第112話:窮鼠
一方その頃。
ロレンゾ・クーパーは首都グランゴルフィールの西側、自然公園の中に居た。この公園、膨大な敷地の中に不思議な棲み分けがなされている場所だった。休日の昼間、家族連れで賑わうアスレチックコーナーなどがある一方、藪のように低木が生い茂った場所は、夜になるとカップルがスリルを求めて野外での性行為に及ぶスポットとなっていたりする。そしてそういった藪の更に奥、そこに薄汚れた公衆トイレがポツンと建っており、ならず者たちの裏取引や犯罪行為の温床と成り果てている。違法薬物の売人が客との待ち合わせに。裏社会の女衒が普通の客に紹介しない女のカタログを撮影するのに使用したり。
まあ兎に角、真っ当な人間は寄り付かないような区画を内包した公園なのだった。そして今、そんな場所に、艶やかな金髪を隠すように外套のフードを目深に被り、更に顔に仮面をつけた青年が一人。すぐ傍にガタイの良いボディーガードを二人つけて歩いている。平日の朝という状況でなければ目立って仕方なかっただろうが、幸いにも公園内には殆ど人気はなかった。
「……」
仮面の下、暗く濁ったような瞳で、ロレンゾは前だけ見据え歩く。
子供の頃から想い続けた女性を、ポッと出の東洋人に僅か一月足らずで寝取られた。その事実を思うだけで、気が狂いそうになると同時に、無限の力が湧いてくる。絶望に飲まれそうなところを、何とか憎悪という強い感情でギリギリ保ちこたえている、という状況。非常に危うい精神状態と言えた。
(……殺してやる)
今はもうそれしかない。彼がやりたい事の全てだ。それさえ叶えば、他にもう何も要らない、とさえ思う。もはやメローディアでさえ欲しくはない。というより、公爵という立場さえなければ、鉄心もろともに闇に葬ってやれるのに、とまで思う。自分を裏切ったビッチ。泣いて謝ったとて許さないだろう、と。まあ彼女が彼に謝らなくてはいけないことなど何一つないのだが、そこを客観視できるなら、元より今回の騒動自体、起こしてはいないだろう。
「あそこか……おい、お前たち。いざとなれば分かってるな」
脇を固めるボディーガードたちに横柄な態度で確認を取る。彼らは顎を引いて頷いた。それを見届けると、ロレンゾはフードを更に深く被り直す。周囲をキョロキョロ見回し、茂みの奥へそっと足を踏み入れた。秋も深まり、茶色が濃くなった下草をサクリサクリ音を立てながら歩き、公衆トイレの脇へ。そこには一人の男が居た。変哲のない背広姿。サングラスを掛け、黒いマスクまでしている。こちらも素顔を大っぴらに出来ないような人種、ということだろう。
「Rさん……でよろしいですね?」
男がロレンゾに声を掛ける。イニシャルではなく復讐者の頭文字のつもりで付けた名だ。
「ああ……そういうお前はジェームス、だな」
どこにでもありそうな名前。相手も勿論、仮の名前だろう。
二人とも待ち合わせの相手と認識し合い、ビジネスの話に移る。もう一度、周囲を油断なく見回すロレンゾに、ジェームスは薄く笑った。
「大丈夫ですよ、Rさん。この時間はウチが使わせてもらうことになってますから。他の反社の人間も居ません」
犯罪者たちのハチ公前とは言えど、いっぺんに何組もの人間が使っては、互いにビジネスの話が出来ない。そこで組織ごとに時間を区切って使っているようだ。裏社会にはある程度は横の繋がり(完全な敵対組織同士でなければ)もあるということか。
「そ、そうか」
「ええ。それで……誘拐して欲しい相手がいるとか」
ジェームスは世間話をするつもりはないらしく、単刀直入に本題に入った。ロレンゾとしても望むところで、
「ああ。強力なアタッカーを崩したい。その為にヤツのアキレス腱を人質にする」
具体的なプランを話し始める。
「そのアキレス腱とやらは……」
「一般人だ」
正確には一応は氣を扱えるサポートクラスの人間だが。
「コイツだ。約一分ほど、その強力なアタッカーと離れて行動する時間がある。そこを狙って拉致して欲しい」
ロレンゾがローブの下から一枚の写真を取り出した。整った丸顔にメガネをかけた少女。
松原美羽だった。
昼休み。鉄心とメローディア、美羽の三人は、もはや私物も同然となった貴賓室で昼食(美羽が人数分作った弁当)を平らげた。メローディアも最近は箸の扱いがこなれ、一人でも日本食を摂れるようになっていた。美羽と鉄心が誉めそやすと、その度フフンと背を反らして満更でもなさそうにする。
「どうもな……思っていた流れとは変わってきてるんだよな」
食後の茶を飲み干し、一息ついたあたりで、鉄心がそんな事を言い出した。
「署名の取り消しまで出てきているらしいわね」
一向に学園側が動かないので、証拠不十分なのでは、という見方。そもそもロレンゾたちの人望のなさ。そこに加え、メローディアに指導が出来るほどの鉄心の強さ。この世界では強さは第一のステータス。顔の良し悪しなどより遥かに上の項目だ。つまり……女子人気が爆発的に上昇している。被害に遭った女子生徒も「薊くんならオッケーです」という主旨の発言をしてしまったのも拍車をかけている要因だ。彼女は近いうち鉄心と直接対面したいとまで言っているそうだが、メローディアの目の黒いうちは実現しないだろう。
「やっぱり正義は勝つんだよ」
美羽が嬉しそうに言うが、鉄心の青写真は脆く消え去った形だ。だが平和主義の美羽としては、同じ学舎に通う生徒たち(特に付和雷同レベルの者たち)を贄とすることには、根本的に抵抗が強かったのだ。なので、それが頓挫しそうなことにはホッとしている、というのが本音。だがそれでは、鉄心の力は制限されたまま、というのも厳然たる事実で。
「……参ったねえ。署名を取り消した子まで許すまじ、というのはいかにも狭量だよなあ」
情報が出揃っておらず、一時の義憤に駆られ行動をした。だが後々、感情も鎮まり、出てきた情報を精査した時に、冷静に過ちを認められた人たちに関しては、殺害はやりすぎだろう、と。
「ちなみに……主犯格の四人は、やっぱり恩赦の可能性はないわよね?」
メローディアが機を見て口を挟む。鉄心が少し険しい表情をしたので、慌てて取り巻きBの話をした。ダメ元ではあるが。だが、意外にも鉄心は、
「分かりました」
と快諾。美羽もメローディアも全く予想外という顔。
「い、いいの?」
「はい。その女の母親は殺しません。メロディ様がお世話になったみたいですからね」
「……ん?」
ちょっと話が噛み合っていない。
「母親はってことは」
本人はやはり許さないということか、と微妙な気持ちになるメローディアに、鉄心は想像の斜め上の答えを返した。
「本当は一族郎党、皆殺しの予定でしたが、その母親は残しましょう」
朗らかに笑う鉄心。少女二人は背筋が凍る。妻のお願いを快く聞いてあげた良き夫、と本気で思っていそうな笑顔だった。
「で、でも家族まで殺すのは大義名分がないって言うか」
美羽が口を挟んだ。だが、
「まあ、製造責任ってことで。というか親も腐ってるからこそ、ああいう子供になるんでしょ」
鉄心の答えは、内容も声音も恐ろしく冷たかった。正直なところ、彼としては頭数が揃えられて、名分が立つなら、多少の無理筋は通すつもりでいる。そも本来は自分の良心と折り合いがつくのなら、正義なくとも問題ナシの人間なのだから。
「メロディ様には悪いけど、その母親には子育ての能力がなかったと思って諦めてもらうしかない」
決定事項、という調子だ。有無を言わせない強さが滲んでいる。やはりこうなったか、とメローディア。鉄心は迷わない。人間の善悪は、そう単純に決めつけられるものではないと分かった上で。スパッと切り捨ててしまう。それは戦場あがりの哲学だ。ことああいった地獄にあっては、瞬時の判断が全てである。状況的に一人しか助けられない、となった時……例えば子供を突き飛ばして逃げようとする大人と、その子供、どちらかを選べと言われたとする。その大人にも愛すべき自分の子供が居て、一刻も早く合流したいと、親の愛ゆえに視野狭窄に陥っていたのかも知れない。或いは突き飛ばした事すら正しく認識できていない程のパニック状態かも知れない。だがそこまで熟慮し、裏の事情まで読み取って、斟酌しようなどと悠長なことを考えていれば、両方死なせてしまう。どころか鉄心自身にも致命的な隙を生んでしまうかも知れない。
こういった修羅場で培ってきた判断の速さと、その後の迷いのなさ、なのである。
「ところで、主犯格の……伯爵家のボンボンはどうしたんですかね?」
取り巻きBの話はこれで終わりとばかり、鉄心は話題を変えた。ロレンゾは昨日の模擬戦の後から姿を消し、今日も登校していない。
「さあ……旗色が悪いと思って、引きこもったのかも。アレは根が臆病だから」
メローディアは嘆息混じりに答える。
「ふうん。そんなところですかね。また次の下らない企みを考えてなきゃ良いですけど」
この時、鉄心には確かに油断があった。衣類泥棒でっちあげの矮小さから、次に何か企てるにしても、似たり寄ったりのレベルだろう、と。




