石に美羽を見捨ててバカンスを楽しめるほど鉄心は腐ってはいない。
「……是非もないですね。ただベタ付きで警護となると、住む場所やら、どうしましょうかねえ。流石にこの狭いマンションで二人暮らしはマズイでしょ」
「まあ私としてはキミのプライベートにまで干渉する気はないが……スキンも一緒に買って来てやろうか?」
地味に下世話な上司である。
「冗談になってないですって。正直さっき裸の胸に顔うずめた時ヤバかったですからね」
そして鉄心もつい乗っかってしまう。
「アレは……G寄りのFだな」
「マジかあ……じゃなくて!」
閑話休題。
結局、サリー先生らとも連携し、美羽は急遽母と暮らすことになったとし退寮、実際は鉄心と同居するという流れで決まった。当然、彼女の母親にも事情を話して協力してもらうことになる。サポート職に就いているということは、守秘義務を確実に守れる人なので、洗いざらい話しても大丈夫だろうとの算段。住居に関しては、もう一回り大きなマンションを会社で都合できないか稟議にかけてくれるという事だった。
(まあ、通らないようだったら、もう最悪辞めても良いんだけどね)
愛社心があるワケでもないし、正直、女の子に囲まれてチヤホヤされる学校生活を鉄心は気に入っている。貯金も十分すぎるほど(彼ほどのアタッカーなら桁違いの報酬を得ている)あるので、自費で分譲マンションを購入しても良いかも知れない。
二階の共用廊下の手摺に肘を乗せ、小さくなっていくオリビアの車を見送りながら鉄心は考える。十七歳。鍛錬と修羅場を潜り続け、ここまで来た。またそこへ戻るなら、「普通の学生」をやる機会は、今後もうないだろう。今が人生の分岐点、なのかもしれない。




