第138話:手荒な招待
鉄心はトレーニング、美羽は匣の練習、メローディアも基礎体力強化、と。夫婦三人は仲良く体を動かして、午後までの時間を使う。魔界の空気は意外にも澄んでおり、天候も穏やかなため、心地よい汗を流せたのだった。そのうち起き出してきたメノウとサファイアが窓からその光景を眺めていたのは完全に余談だが。
そして午後14時55分。ノエルを迎えに行く時間になった。素晴らしい事に、洋館には魔界時間と人間界の時間それぞれを計時する時計が備え付けられているため、きっかり5分前行動が可能だった。
サファイアがゲートを作ると、そこにメローディアが飛び込む。繋がった先は女王の私室、執務机に座っているノエルの背後だった。ここまで正確に、寸分の狂いもなくゲートを出せるのは魔界広しと言えど、このサファイアだけである。
「……遅いわね」
女王が独り言ちた。いつも約束の5分前には到着する几帳面なメローディア。なのに今日は未だ王城に入ったという連絡すら来ていないのだ。まさか何かあったのではないか、とノエルがいよいよ心配になって、内線の受話器を取ろうと手を伸ばした、その時。
「おば様」
「ひゃああああ!!」
突然、無人のハズの私室に聞きなれた声がして、ノエルは女王にあるまじき悲鳴を上げた。鉄心にコッソリ後ろから胸を揉まれた時の美羽と同じような声を出している、とメローディアは可笑しくなった。女王に対して、大国の舵を長年にわたり執り続けてきたことへの敬意は当然持っているが、いわゆる無形の権威というものを畏れるメンタリティが薄れているのをメローディアは自覚する。不敬というより、おば個人を見るようになったというか。今も、可愛いなと思えたくらいで、決して悪い事ではないと彼女は考える。
「メ、メロディ!? どうやって入ってきたのですか!?」
「ふふふ。失礼いたしましたわ。驚かせるつもりはありませんでしたの」
ウソだった。
「……アナタ、それ。ゲート……」
ノエルが警戒の視線をメローディアに向け、ゆっくりと立ち上がった。背中を見せないように、ジリジリと下がる。
「アナタは本当にメローディア? メローディア・シャックスなの?」
メローディアは少し驚いた表情をした。そこを疑われると思っていなかったのだ。人の姿に化ける魔族、という可能性。メタ的な話をすれば、カーマインという存在を予見しているようで、女王として流石の慧眼があるのかも知れない。だが当然、このメローディアは本物のメローディアなワケで、
「おば様……参ってしまいますわね。ワタクシはワタクシですが……どうしましょう。証明する手立てがありません」
途方に暮れた様子。と、そこで。ゲートから更に人が室内へ入ってきた。黒髪黒目の、薄い顔立ち。直接会うのは初めてだが、ノエルはその少年の顔を知っていた。
「薊鉄心……」
名を呼ばれ、その双眸が真っすぐにノエルを見た。その意思の光に、状況も忘れて一瞬だけ見惚れそうになる女王。元より、動画で見知ってファンシップに近い感情を抱いている相手ゆえ、というところだが、メローディアは憮然とする。姪のことは魔族の変化ではないかと疑っておきながら、鉄心には少女のような無垢な瞳を向け、疑いもしない。とても気に入らない話だが、美羽あたりが見ていれば、流石は親戚同士という所感を抱いたことだろう。
「ノエル・ディゴール女王だな?」
「は、はい」
声が上擦っている。姪と同い年の高校生に呼び捨てにされて、何を浮き足立っているのか。メローディアは見ていられない。だがまあ、同時に気持ちは分からないでもないのだ。存在のオーラ、と言えば抽象的な話だが……その圧倒的な強さに惹かれ、妻にしてくれと懇願したメローディアとしては、恐らく同じ嗜好のおばもまた(いわば女の勘や本能で以って)直感するのだろう、と。もっと下世話な換言をするなら、この男のような強い遺伝子を貰い受けろと子宮が疼くような。それは性別がない魔族には絶対に感じない色気ということだろう。
「……色々と聞きたいことがあるが、まずは場所を変えよう」
鉄心が乱暴にアゴでしゃくってみせる先、未だ扉を開いたままの小型ゲートがあった。そこでようやく我に返ったノエルが警戒心を露わに、それを見た。鉄心は軽く舌打ちして、
「嫌だと言うのなら無理矢理にでも連れていく」
低く硬い声で告げた。
「で、出来ますか? そんなことが」
弱みを見せないようにという心算なのだろう。気丈に言い返してみせるノエルはそっと壁伝いに移動を開始する。この部屋には非常事態を知らせるコールベルが備え付けられており、それを目指しているようだ。本当に押すかどうかは兎も角、人を呼ばれれば困る鉄心に対する交渉カードとして確保しなくてはならない。
「はあ~」
これ見よがしな鉄心の溜息。と、同時。ノエルの行く手は透明の壁に阻まれてしまった。迂回しようと前に出る。ゴツンと額を打つ音。ならば戻ろうとするが、今度は右肩をぶつける。壁を背に、三方を囲まれてしまったようだった。昆虫の展示標本のような有様である。
「出来ないとでも思ってるのか? そんなことくらい」
明らかに苛立った声音。ノエルは恐れと、同じくらいの胸の動悸を感じている。カツカツと歩いてくる青年を、怯えと憧憬の混じった瞳で迎える。
「鉄心、乱暴は」
「分かってますよ」
匣を一部だけ解くと、やや乱暴にノエルの手を掴んで、匣の包囲から引き摺りだす。
「こ、声を上げますよ」
ハッタリだった。この部屋が完璧な防音仕様なのは鉄心も知っている。だからこそ近衛に届くコールベルなどを用意しているのだ。
「おば様。大丈夫ですから。ここより更に機密性の高い場所があるのです。そちらで会合をしようというだけです」
「メロディ……」
困り顔で優しく諭す姪を見て、ノエルも判断に窮する。鉄心もメローディアも、魔族が化けていたり、或いは魔族に脅されて攫いに来たようにも見えない。だがその心象形成は基本的に勘によるものだ。確たる証明がないまま、一国のトップがホイホイついていくのは軽率に過ぎる。
「ああ、もう。まどろっこしい」
鉄心がノエルの膝裏に手を入れ、持ち上げてしまう。もう片方の手は背において体勢を固定。女王をお姫様抱っこというのは何かの洒落じみているが、鉄心に他意などない。そしてメローディアが妬く暇もないほど素早く身を翻すと、そのままゲートへ飛び込んでしまった。
「ちょ、ちょっと!」
メローディアも慌てて追いかける。三人を飲み込んだゲートは、その役目を終え、ゆっくりと消滅した。
如何な海千山千の為政者といえど、ゲートをくぐったその先に降り立つという、およそ余人が体験しえない事態に巻き込まれ、動揺を隠せないでいた。扉の向こう、石造りの建物の中にワープし、応接室のソファーに腰掛けるも、僅かに手が震えていた。ソファーからは獣のような魚のような、形容しがたい匂いがして、それがまた彼女には不気味に感じられるのだった。
(事前にメノウとサファイアに別室待機を命じておいて良かったわ)
家主は彼ら二人だというのに随分な話だが、今のノエルを見れば、判断としては正解だったらしい。
気働きの美羽は鉄心らがゲートの向こうへ消えるのを見届けてすぐ、おもてなしの準備に、これまた別室へ走っていたが、今まさに戻ってきたところだった。拉致被害者と加害者&その妻の三人では間が持たないので、ナイスタイミングだったと言える。
「陛下。先日はお招きいただきありがとうございました。本日は私の方で、拙いですがクッキーなどを焼かせて頂きました」
ふくふくの笑顔に、ようやくノエルは生きた心地がした。
(ただこの様子だと、美羽ちゃんは薊鉄心がワタクシを無理矢理にでも連れてくるとは聞かされていないようね)
彼の独断ということである。そこでまた女王はホッとする。彼女のような愛らしい少女まで自分の拉致に関与していたなんて事になれば、いよいよ人間不信に陥ってしまっただろうから。
「お茶は淹れられなくて申し訳ないです。ここには給湯設備がないので……」
そう言いながら、ペットボトルの日本茶をカップに注ぐ。紅茶の市販品では舌の肥えたノエルに失礼かと思い、馴染みの薄そうな日本茶を選んだのだった。
「え、ええ。ありがとう」
給仕してくれた美羽に礼を言いながら、ノエルは考える。給湯設備がない、ということは、発展途上国の可能性もあるが……
「……ねえ、メロディ」
「はい」
対面に座るメローディアに問いかける。
「ここは、どこなの?」
メローディアは少しだけ逡巡したが、
「魔界です」
真実を告げた。ノエルは、ああと小さく呟いた。出来れば外れていて欲しかった予想だったのに、と。そこで鉄心が軽く鼻を鳴らし、情報を付け足す。
「魔界の三層。あとでアンタにも会わせるが……魔族たちが住んでいる根城だよ、ここは」
「それは……その魔族とは」
「十傑です、おば様。以前にお見せした蛇女戦があったかと思いますが、それと同じ階層の魔族ということになります」
ノエルはいよいよ緊張で喉を鳴らした。下手をすると、自分はここで骸を晒すことになるのかも知れない、と。




