第139話:世界の異分子
最悪の想像をして一人、冷や汗を垂らすノエルを他所に。対面の鉄心は、美羽が入れてくれた日本茶を緩慢な動作で一口だけ飲んだ。ノエルはその一挙手一投足から目を離すことが出来ない。圧倒的な存在。比類なき暴力装置。自分の命運など、彼の胸先三寸である。
女王はほとほと思い知る。ただの一個の人間として自分はあまりに弱い、と。王位への畏怖、年長者への敬意、権力への怯懦……こういった無形のシールドが自分を守っていた。だが目の前の、この薊鉄心にはそういった物を顧みる精神性が一切感じられない。
王位? ただの人間が冠を被っているだけだろう。
年長? 敬える質が伴わなければ寧ろ馬齢を重ねただけ侮蔑の対象だ。
権力? 暴力に如かず叩き潰せる。
そんな生き方をしているのが、自ずと察せられてしまうのだ。
「きっと……きっとアナタのような人が、世界を変えてしまうのでしょうね」
ノエルは気付けば口に出していた。媚びたかったワケではない。純粋に、そう理解したのだ。世界のルールに、今まで人類が培ってきた伝統に、従わない人間。まあそういう個は時折生まれたとしても、99・99999(以下省略)%、世界に圧され、潰される。当然だ。力関係があまりに違う。だがここに天文学的数字としか評しようのない確率で生まれた存在がいる。力関係が彼>世界となっているバカげた存在。あるいは人は、それを神や悪魔と呼ぶのかも知れない。そして彼はきっと、どちらにも振れる。
その善悪定まらない、しかし超越者としか評しようのない彼は、つまらなさそうに鼻を鳴らした。
「知らないな、そんなもの」
バッサリ切り捨てる。事実、彼にとって世界はそれくらいの価値しかないのだろう。
「俺がアンタをここに呼んだのはビジネスの話と、その前に……四年前のことを聞くためだ」
昨日のメローディアの私信でも示唆されていたように、やはり彼はその話題をご所望らしかった。ノエルは頭をフル回転させる。どう対処すべきか。どこまで話して、どこまで秘すのが正解か。これほど窮するのは、それこそアックアの大虐殺の後、夫の件で世間から指弾されたとき以来だろうか。
(……息子だけは守らないと)
たとえ、後から情報の隠匿がバレて、鉄心の怒りを買うことになっても。そこだけは最終防衛ラインだ、と。この少年にあの事を知られるワケにはいかない。母として、王家の血筋を守る者として。そんな不退転の覚悟は……しかし、鉄心の続く言葉で呆気なく粉砕される。
「あの惨劇の日。我先にと逃げ出した、やんごとなき身分の者が二人いるんだが……誰か知らないか?」
ノエルの全身が総毛立った。鉄心の瞳は、木のウロか何かと見紛うようだった。この伽藍洞に、いかな感情が宿るのかは彼女次第だ、と。察してしまった。
「あ……そ、それ……は」
意味のない言葉がノエルの口から漏れていた。無意識だった。激痛から零れる呻きにも似ている。
「そいつらを乗せた車がドラゴンの魔力塊を受けて、横転。その怪我の手当、事後処理のために人員が割かれた」
「……」
両腕で己の体を抱いたノエル。ソファーに座ったまま、体をくの字に曲げた。マトモに座っていられなかった。祈るようにも、額づくようにも見える、そんな女王の痛々しい姿は、幼少より付き合いのあるメローディアをして初めて見るものだった。
「それが無ければ、体制はガラリと変わっていただろう。親父がもっと速く、きい兄と合流できていたハズだ」
「……」
「なあ、陛下。神輿ってのは本来、担いでくれる衆が居なければ成り立たないハズじゃあないのか? その衆を蔑ろにして、一体その神輿は一人歩きでどこへ行くつもりだったんだろうな?」
「……」
質問は続いているが、その実、問い掛けではなかった。踏み絵を渡されているのだ。とっくに調べはついていて、容疑の段階などではなかった。
「……なあ、知らないか? そのハリボテの神輿に誰が乗っていたのか」
「……赦して、赦して下さい」
美羽が思わず割って入ろうかと身を乗り出しかけるが、メローディアに目で制された。彼女すら知らない真実が、きっとあるのだ。貴一のみならず母・エリダの助かる道も塞がれてしまっていたかも知れない、となれば。おばとは言えど情けをかける前に、真相をその口から語って欲しいと、そう思うのだった。
「……」
「……誰だ? 言わないのなら、俺の独断で始末するぞ」
「待って! 待って下さい! い、言います。言いますわ!」
もはや、どちらが王か分かったものではない。思えば鉄心は最初から慇懃の「い」の字も見せることはなかった。それが意味するところは、即ち既に不誠実な行いをされているということ。鉄心の基本スタンスは鏡。誠実には誠実を、不誠実には不誠実を、である。
「……」
「……」
「……」
鉄心、美羽、メローディアが見守る中、ついにノエルの唇が開かれた。
「元夫と…………ワタクシ、ですわ」
絞り出すように、それだけを告げる。
「ナメられたモンだな」
鉄心が軽く嘆息し、ゆっくりと立ち上がった。美羽とメローディアは、あの災厄の中、本当に王族が尻尾を巻いて逃げていたという事実に打ちひしがれていた。ゆえに一拍、遅れてしまったのだ。彼女らが気付いた時には、鉄心が対面のノエルの胸倉を掴んでいた。太い二の腕が女王の豊かな乳房を潰すように食い込んでいる。
「あ……ぐ……あ」
首が締まるのか、ノエルの顔は一瞬で真っ赤になっていた。
「鉄心!?」
「テッちゃん!?」
妻二人が組みつくように、鉄心の腕を掴むがビクともしない。
「詳細を知らない可能性に賭けたのか? 俺が絞り切れていないと?」
更に強く掴まれた服がグシャグシャに皺を作る。
「そんな薄い可能性に賭けてしまうのは、親の性ってヤツか? 無能のガキを無理に王位に就けたところで国が滅ぶぞ?」
鉄心を止めようとしていたメローディアの手から力が抜ける。彼女の夫は今、とんでもないことを言っている。
やがて鉄心は手の力を緩め、押し込むようにしてノエルの体をソファーに戻した。途端に咳き込むノエルの背を美羽が優しく撫でる。それは間違いなく優しさからくる行動だったが、女王にそう気安く触れられている時点で、既に「ただの年上の女性」のレベルにまで、無意識下でカテゴリーが下がっている証左でもある。そしてメローディアの方はもっと酷かった。母エリダを間接的に殺めたのは、この女王の夫と息子。そういうことにならないだろうか。最悪でも、自分には話してくれるべきだったのではないか、と彼女は思う。仮にもノエルから見れば親友とその娘。為政者としての仮面を外して、ノエル・ディゴール個人として、誠意を見せて欲しかった。
ギチッとメローディアの奥歯が鳴った。やりきれない。鉄心は胸中にこの真実を抱えていたのだ。それはなるほど、今までの態度にも得心がいく。ノエルに対する感情が、複雑を通り越して自分でも全く分からないものに変容していた。恩義は感じている。女王は常に優しかった。だがそれは彼女の身内の不始末がメローディアから親を奪ったから、ではないか。王弟の下卑た色欲から自分を守ってくれた。だが今、冷静になって思えばアレも女王の身内である。
「……」
女王自身は嫌いではない。だがその周りがあまりに酷い。それは彼女自身の監督能力の欠如が招いているのではないか。不意に涙が溢れる。鉄心を止めようだとか、彼はやりすぎだとか、そういう気持ちは微塵も湧いてこない。むしろ深層心理では、自分の分も怒ってくれているとさえ感じて、女王への複雑な想いの反動のように、彼への愛が深まるばかりである。今晩も抱いてもらおう、そんな場違いな事まで考えてしまっていた。一種の逃避かも知れないが。
「……はあ、はあ」
やがて息が整ってきたノエル。泣きそうな顔で鉄心を見上げた。
「どうして」
「知っているのかって? アンタの元旦那に聞いたんだよ」
ノエル、そしてメローディアも息を飲んだ。美羽だけ事態が分からず、半開きの口で鉄心を見た。
「……鉄心、アナタ」
ルウメイ皇国の皇室は、ほとんどが何者かに暗殺されている。ノエルの元夫も行方不明、という事だが、恐らく生きてはいないだろう、とは大方の見立てである。
「……」
下手人は見つかっていない。常軌を逸したレベルの暗殺者だろうと、専らの噂になっていた。まあ同情を得られるような皇族でもないため、誰も強いて突き止めようとは思わなかったのも、迷宮入りに拍車をかけている要因だろうが。
そして今、魔界の三層でその犯人が罪を自白したワケだが……残念ながら逮捕できる人間も、裁ける人間もいないのだった。
「ノエル。俺としては如何なバカ息子とは言え、アンタが子を守ろうとしたことは評価したい」
それなら胸倉を掴んでやるなよ、というツッコミは彼には野暮である。
「だがそれは母としての評価だ。逆に為政者としては褒められたモンじゃない」
それは言われるまでもなく、ノエルも自覚している。我が子が王の器にはないことも、彼の罪を庇う行為が国政に与る者として不適切だとも。
「ノエル。全てが終わったら……その位を禅譲しろ。そうすればアンタと息子の命の保証はしよう」
「え?」
「シャックス公爵に王位を譲れ」
勧告を超え命令に近い声音。全員が言葉を失った。




