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善悪二刀  作者: 生姜寧也
終章:覇道遊戯編

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第134話:船出の一服

 最後の仕上げに、鉄心は不可視のハゲしメタルをテーブルの上に配する。極薄の束を形成。鉄心はそのまま資料を向こうへ押し返す。リードが紙の端を手で摘まんだ瞬間、音もたてずに飛んだ髪束がその指先を掠め、小さな傷を作った。紙でスパッと切ったような傷口だ。プクリと血玉が浮き上がった指に、リードは顔をしかめる。

「おっと、これは大変だ。手当てしないと。美羽ちゃん、メイドさんを呼んできて」

 鉄心が頼むと、言われた通り美羽は立ち上がって部屋を出て行った。

「いえ、お構いなく。大した傷ではないですから」

「そうかも知れませんが、シャックス公爵邸を訪れたお客人を怪我したまま帰しては、沽券に関わります」

 なんて胡散臭い口上だ、と味方のメローディアですら思った。言っている事が正論であっても、誰が言うかで受ける印象はガラリと変わる。

「呼んできたよ」

 と、すぐに美羽が戻ってきた。応接室の近くには使用人の控室もあるので、運良く捕まえたのだろう。

「いえ、本当に、少し切っただけですから」

 リードは腰を浮かせかけたが、美羽の後ろからやってきた若いメイドが救急箱まで持っているのを見てソファーに座り直した。そのまま彼はメイドに手を預ける。ガーゼで血を拭われ、消毒液を塗布され、絆創膏を貼られ……その間ずっと大人しくしていた。

「終わりました」

「ああ、ありがとう」

 メイドは静かに一礼して部屋を辞す。それを見送ってのち、

「……さて。今日はここまでですね。これ以上の捜査を望むのであれば、先ほど公爵閣下も仰られたように、令状を取ってきて下さい。話はそれからです」

 鉄心は淡々と告げた。お帰りはあちら、とばかり出口を見やる。小さな傷を大袈裟なくらい丁重に治療させた数秒前と打って変わって、ぞんざいな扱いである。

「……分かりました。本日はこれで」

 とはいえ、リードとしては引き下がるしかなかった。立ち上がりカバンと外套を掴むと、逃げるように出口へ。

「ああ、そうそう」

 鉄心の声。リードとしては、もう一刻も早くこの場を脱したい気持ちだったが、無視するのも恐ろしく、そっと振り返った。

「この国には今、船が三隻あります…………楽園行きのソレに乗れると良いですね」

 三日月のような笑みを浮かべるその顔は、リードには誇張抜きに、死神にしか見えなかった。哄笑面を被るまでもなく……

 


 リード刑事は車に乗り込んだ途端、軟体動物のように座席の上でグニャグニャになった。シートの下に足を目一杯伸ばし、仙骨で座るような格好になる。

「あれは…………ダメだ」

 最早、ウィリーかノエルかの話ではない。薊鉄心という個人軍に、そのどちらも食われてしまうレベルだった。もし、かの救国の英雄エリダとクリスが存命だったとして……両名が束になって挑んでも三十秒もつか怪しい。

 生き物としてのステージが違う。修羅場をくぐってきた気になっていたが、なんということはない。リードは今まで自分が対抗しうる犯罪者としか遭遇したことがなかっただけだ。最悪でも互角、大半は自分より実力で劣る相手だった。本物の修羅に遭えば、そもそもくぐることなど出来ないのだ、と齢五十を過ぎて彼は初めて知った。

「……十中八九」

 事件にはあの薊鉄心が絡んでいる。というより、心象だけで語るなら、犯人である。間違いなく彼は貴族だからと言って忖度する人種ではない。権力を恐れない、いや恐れる必要がない。リードとて刑事だから見逃してもらえたというより、向こうに何らかの思惑があっての事ではないかと勘繰っている。或いは本当に、カーペットが汚れるのを嫌った、という可能性も無きにしも非ず。ただそれも、あと一失点でも犯せば駆除されていたのではないか、という気がしてならない。

 今頃になって膝が笑い始めた。あの眼を、あの笑みを、思い出しただけで、このザマである。リードの背筋がひとりでに震えた。ここから離れよう。まだ安全圏ではない。アレの見えざる手が届く範囲内だ、と。本能が告げている。リードはエンジンキーを回し、すぐさま車を発進させた。脱兎の如く。親子ほども歳の離れた少年から、尻尾を巻いて遁走する自分をダサいとすら思えない。プライドのために命を張れるほど彼は若くなかった。アクセルを踏み込み、貴族街を抜けた辺りでようやく人心地ついた。坂の麓も高級住宅街(成金が多く住む)が広がっているが、随分と人通りが少ない。

「マスコミがスクープを諦めるハズもないだろうに……妙だな」

 リードは首を捻るも、まあ人が少ないのなら好都合かと考え事に集中する。

「……もうこのヤマは下りよう。命あっての物種だ」

 恩返し半分、政争後の立ち回りへの布石半分といった動機で動いていたが、盤面を片手で引っくり返せるジョーカーが居るなど聞いていなかった。事情が180度変わった。あの死神の鎌の射程範囲には二度と入りたくない。

「楽園行きの船、か」

 ふっとリードの鼻から息が漏れる。ウィリーもノエルも、恐らく泥船だ。彼が座っていたソファー、あれに優雅に乗っていた二人こそが方舟の住人ということだろう。もちろん、リードがそれに乗れる可能性はゼロである。

「帰ったら部長に教えてやろうかね」

 乗り間違うもなにも、秤の両側はどちらも皿ですらなかった。我々凡人には、この国にやがて来る擾乱じょうらんの大洪水の中、流されないよう地上で藻掻く以外の選択肢はないのだと。

「はは」

 ようやく笑う気力が湧いたところで、リードはハタと気付く。いつもの独り言の相棒、タール10ミリで細身のカノジョを咥えていなかった。ウィンドウを下げ、外套のポケットを漁る。紙の箱の口を上げ、一本つまむと、口に咥えた。そしてポケットをもう一度漁る……が。

「ああ、クソ!」

 ライターをどこかで落としてきたらしい。まあシャックス邸の近辺以外ありえないのだが。車に逃げ込むように駆けた途中だろう。そこまで必死だったかと、今更バツの悪いリード。とは言え、まさかライター1つ取りにバケモノの巣に戻るワケにもいかない。仕方ない、コンビニだな、と車のサイドブレーキを上げかけた、その時。

「火を貸そうか」

 スッと伸びてきた手が、100円ライターを差し向けてくる。回転式ヤスリをジャッと擦る音。随分と毛深い手だ。だがニコチン欠乏に陥っているリードは、訝しむより先に、

「助かる」

 礼を言ってタバコを近づけた。先端と火を重ね、ゆっくりと息を吸う。ジジジと白い巻紙が燃えた。

「ふう~」

 肺一杯に煙を吸い込み、吐き出す。生きている。自分は生き残った。それを実感する、至福の一口だった。

「美味いか?」

「ん? ああ」

 変なことを聞くヤツだ、とリードはようやく火を貸してくれた相手に意識が向いた。顔を上げると、ちょうど男(?)も上体を屈めて、ゆっくりと車内を覗き込むところだったようだ。相手は……


 ――人間ではなかった。


 赤い顔に目鼻口はついているが、その顔の周りは茶色い毛で覆われている。二足歩行する人間より大きな猿。黄色い歯を剥いて、醜悪に笑った。

「ひっ!?」

 仰け反るように顔を離したが、巨大な黒い塊が追いかけてくる。それが拳だと気付いた時には、リードの鼻にハンマーで殴られたかのような衝撃が駆け抜けていた。いや、実際にはそれ以上の威力で、そのたった一撃でリード刑事は致命傷を負っていた。

「お……ご」

 声というより、喉から音が漏れたといった様子。口の端から微かに至福の紫煙が零れていた。

「あ~あ。そんなに美味いなら、零しちゃダメじゃないか……もうこれが最後なんだから」

 猿の魔人、二層カーネリアンが呟く。少し同情的な響きもあったが、他ならぬ彼自身がしたことだった。

「カーネリアン殿」

 その後ろに控えていたシカの魔人、四層ターコイズが急かすように名を呼んだ。

「分かってるよ」

 猿魔人は握っていた拳を開き、運転席までその長い腕を伸ばすと、ドアロックを解除した。そしてリードの死体を車外に引き摺りだし、

「始めるよ」

 両手の爪でグチャグチャに顔を引っ掻く。五十年の年輪を刻んだ男の顔は、一瞬で剥きトマトのようになってしまった。そうしてその残虐行為を終えたカーネリアンの顔は……アレックス・リード刑事のものに変じていた。そして更に異様なことに、背格好や着ている服まで彼にそっくりだった。

 姿写し。人の変身願望を根源としたカーネリアン、その猿真似の神髄。いつ見ても見事な物だ、とターコイズは内心で舌を巻く。

「あとどれくらい人除けは出来る?」

「もうあまり長くは」

 十傑に備わっている異能の話だ。かつてメノウが、美羽を拉致しようとした際や、鉄心らに事情説明にやって来た際に使っていたのと同じ。特殊な音波を出し、近寄る人間の方向感覚を狂わせたり、認識阻害を引き起こしたりといった効力を持つ。だが、この科学万能の時代、あまり長く人流に干渉していると、データとして上がってしまう。頻発すれば、人間は必ず突き止めてくる。個対個では負ける要素は無いが、集団になれば恐ろしい力を発揮する。それが人間という種だと、十傑はよくよく理解している。

「オーケー。じゃあ四層にでも放り込んでおいてくれ」

「分かりました」

 ターコイズは小型ゲートを展開、その向こうへリードの死体を放り込んだ。

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