第113話:卑劣な魔の手
その日の放課後のことだった。
例の冤罪事件以降、鉄心の周りが騒がしいものだから、そこに巻き込まれないよう美羽は朝と放課後、シャックスの車に時間をズラして乗降するようにしている。そしてそれは当然、今日も。
「しかし、ミウミウがシェアかあ」
「まあ、相手があのテッちゃんだもんなあ」
浜垣と上原がしみじみと言う。鉄心とメローディアを乗せた屋敷の車が、美羽を拾いに来るまでの僅かな時間。彼女が暇しないように、田中たちがお喋りに付き合ってやるのも、常態化し始めている。
「ね。ワケあって公爵様の屋敷に住まわせてもらってるとは聞いてたけど、まさかシェアハウスの勢いのまま、カレシまでシェアとは」
田中の言葉通り、美羽はもう話せる部分はぶっちゃけてしまっていた。もちろん鉄心とメローディアの許可も貰っているが。
「いやあ、私も入学する前は夢にも思わなかったよ。だって殆ど女子校みたいなものだし」
美羽が柔らかく笑いながら同意する。
学園の校門から数十メートル離れた曲がり角。秋の夕日の下、制服のポケットに手を突っ込んで少しの肌寒さを誤魔化しながら、級友たちと話し込む。不意に美羽は「青春だなあ」と浸った。鉄心たちと過ごす時間も、もちろん掛け替えのないものだが、学生らしさという点では及ばない。
「良いなあ、このまま捕まえておけば将来安泰かあ」
「む。そういう玉の輿狙いミエミエなのはダメだから。テッちゃんの為に出来ること、返せるものを常に考えてだね」
「はいはい。ご馳走様」
田中がヒラヒラと手を振って、ノロケを躱す。一同に生暖かい笑いが起きる。
(楽しいなあ)
美羽もまた、屈託ない笑顔を浮かべていた、その時だった。
一台の車が車道をゆっくりと走ってきた。黒塗りの高級車。後部座席の窓ガラスにまでスモークが張られ、一匹の黒豹のようだった。獰猛で無慈悲な捕食者。美羽の背に軽い悪寒が走る。ここ数週間の経験から、危機察知能力は日本にいた頃のそれから格段の進化を遂げている。そのセンサーが、黄色を告げていた。ブレザーのポケットに入っている携帯を取り出そうとした矢先、車が半分ほど歩道に乗り上げてきた。
「キャッ!?」
車道側に背を向けていた浜垣が接近の気配に慌てて飛び退く。普段から口数が少なく、あまり大きな声を出すこともない彼女が、こんな反応をするというのは、よっぽどだ。実際、避けなければ撥ねられていた。そういう手加減のなさだった。
「愛那! テッちゃん呼んできて!」
美羽が素早く指示を出す。他の面々は危険運転に驚き、次いで怒りが湧いている段階だったが、事態は恐らくそんな悠長なものではない。一瞬、美羽の言葉の意図を計りかねたように見えた上原だが、すぐに目に力を宿し、弾かれたように駆け出した。
と、同時。車の助手席と、後部座席から二人の男が降りてくる。いずれも200センチはあろうかという大男だった。茶髪と黒髪、人種は違うようだ。
「この女か?」
「ああ、写真とも一致する」
目線は二人とも美羽へ。瞬時に狙いが自分だと悟った美羽は、そのままジリジリと後退る。残った田中と浜垣を巻き込まずに、何とか鉄心が駆けつけてくれるまで凌がなくてはならない。手には脂汗が浮き上がっているのに、逆に体の芯は冷えていくような感覚。
と。
「ダメ!」
田中が立ちはだかり、男たちの進路を塞いだ。そして次の瞬間、バキッと鈍い音。無造作に拳で打ち払われ、田中の体が宙を舞った。横倒しになって、アスファルトに左半身から崩れ落ちる。
「万智!!」
美羽の悲痛な声。だが駆け寄る前に、男たちが殺到してくる。自分より遥かに大きな体。丸太のように太い腕。
美羽は思わず目をつむり、両手で頭を抱え込む。だが、その後頭部に衝撃。どうやら拳で殴られたらしい。衝撃に軽く口の中を噛んでしまった。広がる血の味と、遅れてきた頭部の痛み。
「立て!!」
茶髪男が美羽の腕を強引に掴んで、立たせる。タバコ臭い息が顔に吹き掛ける。
「や、やめろ!」
と、その男の巨体が微かに揺らぐ。美羽を掴んでいた手が離れた。どうやら背中に浜垣が体当たりしたようだ。相方の黒髪男がすぐさま彼女を引き剥がす。そしてその横っ面に拳打。浜垣は目の前で火花が散ったかのような錯覚を覚え、大きく吹き飛ぶ。
「クッソ! なにやってんだ!」
「わりい」
男たちの短い会話。
「さっさと回収するぞ!」
美羽を殴った茶髪男が、再び彼女に手を伸ばす。美羽は思わず、両手を突き出した。
(いや!)
何か意図がある行動ではなかった。ただ恐ろしい物、自分を傷つける物を少しでも遠ざけようと本能が手を動かしたに過ぎない。だが、
「……あ?」
男の手が何かに阻まれていた。それはさながら透明な壁。もう一度、男が手を伸ばす。だが、やはり指先がある一点より先に進まない。
「おい、何やってる?」
「いや……」
「早くしねえとマズイぞ。人も集まってくる」
黒髪の男もズンズンと近づいてきて、その大きな掌を伸ばし、
「なっ!?」
透明な壁に進行を阻まれる。男たちの間に一瞬の静寂。そして、よくよく目を凝らす。美羽のイヤリング、鉄心から貰ったプレゼントのそれが、淡く小さく発光していた。
聖刀・匣。いつも見ていた想い人の技を、美羽はこの土壇場でコピーしていたのだった。もちろん狙ってやったワケではない。無我夢中で、ただ遠ざけたいと思っただけ。その際に真っ先に浮かんだのが、匣のイメージだったのだ。美羽本人にも自覚のないことだが、鍛錬のたの字もないまま、簡単にコピー出来てしまえるなど、異常も異常。特に透明(一番多く見る機会があったからイメージしやすかったのだろうが)のシールドなど、練達の戦士でも難しい代物を。
「てめえ、何かやってやがるのか?」
「お、おい。コイツもアタッカーなんじゃねえのか?」
「いや、そんな話は聞いてねえぞ」
男たちが狼狽える。簡単な獲物が、未知なる牙を隠し持っていたのか、と。
「ど、どうする?」
割に合う、合わないの話も含めて、進退を考えているのだろうか。黒髪男が腕時計に視線を落とす。人が来る前に決着をつけなくてはならない、という焦りが滲むが、
「う……あ、く」
背後から聞こえる浜垣と田中の呻き声に、ピンと閃く。黒髪男はそのまま踵を返し、倒れた状態の田中に近づく。そしてその腹を思い切り蹴り上げた。
「がはっ!」
田中の口から空気の漏れるような音が勝手に飛び出す。
「万智!」
美羽の悲痛な声。そこで茶髪男も、相方の意図を察したらしく、
「おい、やめて欲しけりゃ、分かるだろう?」
いやらしい笑みを浮かべながら、美羽に語り掛けた。美羽は一度ギュッと拳を握る。それでも恐怖を完全には拭い去れなかったが……やがてコクンと大きく頷いた。
「分かりました。一緒に行きます。だから友達にこれ以上、酷いことしないで下さい」
震える声で言った。この偶然作ることが出来た匣を解除したら、一体自分はどうなるのか。どう転んでも良いことにはならないのは分かりきっているが……
「美羽! ダメ!」
浜垣が這って近づこうとする。その様子を鬱陶しそうに見ていた黒髪男が、頭を踏みつけようと足を上げる。
「やめて!!」
美羽が叫ぶ。
約束が違う。自分が従えば、友達を傷つけないのではなかったのか。悲しみと憤りと、無力感と。
そんなゴチャ混ぜの感情は、しかし次の瞬間、
――――全て晴れ渡った。
「……な、何だこれ!?」
男の振り上げた足に、色とりどりの糸を編んだような太い束が絡まっていた。それを認識した時、美羽の目から知らず涙が零れた。地獄に仏とは正にこの事だった。もちろん、この男たちにとっては翻って悪鬼羅刹となるのだが。
「…………今、俺は己の不明に、自分自身を殴り飛ばしたい欲求で気が狂いそうですよ」
「奇遇ね。私も全く同じ気持ちよ。少しでも、あんなクズ貴族どもに情けを掛けようかと考えたことも含めて、恥ずかしいを通り越して、自分に腹が立って仕方ないわ」
車から降りてきた一組の少年少女。悠然と歩き来るその姿に、美羽は絶大な安堵を覚えた。極限の緊張が一気に弛緩した拍子に、少しだけ失禁してしまったのにも気付かないまま。
鉄心は能面のような顔をしていた。怒りのあまり、逆に血の気が引いているらしかった。
「うおあ!?」
得体の知れない髪の束に足の自由を奪われた黒髪男は転倒。その様子を見た相方は、すぐさま田中を人質に取ろうと走る。美羽のこともアタッカーと勘違いしていた彼らは、人質さえ取れれば、いかな超人たちと言えど、有利に事を進められると本気で思っていた。本物の超級アタッカーが、この距離で人質など取らせるハズもないというのに。半端な成功体験が仇となった形だ。まあ尤も人質作戦に出ず、一目散に逃げたところで結果は同じだったが。つまり、もうこれほどの狼藉を働いた後に、この薊鉄心という男と邂逅してしまった時点で、彼らの人生はゲームセットだったのだ。
「がっ!?」
鎌鼬の一振りで、足の腱を斬られたらしい。茶髪男は田中の傍に辿り着く前に、その場で倒れこんだ。片足を縫い付けられたかのようで、斬られた方が全く動かない。
「足が! 俺の足が!!」
錯乱して叫ぶ男の顔面を、追い付いた鉄心がサッカーボールのように蹴飛ばす。
「ぐあっ!」
茶髪男が静かになる。脳震盪でも起こしたのだろう。
ふう、と息を吐き出す鉄心。だが未だ瞳には憤怒が宿っていた。




