アモルウェーリタース
私、風間八郎には大きな悩みがあった。それは書いて字の通り『愛』というものだ。私は今まで『愛』について理解したいとは思っていなかった。いや、そもそも自分は女というものにあまり関りたくはなく、自然的に心の内で『愛』や『恋愛』はたまたは『恋』のことについて忌み嫌っていたのだろう。
そもそも『恋愛』と言う物は私の考えでは日々の交流の中で感情が積み重なり、互いに心を打ち解けあい出来上がる物だと考えている。それはつまり過程が大事であり、結果などはどうでも良いのだろう。なぜならば、過程の段階で既に『愛』というものが出来上がっているからだ。しかし、現実ではこうも上手く『恋愛』と言うのは出来上がる物では無い。なぜならば、元号が大正から昭和になった今でも日本と言うのはお見合いの大半で配偶者が決まるからだ。
そもそも私が『愛』だとか『恋』だのということに悩まされたことの始まりは今から数週間前の出来事であった。
だが、そのきっかけの御蔭で今の私が知りたいのは『愛』や『恋』ではなく『真実の愛』について知りたいとのだと彼は言った。それでは最初に言った大きな悩みとは違うと言う者もいるだろう。そうなのである。私が今悩んでいるのは『愛』であって『真実の愛』はあくまで『愛』について調べて行くうちによって出てきた疑問である。だからと言って『真実の愛』についても疑問はまだまだある、そのためこれも今私が悩まされているものの一つとしよう。
今から数週間前の出来事だった。私は読書家など愛読家だとかそういった本好きの類の人ではなかった。そのため、夏目漱石や森鴎外などと言った名のあると言われている小説家の本なども自分には興味が無かった。しかし、私はある日一冊の本に出合った。その本と言うのも先ほど私が述べた小説家、夏目漱石が書いた『こゝろ』と言う本だ。
この本は大学の友が私にお勧めしてきた一冊であり、見るからに長編だった本を見て私は最後の方だけを読んで適当な感想を見繕って友人に返そうとした。しかし、私は『こゝろ』の最後の部分である先生とKとのやり取りを読んでいくにつれ『愛』だとか『恋』と言う感情にまったく興味のなかった私の心には『愛』とはいったいどのようなものなのかを知りたいという好奇心が沸いてきた。しかし、『愛』というものを理解するためには『恋人』又は自分が心から好きだと思えられる人物が必要であろう。
しかし残念ながら私は女性とはあまり関わりを持とうとは思えないからだ。なぜならば、初めに述べたように女とはあまり関りたくないためできるだけ女性との付き合いは避けていたからだ。だからと言って女性との付き合いが全くの皆無というわけではなく、数える程度には女性の知人はいる。一人は私が寝泊まりをしている下宿の女将さんである。女将さんは自分の叔母と同じくらいの年のためかあまり抵抗なく、話しやすい人である。そしてもう一人は幼馴染で昔からの友人である田中香苗だ。香苗の家は私とは違って名のあるお金持ちの家であり、既に婚約者がいる。そのため彼女に『愛』だとか『恋』について聞けば良いと思ったのだが、先ほど言ったように婚約者がいる。そのためいくら知人である私が婚約者の断りなく話に行くのはどうも身が引けて止まなかった。そのためこのことを彼女の婚約者である男に言ってみるとその者は腹を抱えて大笑いをして言ったのである。「彼女の昔からの友人を追い返すほど私の心は狭くない。それに彼女に手を出す男は珍しい」と言ったのである。そう言われるとその通りかもしれないと私は思った。なぜならば、彼女は性別こそ女であるが性格はとてもやんちゃで女よりの男前と言った具合の物であったからだ。とまあ、婚約者直々に話す機会もできたことなので私は待ち合わせ場所である喫茶店と言う都会ながらのお店で待っていることにした。
すると私が喫茶店に入り椅子に座って飲み物を頼んで数分後に彼女は来た。彼女と最後に出会ったのは確か結婚式の時だったろう。私はそれ以来彼女とはあまり話す機会もなく、ただ単にどうしているだろうと思うだけであったが元気そうで何よりだった。
彼女が先に声を出す前に私は「今日はわざわざ忙しいのに呼んでしまってすまない」と、まず始めに詫びることにした。なぜならば、この日彼女を呼んだのは私の悩みを聞いてもらうためだけに呼んだのだからである。いくら彼女が了承しているからと言ってもこれはあくまでも自分の知的欲求を満たすための身勝手極まりないことだからだ。しかし彼女は「全然かまわないよ」と笑顔で応じてくれた。そのため私も変な重荷を外して『こゝろ』を読んで今まで興味のなかった『愛』だとか『恋』についてどのようなものなのか知りたいなどの経緯を彼女に話した。今思えば彼女に聞いても自分が求めている解答が出る訳ではないだろうと思えたがこの時の自分には彼女がどう思っているのかを聞くしか良い解答を求められない気がしたからだろう。
私の悩みを言い終わると彼女は今まで見たことのないような悩んだ顔で考えだした。するといつの間にか自分は声を漏らし「変かな?」と呟いていた。すると彼女は聞き流して構わなかったのに「変ではないよ、ただ単に君には不釣り合いな悩みだからちょっと驚いただけだよ」と席には座っているが私に言葉で言い寄ってきた。しかし、彼女が言う私に不釣り合いな悩みとは何であろう。人と言うのは多くの悩みを抱えていると宗教的だか哲学的な言葉があるが、そこに不釣り合いがあるのだろうか。もし在るのだとすれば友人である彼女が言うのであるからそうであるだろう。私は彼女の言う不釣り合いな悩みが気になり彼女に「なぜその悩みが私に不釣り合いなんだ」と問うていた。すると彼女は小さくクスッとした小さな笑みを漏らし、まるで私を小馬鹿にしたようにこう言ってきたのだ。
「君は子供の頃から女性との付き合い、又は関りを避けていた。それはまるで女性そのものを嫌っているかのようだった君が恋に悩んでいると言ったからね」
確かに私は女性との付き合い、関りを避けていた。だが、それだけで私が女性そのものを嫌っているように見えると言われた瞬間私の心のどこかで否定しなければという衝動に駆られいつの間にか私は彼女に反論していたのであった。
「確かに昔から女との関りは持とうとは思っていなかったがそれが女嫌いにつながるわけじゃないだろう。現に私は女である君とこうして話しているだろう」
私は自信気にそう言った。私にはよく女性嫌いということが分からないが、女との関りや付き合いを避けているだけで女嫌いとは言えないからだ。なぜならば、今こうして私は異性である友と会話をしているからだ。女性嫌いであれば女の知人など作るはずがないからだ。そう考えてみれば自分が女性嫌いではないことを証明とまでは言えないが否定することはできるだろう。しかしそれでも彼女は私のことを女性嫌いだと肯定したいくらいに私の反論を反論に近い言葉で返してきた。
「この際だから言うが、君は女に対してどう言った感情を持っているのかな」
私が女性に対してどのような感情を持っているかだと、そう言われると私の心の中には母の姿が思い浮かんだ。私の母は私の子供の頃に不倫、もしくは浮気をしていた。私は大学に通っているからと言って小説家や学校の先生とかは目指していないため、浮気と不倫の違いは分からないが、ここでは不倫をしていたとしよう。
しかし、今はそのような事はどうでもいいのだ。今の私に問われているのは女に対してどのような感情を持っている、抱いているかだ。私は母のそのような姿を見て以来女とは大抵そのようなものだという感情がある。もっと具体的に言えば、女と言うのは気持ちを表面に出さず、隠しておりどこか野心に近いようなものを抱いているように仕方ないのだ。そのため私は女に対して、なんに対しても後ろめたさを感じているようなものに思えるのだ。私は父に似たのか隠し事が嫌いであり、隠し事をするような後ろめたさを持った者が大の嫌いである、そのため私は女との関りを持とうとは極力しないように心構えをしている。私はそのことをそのままの気持ちで彼女に伝えた。
「じゃあ、あなたは私に対してもそんな風に思ってるの」
彼女の言葉まるで私を鋭い矛で突きつけられているかのような感覚に陥った。だから私は彼女に対してはそのようには思っていないと反論し、言葉の矛を下げさせなければならいと思い言っていた。
「君自身にはそのようには思ってないよ。第一、いくら女であるからと言って友人である君にそのような感情は抱いてないよ」
彼女はその言葉を聞いて矛を下げてくれたのか、矛で突きつけられていると言った感覚は失せた。確かに私の言ったことは女である彼女にとっては不快極まることであったのであろう。その不快さが彼女の気を害したのであるならば謝ろう。しかし、謝ったところで私の考えは変わらないだろう。なぜならば、謝ったところで私の考えを変える気は微塵たりともないからだ。では何のため謝ったのかと問われれば、私は間違いなく不快にさせてしまったことを謝ったと言うだろう。私は人に考えを変えろと言われ考えを変えるほど潔い男ではないのだからだ。もし私が潔い男であるのならば女との関りは昔よりは多いからだろう。
すると彼女は何かすました顔でまるで私の言ったことを特に気にしていないかのような口調で言ってきた。
「それはそうだろうね。私は自分自身で自覚はしているが、私のことを女として見ている者は少ないだろう。君も私のことを自然のうちに女として見ていないのだろう」
彼女の放った言葉は彼女自身が自分で自分の喉を苦しめているようなものであった。確かに彼女は他の女とは何か違うような感じではあるとは思ってはいたがまさか彼女自身がそんなことを言うとは驚きだ。
まだ私と彼女が幼く、子供だった頃に彼女は「自分が男として産まれていれば」と言っていた。私と彼女は字に書いて名の通りの田畑だらけの田舎で暮らしていた。そのためなのか彼女は私とは正反対な野生活発であるやんちゃな性格であり、よく親からは「そんなんでは嫁んとさいけんぞ」と言われた。そのため彼女の昔の口癖は「自分が男として産まれていれば」であった。しかし、先も述べたように家がお金持ちであったためすぐに嫁にと嫁ぐ先が決まった、これに関してはよく貰う人がいたなと思った。そして嫁ぎ先が都会だったため都会にと移り住んで行った。これにより騒々しい奴が一人村から出て行ったと清々しいようなどこか心寂しげな気持ちに漬かっていた矢先のことだった。突如父から「これからは学の時代や」と言われ都会の方へと勉学に勤しむため移り住むこととなった。私はその時とても嬉しかった。なぜならば、都会に出て学を学ぶことができるからだ。しかし、父のことを考えると私はとても辛く、胸に刺さった。ただでさえ家にはお金がないのに関わらず父は私に学を学ばせるためだけに都会に出してくれるからだ。そのため私はお金のことを考えて必死に勉強をして国がある程度の費用を出してくれる校を選んだ。その御蔭で今私はこうして大学で学べているのだ。
話を戻そう。確かに、改めて彼女の言動や行動を見返してみれば女として見ていなかった、いやただ単に幼馴染として異性として特別に意識していなかったのかもしれない。そうだとあったとしても友人である彼女に何か気の利いた言葉をかけてやるのだろうが、この時の私は何を思ったのか「そうかもな」と素っ気ない態度で返していた。彼女は私の反応を聞いて何を思ったのかは分からないが椅子から立ち上がりお金を台の上に置いて言った。
「つまりはそう言うことだよ。いくら君が女である私と話していても君の意識上男と会話してることになるんだ。いい加減君は自分が女嫌いであることを自覚した方がいい。そうじゃないとこの悩みを解決することは難しいだろう、あるいは君の今の悩みを綺麗さっぱり忘れることだ」
そう彼女は言うと、私の「待て」との言葉を聞く耳にとせずその場を去って行ってしまった。彼女の気に障るようなことを言ったのであれば私が取った態度そのものであろう。いくら私が無意識に自然と彼女のことを女として見ていなくとも彼女は女である。素っ気なくとも「分からない」とか「そんなことは無い」と声を掛けるべきだったろう。それなのに私は素っ気ない態度で自然とそう認めてしまったのである。無意識とはまさにこう言うことを言うのであろう。今から走って彼女に追いつき謝ったところで自分がああ言ったことには変わらず、ましては彼女に自分が女嫌いであると認められざる負えなくなることが怖く追いかける足が出なかったのである。
私はため息をついた。つくづく自分がどれだけ会話下手だと言うことが実感させられる。大学の時でもそうだ。友人が私と初めて隣の席に座った時なんて全然会話にもならなかった。そのため、いつの間にか素っ気ない態度で応えていたりや、適当な言葉で返していたりすることがある。友人でこそならいいのであるが、これが他人の人や目上の人であると拙い。そのため日々日ごろ用心しているのだが、まさか久しぶりに会った彼女にあのような醜態を見せることになるとは。彼女もあれでかなり気を悪くしているように見えたので謝りに行くのは少し日を開けたほうがよいと思った。
私は彼女が台に置いて行ったお金を掴み会計を済ませることにした。彼女が置いていったお金を出してもおつりが出るくらいだったため、私はありがたく貰うことにした。ただでさえお金に困っている私にとってはとてもありがたいことであった。
喫茶店を出てしばらくした時だった。下宿先に帰るついでに散歩がてらと思い遠回りをしていた時だった。向かい側から見知った男が歩いてくるなり私に話しかけてきた。この男こそが香苗の婚約者である男だ。私が初めて顔を合わせたのは結婚式の時だった。彼は顔立ちも良く、人柄も良い。それに私なんかよりもきっと頭も良いのだろう。なぜならば彼は銀行を運営及び経営させている銀行員であり、大学もしっかりと卒業している。ちなみに私が通っている大学を紹介してくれたのは彼である。
「やあ、妻とはどうだったかね。浮かない顔をしているところ何かあったのだろう。どうだい、一杯がてら相談に乗るよ」
彼はお猪口を片手で持ち上げる仕草で呑み屋に行かないかと私に誘ってきたのだ。いつもであれば「お金が無いので遠慮します」と言って断るのであるのだが、久しぶりに飲むのも悪くないとの欲と小遣いが手に入ったこともあり、私は「そうですね」と言っていた。
私は彼の後に付いて行くかのように彼の後ろを歩いて行った。私と彼は別段と仲のいいわけではないし、昔関わりのあった仲同士でもなかった。それなのに彼は私と関りを持ちたそうに呑み屋だか寄席などに私を誘おうとしている。しかし、私には遊びに使うようなお金の余裕は無いため毎度毎度断ってきた。毎度のように断っていることに悪いと罪悪感を抱くことはある。が、私にはただでさえお金がない。それに、今の私の生活を支えているお金のほとんどは父の金だ。それを遊びだとかに使うことは私の正義感が許すはずがなかった。そのため私は生活費と学費以外にお金の消費を極力避けていた。
すると、目的の呑み屋に着いたのか彼の足が止まった。私も歩くのを止め、お店の方を見てみた。すると意外なことに呑み屋の外見はあまり洒落たようなものではなく、どこにもある簡易的な建物であった。私は銀行員である彼のことだからてっきり洒落た店に連れてこられることかと思った。
「どうだい、君に合わせてこういったところにしたのだが。それとももっと洒落た店の方が良かったかな」
どうやら彼は私に合わせてわざとこういった店を選んだようだ。そうであれば彼の行為に甘えるのが礼儀と言うものだろう。私は「そうですか」と呟き店に入っていく彼の後に続き私も入っていくことにした。
店に入り案内されたのは奥長い台に幾つもの椅子が置いてあり内側には店の者が料理を作っていたり酒の準備をしていたりする。これが俗にいうつけ場と言うやつだろう。呑み屋に入る機会はあまりないためこういったことに関する知識には疎い。そのため世間知らずと言われても文句はない。とりあえず私は彼の右隣の席にと座ることにした。彼は私が席に座ったことを確認すると店の者に酒を頼んだ。
するとしばらくすると店の者が徳利と二つのお猪口を私と彼の間に出した。どうやら店の者は一つの徳利を二人で飲むのだと勘違いしたのだろう。私は仕方ないので店の者にお猪口を一つ返そうとすると彼は「とりあえずは二人で飲もう。足りなければお代わりをすればいい」と言った。私は別にそれでも構わなかったため「分かった」と頷いた。
ここでは彼の方が目上であるのでまず始めに私が徳利を手に取り彼にお猪口を出すように促した。「これは失礼」と彼は言いお猪口を手に取り、私はそのお猪口に酒を注いだ。その後に自分のお猪口に酒を酌み軽く乾杯を済ませて飲むことにした。
久しぶりの酒の味は体に染みた。最後に飲んだのは確か香苗の結婚式の時だった。つまり最後に飲んだのは祝い酒と言うことだ。そう考えるとかなりの長い間酒を飲んでいないことになる。こうして酒を飲むのも悪くないと実感する。しかし酒と言う物を買うとなると話は別だ。酒と言うのは一つ買うだけでも割と高い、それに酒と言うのは依存性が高い。だからやけ飲みと言うのは中々抜け出すことができないのだとか先輩が言っていた。
「そういえば妻とはなんのことを話していたんだい。私にも話してくれないか」
すると彼は好奇心なのか私と香苗が何を喋っていたのかが気になりだしその話題を振ってきた。私はただただ香苗との会話を話した。しかし、私が香苗の気を害したと思われる発言にだけは避けて喋った。すると彼は何か気に不味そうな顔で言ってきた。
「そうなのか。実は前から君に言おうとしていたことがあったんだ。私が妻と婚約することとなった経緯なんだがそれにはちょっと複雑な経緯があるんだ」
ほう、まさか香苗との婚約には複雑な経緯があるとは思いも至らなかった。私はただただ黙って彼の話の続きを待った。私自身もどういった経緯があるのかが気になる。なぜならば、その経緯を聞けば『愛』もしくは『恋』についてどのようなものなのかが分かるかもしれないという勝手な自己解釈があったからだ。
「私が彼女と結婚したのは実はお金目的だったんだよ。銀行を運営し始めた時中々波に乗れずにお金だけが消えていくだけだった。そこで私の母は彼女に目を付けたのだろう。そこで母は私に、一目惚れなどとしたとか言って落とせなどと言ってきたんだ。それがどんなに卑劣で悪いことは分かっていた、だけど乗り越えるためには彼女と結婚しなければならなかった。つまり私は彼女のことを微塵たりとも想ってない卑劣な男なんだ。だが、頼む、このことはまだ君にしか言っていないんだ。だからお願いだ、彼女を傷つけないためにも黙っていてくれないか、許してくれとは言わない、だから頼む」
彼が私に向かって頭を下げてきたのを私はしばらくの間放心状態になっていたのかあるいは開いた口がふさがらない程彼を凝視していた。彼の言葉からまさかそんなことが出てくるとは思わなかったからだ。なぜならば香苗と結婚前提でお付き合いをしたいと言い始めたのは彼であった。最初にそのことを聞いた私はもちろん当然お金目的な男なのではないかと思った。しかし、私が初めて出会った時に感じた印象からしては全然そのような感じには思えなかった。むしろ心の奥から愛しており、まさしく一目惚れをしたのだろうと感じた。
すると私は私に頭を下げる彼を哀れに思えたのか、それとも同情のつもりなのか本来叱るべきところで彼に弁護の言葉をかけていた。
「そんな、あなたは悪くありませんよ。それに、あなたは彼女のことを想って、愛しているから私に真実を言い、そのうえで彼女に黙っていてくれと頼んだ。そうなんでしょ」
私は必死だった。彼自身に罪はないのだと。そして、彼が香苗のことを想ってくれている又は愛しているのだと確証が欲しいため。なぜそんな確証が欲しいのかは分からない。だけど私にはそれが必要だったのだろう、なぜならそれは『愛』が『恋』がなんであるのかと知りたいからだ。彼が香苗との『愛』を否定するようであれば彼と香苗との間にはきっと片方の『愛』又は『愛』そのものが無かったこととなる。そうなれば私の知りたいである『愛』だとか『恋』が知り得なくなるからだ。それでは私の目的は達成できない。それに、私の周りの私の知り得る中で互いを愛し合っていると思える人物が無くなるからだ。
私の知的欲求による欲は貪欲な物で昔から知りたい物に対してはどんなことをしてでも知りたいと思っている。そのため、今回の場合ではどんな手を打ってでも彼と香苗が互いに愛し合っており、二人のうちどちらからかに『愛』もしくは『恋』について教えてもらわなければならないからだ。
「君は優しいんだね、だけどその優しさを向ける人は間違ってるよ。それと、きっと君が求めているものの感情は『愛』ではなく『真実の愛』と言うものなのだろ。そうであれば聞く人を間違えてるよ」
彼の放った一言により私が具体的に、どんな感情について求めているのかを彼は私に教えたのであった。どうやら私の知りたかった感情は『愛』でもなく『恋』ではなく『真実の愛』だと言う感情であったのだ。であれば私はその『真実の愛』というものについて知らなければならないのであるのだろう。
私はすぐにでもその『真実の愛』と言うものについて知りたくてたまらなかったのか私の喉から「『真実の愛』と言うものは何なんですか」と口から発していた。
「私と妻の間に『真実の愛』はないことはさっきの会話で分かるだろう。だけど、私は知り得る限りに『真実の愛』について理解しているつもりだ。それでも構わないなら話そう」
その時の私はもう何でも構わないから『真実の愛』について知りたいと思い、ただただ顔を頷かせていたのであった。彼はお猪口に入ってある酒を一杯飲むと彼は語り始めた。
「私の考えでは『真実の愛』とは不変のものなのだと思う。決して揺らがずそれでいて最後まで二人で添い遂げるものが『真実の愛』なのだと私は思っているよ」
彼の言ったことは確かに『真実の愛』と言う物に近いかもしれない。しかし、それはおとぎ話に等しいような存在ではないか。人は誰しも移りゆくものがあってこそ人だ。そこに『恋』や『愛』など例外はない。つまり何が言いたいかと言うと、『恋』や『愛』にだって必ずどこかで移りゆき変わってしまうのだ。だから不変な愛などあるものだろうか。いや考えずとも分かる、その証拠が私の母だ。母の『愛』は移り変わった結果で不倫をしたのだ。だからこの世界、現実に『真実の愛』などないのである。そうなると私は一体何のためにここまで悩んだのだろう、この世界に無いものを探し求めていたのであれば見つからないも当然であろう。
「そんなの、そんなのあるわけが無いですよ。決して揺るぐことのない恋なんてこの世界にあると思うんですか」
私は手を振るわせて、自分では自覚はしてないものの少し強張った声で言っていた。その証拠なのか彼は困惑したような顔で私の方を見て「なぜそう思うんだい」と語りかけてきた。
彼は私の家族の間で何があったかは知らない。そのためここで父と母の話題を出すべきでもないし、出さないのが当たり前だろう。しかし、私は知ってもらいたかったのだ。いかに私の母、女には後ろめたさを持っているのか、そして不変な愛などないのだと。
「私の母は不倫をしてたんです、私の父がいたにも関わらず。所詮はそんなもんですよ、女はどこか後ろめたさを持っていてそれでいて欲に対しては忠実で。これのどこに揺らがぬ恋なんてあるんですか」
私は皮肉めいたような声で語り終えると急に彼が私の首元を掴み、顔があと数センチばかりで当たるくらいまでに顔を近づけ小さい声ながらも憤怒の感情が混じった声で言い寄ってきた。
「安易にそのような事を言うんじゃない。その言葉は全ての女性、私の妻を侮辱しているんだぞ」
彼のその言葉は正しいようにも思えた。すべての女がすべてそうとは限らないのだと。しかし、そのことを受け入れると言う事は今までの私の考えを無に帰すと言う事だ。そうなると途端に私は怖くなった。今までの考えを無に帰して新たな知識を得る、聞こえはいいかもしれないがそれは自分の考えは間違っていましたと言い表すことと同じだ。それどころか友人からは、考えを変えるとは根性がないだとか思われるかもしれない。そう考えると怖くて仕方ないのだ。
「違う、そうじゃない・・・私は」
考えた。何か私の言い分を正論にする手はないものかと。
この時私は話題を戻すべきだと考えたのだ。ただ単に逃げたと解釈する人もいるだろう。しかし、今私が聞いているのは『真実の愛』についてなのだ。それなのに私は女がどういうものなのかを話していたのだ。
「であれば、『真実の愛』とはなんなんだ。それとも私が知らないだけで不変な愛があるのか?」
私は顔を下げお猪口を手に取った。それと同時に彼も私の首元に掴んでいた手を退けた。彼の手が退かれたのを確認して私は手に取ったお猪口を口元にと運び、入っていた酒を飲みほした。
それから彼と私の間には黙りとした静かな空間が出来上がった。しかし、この黙りとした空間を壊しに来たのは彼の方だった。彼は私が何かしゃべる前に自分自ら先に発してきたのだ。
「じゃあ私はここらで帰るよ、妻も待っているからね。お金はここに置いていくよ」
彼はそう言い、お金を置いて店の外へと出て行ってしまった。
私にはただの脱力感だけが残りしばらくの間椅子に座っていた。結局彼との議論の末に『愛』とは何なのかは分からないどころか『真実の愛』と言う新たな疑問が出てきてしまった。彼自身は私が知りたがっているのは『真実の愛』と言うが、自分自身は『愛』を理解できなければ『真実の愛』について理解することはできないのだと思う。これは数学的なものと同じであり、加法や減法が理解できなければ次の段階には行けないことだ。
ここで考えていては仕方ないと思ったのか、私は彼が置いて行ったお金を掴んで会計を済ましてこの店を後にして行った。
私が『恋』や『真実の愛』について頭を悩まされて八年の月日が経った。『恋』に悩まされた時は色々と考えされたが、僅か一ヶ月半でその悩みは忘れることとなった。なぜならば、私が『恋』に悩まされたのちに大学から課題として小論文を書いて来いと言われたのだ。今まで小論文を書いたことのなかった私にはかなり頭を悩まされたため『恋』だとか『真実の愛』について考える暇どころか悩まされていたことすら忘れてしまったのである。小論文を終えてから思い出すことはあったものの私は、そんなこともあったのか程度の関心の無さであまり気にも留めなかった。今思えばそんな程度で忘れる悩みだったので大した悩みではなかったのかと思う次第である。
であれば私は今何をやっているかと言うと、私は晴れて大学を卒業した後に教師となるため更なる勉強をした。その勉強が実になり、私は小学校の教師としての道をこうして送ることができている。
「今日やったことをしっかりと家に帰って復習するんだぞ。それと寄り道せずにまっすぐ帰れよ。礼」
私は今日一日の締めの言葉を言った。すると生徒達はいつものように「先生ありがとうございました」との返事を返して教科書などを鞄に詰め込んで帰りの支度をし、早い人はもうすでに教室から出て行っている者もいる。
すると一人の男子生徒が私の下に近づいてきた。どうやら彼は私に何か用があるようだ。私は「どうかしたか」と問うと彼は私の顔を眺めるように私の方を向き言った。
「先生、『真実の愛』って何なんですか?本を呼んでいたらそんな言葉が出てきたんですがただの『愛』と何が違うんですか」
彼が放った言葉は昔私が悩まされたことだった。しかも彼は私が悩まされたことに悩んでいる、正確に言えば知りたがっているのだろう。昔であれば「知らない」と済ませられたが今は教師だ。ただ知らないと答えるのではなくしっかりとしたことを付け加えて言わなければならない。
「そうだな、私も何年か前にそのことについて悩まされた時があった」
彼は「うん」とだけ言って答えが気になるかのような眼差しで私を眺めた。私もそれに応えるために続きを語り始めた。
「結果だけを言えば、分からない」
「分からなかったの」
彼は驚いたような、鳩が豆鉄砲を食らったかのような顔で言った。私は頷いて更に続きを述べ始めた。
「だけど分かったこともある。それはね、『真実の愛』なんて要らないんだってことさ」
彼は更に驚いた顔でいて疑問を持った顔で「なんで」と言った。私は一呼吸置いてから続きを語った。
「私の知り合いは『真実の愛』は不変の愛って言ったんだ。だけどそれはおかしいことなんじゃないかな」
そうだ、不変なんて人としてはあり得ない。今ならはっきり言える。あの時は言えなかった言葉を言える。
「結構昔までは苗字なんて一部の人しか持ってなかったんだ、だけど今は誰だって持っている。もっと昔までさかのぼれば身に付けていた服、食べている物だって違う。つまり何が言いたいかって言われると、人は必ず変わるんだよ」
突拍子にそのような事を言われて彼はぽかんとした顔で目をぱちくりして私を眺めていた。どうやら彼にはちょっと難しかったのかもしれない。そこで私はもっと簡単に言ってあげることにした。
「そうだな、大人は仕事をしているけど君たちは学校で学び、遊んでいるだろう。だけど大人たちは誰しもが昔はそうだったんだ、形は違うかもしれないが。『愛』もそれと同じなんだ。だから私は不変の愛、『真実の愛』は要らないと思うんだ。ごめんな、先生お前が求めてること言えなくて」
彼はそれを聞くと首を横に大きく振り慌てた声で言った。
「そんなことないですよ。確かに目当ての回答、ではありませんでしたけど先生の言いたいこと少しは理解できそうな気がします。では先生さようなら」
彼はお辞儀をした後に元気よく私に手を振った。私も軽く手を振り返した。
今まで記憶の片隅に置いておいたが今日、彼の一言であのことを思い出した。あの時、香苗に言われた通り私は女嫌いかもしれない。だけどそれは『愛』、『恋』には関係ないのかもしれない。なぜならば、私は『愛』についてある程度理解することができたから。これによって女嫌いでも『愛』について理解できることが分かったからだ。では『愛』とは何か。『愛』とはすなわち一定の人に対して興味が沸き、興味から一線を越えたもののことだ。一線を越える前の状態はただ単に予感だ、『愛』の予感なのだ。そして一線を越える、これはつまり自分がその者を『好き』だと言う事を自覚した時こそが一線を越えて『愛』と言う感情になる。これこそが『愛』なのだ。
昔こそはそんな事考えも付かなかったが今では教師となって昔よりも様々な人と触れ合うこととなり女嫌いがある程度緩和され、さらには自らの未知さに知らされた。それによって昔の偏った考えや堅い思考が改善されこのような考えが思い付くようになったと言えるだろう。
だからこそ言えるだろう、もう私は『真実の愛』など興味がない。なぜならば人は不変ではないが『真実の愛』は不変の愛なのだからだ。変わることがあるから人らしい、であれば『真実の愛』など要らないのだろう。それに彼は、私の知り得る限りと言った。そうであれば彼と私が知らないだけであって別の『真実の愛』の形について知っている人がいるのかもしれない、そうであれば私は会って話してみたいものだ。しかし私はもう『真実の愛』について知りたいとは思わない。なぜならばもう一度『真実の愛』について知りたいと思うとまた深く悩まされそうだからだ。