第122話:無法地帯
強烈な拳に、歯が折れ、口の中を切ってしまったロレンゾ。彼の人生において、誰かに殴られたのはこれが初めての事だった。抗議、怒り、恐怖、それらを吐く前に。
「ごほっ!」
追い付いてきた鉄心が腹を蹴りあげ、何一つ言葉を発せられなくなった。内臓が潰れたかという程の衝撃に、息をするのがやっと。涎や胃液が口の端から糸のように垂れ下がる。
「ロレンゾ様!」
「おう。薊の坊主だけじゃなく、俺もいること忘れんなよ?」
飛び出そうとしたキーン兄妹の前にサメの魔人が立ち塞がる。彼も彼で、美羽に対するこの上ない侮辱に、今にも全員八つ裂きにしそうな程の憎悪を滲ませている。
「……認めてやるよ。テメエらは俺の敵だ」
鉄心の低い声。敵。即ちこの貴族たちを対等な存在、排すべき障害と認めたのだ。捨て置けば、自分の大切な存在を傷つける、無視など出来ようハズもない、と。だが、認められることは必ずしも良いことではなく、
「皆殺しだ」
このような結論を生む。全員がヒッと小さく息を飲んだ。そして始まったのは戦犯会議。
「ロレンゾのせいだ」
まずライドが呟いた。呼び捨てで伯爵家の三男坊を名指しした。もう今更、様付けで呼ぶ必要もない。自棄になってしまっていた。
「そ、そうだ! 俺らは薊をボコボコに出来るって聞いて来たのに!」
「もう家に帰りたいよ! 帰して! もう私、薊には関わらないから! 転校するから!」
「それなら俺も! もう何もしない! 金輪際! 転校もする!」
それで万事解決、というのが彼らの理論のようだ。鉄心は気付いていた。ここまで誰一人、自分達の行いについて謝罪していない事に。人一人の人生を歪めかねない冤罪、更には何の罪もない少女を狙い、強姦まで企てていた。ここまでして、謝罪の一つもなく、転校だけで許されると考えている傲慢は度しがたい。いや、それどころか許してもらうという思考ですらなく、取引を持ち掛けている感覚なのかも知れない。子供の頃から、徹底的に平民を虫程度の存在と刷り込まれて育ってきたのだろう。
「……お前ら、よく見れば俺を学校から追い出そうとしてた奴等だな?」
声を上げた内の一団。男女のグループに鉄心は見覚えがあった。
「あ、いや、それは、その」
「テメエら貴族様が出ていく必要なんかないだろ。俺を追い出せよ、ほら。いつものように罵倒して、嘲って」
「……」
「……」
「……」
口を閉ざし、俯いてしまう面々。ここまで言っても謝罪は出てこない。もう筋金入りだろう。まあ鉄心としても謝罪など求めてはいないが。
一団の内、一人の少女の腹に鉄心の強烈な蹴りが入る。それを皮切りに、顔に拳、腹に蹴りの交互で、一団に暴力が行き渡った。全員が呻きながら、暴行を受けた箇所を手で押さえ、うずくまる。
「全員、まずは一発ずつだ」
そして振り返って残りの生徒たちを見た。蒼白な顔が並んでいる。
「も、もう……」
「もう嫌だ!!」
「うわああああ!!」
恐怖の許容限界だった。
先程の焼き直しのような、闇雲な逃避行。足を撃たれたライド、同じく妹を庇って足を挫いたシリウス、その他、暴行を受けた者たちも痛みを堪えて走る。死に物狂いとは正にこのことか。だが。
「うあ!?」
再び不可視の壁にぶつかった。或いは、その手前でサファイアの強烈な体当たりで弾き返された者たちも半数ほど。上手く分散、コントロールされ、またも圧死を許されない。
「おお、気が利く」
「今度また飯な」
この場を支配する平良と十傑が逃がすハズなどないというのに、懲りないことである。まあそんな冷静な判断が出来るなら、そもそもこんな事にはなっていないのだが。
その後、鉄心とサファイアで宣言通り、全員の体に痣を作る作業を終えた。荒野の乾燥した土が、貴族たちの上質な服を薄茶に染め上げたのを見届け、
「さて。コイツらの家族も攫ってくるか」
鉄心が言う。まだ生贄の数が足りないかも知れないのだ。だがそこで。
(もう足りてるよ)
不意に聞こえた微かな声。
「ハージュ? ハージュなのか?」
鉄心はすぐさま食いつくように訊ねた。束の間の交流をしたあの少年の名を呼んだ。が、その一言だけで、後は音沙汰なしだった。
「……そっか、サンキューな」
恐らく無理をして教えてくれたんだろう。彼にもいつか礼をしたい。鉄心としては、そんな風に思うのだ。僅かに感傷に浸りかけたところで、
「助けてくれよ! 俺たち、何もしてねえよ! 署名運動もやらされてただけで……」
「そうよ! 私たちだって、逆らえなかったんだから、それで……」
ゴチャゴチャと雑音が聞こえた。鉄心の顔があからさまに歪む。まだゴネれば助かる目があると、何故かそう思っているらしい。ナメられているのか、僅かな希望にでも縋らないと発狂しそうなのか。
「もういい、もういい。面倒くさい」
鉄心はゲートを開き、倉庫へと逆戻りした。頃合いだろうと踏んでいたが、ビンゴ。丁度やってきた商会からの救助隊を皆殺し(全員がアタッカーだったが、瞬殺に終わった)にした。そして彼らの死体を乱暴に掴んで、次々ゲートの向こう、三層へ放り込んでいく。全て終えると、自分も魔界へ戻り、今度はそこらに転がっている生徒の内の一人を斬りつけた。腕から出血し、泣き叫ぶ少女。その返り血が付いた刀を商会のアタッカーの死体に擦りつけた。そのまま、順繰りに斬り、血を集めていく。勿論、泣き叫び、逃げ出そうとする者もいたが、サファイアに蹴り戻され、その後に斬られていた。命乞いもあった。だが当然のように黙殺された。淡々と進んでいく悪魔の所業。
「お、お兄様、ごめん、ごめんなさい。あんな……あんな化物だったなんて知らなくて」
イザベラが兄の腕の中で謝る。目の前で派閥の少女が足を斬られた。絵の具のような真赤の液体が飛び散る。怨嗟の言葉は、キーン兄妹にも向けられていた。
「お前は、俺の仇を取ろうとしてくれたんだろ? なら、俺がお前を責めることはないよ」
慰めるように妹の頬にキスを落とした兄。この深い愛情の一欠片でも平民に向けられていれば、またきっと違った結果になっただろうに。
「なあ、薊。俺はどうなっても良い。だから妹だけは……後生だから、頼む」
番が回ってきたシリウスが、頭を下げた。謝罪ではないが、この貴族たちの中で唯一の低頭だった。だが勿論。
「ダメに決まってるだろ。そいつが美羽ちゃんにしようとした事だけで万死に値する。あとな、お前のそんなハゲ頭を下げられたところで、何の価値もねえんだよ。なんだその輝きは?」
頭に関しては鉄心自身がやったことなのだが。
「死んどけ」
冷たい声と共に、シリウスも肩を斬られる。と、その刀を捕まえ、シリウスは逆にグイと自分の肉に押し込んだ。そして烈迫の雄叫びを上げながら立ち上がり、鉄心へと渾身の頭突きを繰り出す。と、いうところで。ハゲしメタルに足を戒められて、顔から荒野の地面にダイブした。
「まあ、こん中じゃ一番骨はあるんじゃねえか。髪はねえけど」
繰り返すが、髪については彼自身がやったことである。
ハゲしメタルが足に巻き付き、ほぼ身動きできない兄の上に妹が覆い被さって庇う。麗しき兄妹愛だった。雰囲気からして、道ならぬ恋をしているのでは、と一瞬だけ余所事を考えたが、些事と切り捨て、鉄心は妹の腕にも刀を走らせる。
「あっ……ぐあ」
痛みに呻く少女に、鉄心は最後の言葉を掛けた。
「そんな痛みを、お前は無関係の美羽ちゃんに与えようとしたんだ。その罪は、お前と兄貴の死を以て贖ってもらう」
「ふ……ざけんな! アタシらのは未遂罪だろうが! ここまで酷い事される謂われは!」
「都合の良い時だけ道徳や法で守られようなんざ、ふざけてんのはテメエだろ。先に外道外法を働いたのはテメエらだよ」
それだけ告げて、鉄心は最後の一人、主犯にして派閥の長、ロレンゾ・クーパーと向き合う。何とか体を起こしているが、顔面は殴られて倍ほどに腫れており、蹴りを入れられた腹もグルグルと鳴っている。
「……」
「薊ぃ! 許さない、許さない! 父様に頼んで」
「本当に自分では何も出来ないんだな、お前。一周回って憐れみすら覚えるよ。つーか、その頼みの父ちゃんも一緒に逝くんだっつの」
鉄心が面倒くさそうにアゴでしゃくった先。ようやく気絶から目が覚め、しかしあまりの事態にパニックを起こしている伯爵家ご一行がいた。
「くそっ! なんでだ! なんでこんな事に! 僕の方が先に好きだったのに! 僕の方が彼女のこと、分かってるのに!」
悔し涙をボロボロと溢しながら、繰り言を止められないロレンゾ。だが鉄心は冷ややかなもので。
「お前、あの子が何に悩んでたか知ってるか?」
「……なに言ってる。公爵様だぞ? 何もかも持っていらっしゃる、天使のような御方だ。お前ら下民のような悩みなどあるワケないだろうが」
「……なるほど、こりゃ頼らないワケだ」
クーパー家は、メローディアからすれば一応は父親の実家なハズだが……この体たらくなら孤独の方がマシである。
「もうこれ以上は時間の無駄だな。始めよう」
鉄心は貴族たちから目線を切り、サファイアに話しかける。儀式の始まりだ。




