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七月の出来事B面  作者: 池田 和美
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七月の出来事B面・⑨



 血だまりが広がっていた。

 怒られた子犬が現実逃避するような感じで、体を丸めているヒカル。

「いてえ」

 だが、まだ意識はあるようだ。

「ヒカル。大丈夫か?」

「コレ見て、どこが大丈夫なんだよっ」

 すぐに強気の言葉が返ってきて、むしろホッとした。

「あいつはどうした」

「あいつ?」

「天使だよ!」

 地面に転がっていたヒカルからは、戦いの様子は分からなかったに違いない。

「やっつけたよ」

 安心させようと笑顔を作りながらアキラは言った。

「宣言通り一発食らわしてやったぜ。勝ったんだ」

「勝った?」

 訝し気な声をヒカルが出した。

「よくて引き分けだろ。おまえにヤツが倒せるとは思えねえ」

 ヒカルも笑顔を見せてくれた。

「ひでぇ」

 アキラは嘆くだけだ。

「あの世まで三センチだったぜ」

 天使が最後に撃った鉄筋が、ヒカルの横に突き刺さっていた。確かに顔の横三センチというところだ。

「手当を…」

「どうすんだよ、手も無ぇのに。このマヌケ!」

 痛みの反動か、いつもより言葉がキツイ。

「いま回収班を向かわせておるからの」

 突然聞こえた明実の声に振り返る。すると、宙に浮いた金属球が目に入った。あの休憩室の床に転がっていた物だ。飛行可能だとは知らされていなかったアキラが、バカみたいに口を開けた。

「と、とりあえず、止血しましょ」

 喋りにくそうな声がしたので反対側へ振り返ると、顔を腫らしたクロガラスであった。

「止血ったって、どうすれば…」

「そのシャツを脱ぎなさい。それで傷口を押さえるの」

「脱ぐ?」

 自分の肘までの腕を振る。それを見てクロガラスは疲れたような溜息をついた。

 クロガラスの手を借りてシャツを脱いだ。丸めたそれでヒカルの腹の傷を圧迫し、止血に入る。見る間に格子柄のシャツが赤く染まっていく。

「さ、交代して。押さえているだけなら、その腕でもできるでしょ」

 自分の指に着いたヒカルの血を、アキラのシャツで拭ってからクロガラスが言った。

「わたしは、他の人を見てくるから」

「のんびりしてていいのかよ」

 苦し気な声になったヒカルが訊ねる。それに対して金属球から明実がこたえた。

「安心しろヒカル。天使の体は二キロ向こうで煙となって消えた。他にドローンの警戒網には不審な人間などの反応は無い」

「消えた?」

 幾分か呼吸が浅くなったヒカルが聞き返した。

「ああ。まるで忍者のようにドロンとな。だから安心していいぞい」

「彼女は気絶しているだけね」

 ひょいと右脇にダイヤを抱えてクロガラスが戻って来た。足元にマメシバに見える小型犬が纏わりつくようにしてついてきていた。

「タンコブができた程度。もしかして一番怪我していないんじゃないかしら」

「コクリ丸も無事か?」

「ひゃん」

 アキラにこたえてから、ヒカルの横に寝かされたダイヤの顔を舐め始める。

「あー、オーイワの唇が、コクリ丸に奪われてしまったー」

「軽口が出るならまだ大丈夫ね」

 ヒカルが半ば笑って言ったセリフに、クロガラスが呆れた声を返す。

「いちおう脳へのダメージが心配されるけど、たぶん大丈夫でしょ」

「ケンジはどうだ?」

「それが…」

 ヒカルに訊ねられてクロガラスが酸っぱい顔になった。

「ダメだったか」

「嫌だなあ。勝手に殺すなんて」

 底抜けに明るい声がした。間違いなくアスカの声だ。

「げ」

 両肘でヒカルの傷を押さえていたアキラから変な声が出た。

 何を見たのだろうとヒカルが首を起こした。

「うげ」

 ヒカルも中途半端な姿勢で固まった。

 赤土の地面を、両手を使って歩いて来るモノがいた。頭から肩にかけて異常は見られない。それなりの形を誇っていた胸にも異常はないようだ。

 だがそれだけである。それよりの下の体を、どこに置き忘れてきたのか。いまのアスカにはついていなかった。

 白いTシャツの裾は赤を通り越して黒く汚れていた。いま現在も止血はされておらず、ボタボタと血液やら体液などが、雨漏りした安普請という感じで垂れていた。

「いやあ胴を千切られるなんて、何年ぶりだろう。前は交通事故だったはずだよ」

「平気なのか?」

 鉄筋一本で血が止まらない自分を横に置いておいて、ヒカルが訊ねた。

「こんなこともあろうかと、じきに止まるように造ってあるよ」

 自分の無い下半身を見おろしてアスカが自嘲気味に笑った。

「まあ、この身体が停止しても、まだ予備はあるからね。心配ご無用だよ」

「やはり本体じゃないのか」

「それはどうだろう」と曖昧に微笑んで「まあでも、この顔は気に入っていたから、できれば停止させたくないなあ」

 そこまで言ってアスカは、別の方角を振り返った。

「誰か来たみたいだけど?」

「ああ、それはウチの回収班だ。心配しなくてもいい」

 一瞬走った緊張が明実の言葉で緩んだ。

「あれね?」

 五人の中で唯一、自分の足で立っているクロガラスが、斜面を見おろして言った。アキラもその方向へ首を伸ばして確認する。

 丘の下。学園の敷地ギリギリに設けられた管理用の砂利道に、白いワンボックスが五台停車していた。

 車内から三人ずつ白衣を身に着けた男たちが、丘の頂上を目指して登って来る。

「いちおう研究所に収容できるが?」

「ボクは遠慮するよ」

 アスカが即答する。

「あっちに…」と顎で中等部旧校舎の方角を示し「…ボクの車が停めてあるから、そこまで運んでくれれば、あとは自分でやるよ」

「わたしも、自分で歩くことができるから、遠慮しておくわ」

 そう告げて、クロガラスは先に行こうとした。その背中へ追いかけるように明実の言葉がかけられた。

「連絡は欠かさずに。それと月末にでも、今回の評価を」

 背中を向けたまま腕を振って去っていく。途中で大剣を回収する事も忘れなかった。

 入れ替わりに白衣の男たちが到着。畳んで持って来ていた担架を広げ、まずダイヤを乗せた。

「できれば、向こうの下半身も拾っておいてもらいたいのだけど」

 注文が多いアスカの担架は、一旦戦場になった辺りを一周することになった。アスカの下半身に加え、あの不気味な助っ人の残骸と一緒に丘を下っていく。

「…」

 白衣の男が、ほとんどジェスチャーだけで止血を交代する意志を示してきた。

「心配そうな顔すんなって」

 止血を代わった男とは別の男が、包帯のような物を取り出した。応急治療用の止血帯である。それを服の上から巻くために、ヒカルの上体が起こされた。

 それから担架に乗せられながらも、まるで弟を慰めるような笑顔を見せるヒカル。それを見送っていたアキラも促されて、丘の斜面を下った。もちろん右腕を拾ってもらうことは忘れない。

 白いワンボックスは、四人を乗せるとすぐさま発車した。これが普通の人間ならば、救急科のある病院を探して電話をかけなければいけないだろうが、幸い行先は決まっていた。

 砂利道の管理用道路から、アスファルトで舗装されている道へと出る。そこで一台のワンボックスとはお別れだ。アスカの車とやらは、大学の方にある駐車場へ停めてあるようだ。

 四台に減ったワンボックスは、そのまま河岸段丘を上る道から国道へと入った。すぐに清隆大学科学研究所だ。

 駐車場でしばらく待たされる。せめてヒカルの横に行きたいが、なぜか車内で待機となった。

 待っている間に、またあの感覚が襲って来た。あの重い憂鬱な感じである。しかし、アキラの身体を治せるのは、世界広しと言えども、この研究所だけなのだから我慢するしかない。

 吐き気のような物を我慢している内に、ワンボックスの周囲を別の男たちが点検した。その男たちも白衣を着ていたから、おそらく研究所の者なのだろう。

 これまでになく焦らされたあと、やっと車から解放される。二人は明実の待つ研究室へ運び込まれた。

 すぐさまアキラは、屋上にあるシリンダーへと収容された。この円筒形をした装置が『施術』のキモらしいが、全裸で青く光る『生命の水』に浸からなければならない身にもなって欲しい。しかもこのシリンダーとやらは三六〇度すべてが透明な素材でできているのだ。

 いくら武蔵野とはいえ東京でコレはなかろう。殴られた痛みなどが無ければ羞恥心で逃げ出したくなる。

 これで入浴のように一人で浸かっていればいいのならまだしも、さらに頭に三角頭巾を被っている変な服装の集団が輪になって見ているのだから余計だ。

 このシリンダーを中心に描かれた屋上魔法陣で『儀式』をすることで『施術』が完成するらしいが、この建物の表に掲げられた看板に対して文句をつけたくなる。いったい科学とは何であろうか。

 もう一つ文句をつけるとすれば、肘から先の腕を後から放り込まれることだ。これを経験する度にアキラは、自分がオデンの具になった気がするのだ。

 アキラが屋上のシリンダーで『微構築』を受けている間に、ヒカルの手術が行われた。執刀したのは明実である。

 両腕を取り戻したアキラは、シリンダーから研究所奥にある入院施設へ。ここは、この身体になった時にしばらく暮らしていた部屋だ。

 横になってもいいが、身体に異常はまったくない。天使と共に文字通り飛んで行った左腕は、まだ回収されていなかったが、代わりに大量生産されていた内の一本が使われたようだ。

 のしかかって来る無言の圧力のような感覚以外に、まったく異常は無くなった。銃床で張り飛ばされた顔だって、もう綺麗なものだ。

 シリンダーから出た後に渡されたガウンから、綺麗に畳まれていた自分の服へ着替える。この部屋にシャワーがあるのを知っているが、風呂は帰ってからにしたかった。

 なにしろここは明実の研究室。「研究のために必要」とか言って、風呂場にだって監視カメラが設置されていてもおかしくはない。

 しばらく暇をつぶしていると、ストレッチャーと共に白衣の人物が現れた。明実である。

「よーう。どうだ? 異常はないか?」

「オレは大丈夫だ。それよりヒカルは?」

 ストレッチャーに駆け寄ると、目を閉じたヒカルが寝かせられていた。

「いまは麻酔が効いておる。夜までには目が覚めると思うぞい」

「ああ、うん」

 アキラの答えがおざなりになった。ストレッチャーで眠る相棒が、いつもと違った印象だったせいだ。

「で、ベッドに移すのを手伝って欲しいのだが」

 明実はストレッチャーをベッドの脇で固定した。身長は避雷針のように高いが、頭脳労働ばかりで、あまり力は強くない。対してアキラは『施術』のせいで怪力だけはある。

「よいしょ」

 ほとんど一人でヒカルの体を抱き上げて、ベッドへと移してやった。きれいに畳まれていた毛布をそっとかけてやる。

「かみ…」

「ん、ああ。まあな。前に説明したように、ヒカルの『マスター』が作っていた『生命の水』と、オイラのとでは、成分が違うせいであろうな」

 ヒカルの黒かった髪に、白い物がだいぶ混じっていた。たったそれだけなのに、随分と年上に見えた。

「目が覚めて鏡を見たら大騒ぎであろうな」

「きっと、おまえを張り倒すだろうな」

 アキラの感想に、明実は足で椅子を引き寄せつつ肩を竦めてみせた。

「オイラは精一杯やっておるぞ。これ以上ない位にな。それで異常が出るならば、オイラの力の限界だ。少し待っていてもらわないとな」

「そこは『諦めてくれ』じゃないんだな」

 明実に促されてアキラは椅子に腰をおろした。明実も、もう一脚をまた足で引き寄せると、アキラの前で腰をおろす。

「なにを言う。天才たるオイラに不可能なぞ、ちょっとしかないぞ」

 胸を張る明実を見ていると、日常へ戻って来た実感が湧いてきた。

「よろしくたのむぜ。オレを男に戻すことも含めてな」

「うん?」

 眉を顰めた明実はまじまじとアキラの顔を見た。

「まあ、足りない物が揃ったらな」

「?」

 その言い方に首を捻るアキラ。しかし明実は笑顔を作り直すと、扉の方を指差した。

「オーイワは研究所の医務室で目を覚ました。頭痛吐き気などの症状も無いし、異常と言ってもオデコにできたタンコブぐらいであろう。迎えの者が来るまで休ませてある。クロガラスは教員用のシャワー室で身支度を整えて、帰宅したようだ」

「もうか?」

「学園の敷地内ならば追跡できるが、それ以上はお互いの私生活を覗かないという協定に抵触するであろう。もしかしたら、もう姿を見せないかもしれぬし、明日辺りココへ押しかけてくるかもしれんし。わからん」

「あいつは? ええと鍵寺」

「鍵寺明日香についても同様だ。担架で運んだ者の証言によると、あの分断された体を小型自動車へ収めてやると、自分で運転して帰ったそうだ」

「ええ?」

 完全に分かれてしまっていたアスカの体を思い出す。デキの悪いホラー以下の絵面だった。

「どうやったんだろ?」

「そらあ、あれじゃろ」

 明実は人差し指を立てた。

「手でハンドルを握り、足でアクセルを踏んでじゃろ」

「あれじゃあ踏ん張れないだろ」

なにしろ腹筋が泣き別れだったのだから、足に力が入れられないはずだ。

「それか、エンジンが我々の常識とは違うエンジンだったとか」

「はぁ?」

「いちおう外見は、軽じゃない車って宣伝している小型自動車だったようだが、中身まで見ておらんからな。エンジンを『施術』の技術を応用して、とってもエコな物に取り換えていたら、運転者がハンドルを握らなくてもいいかもな」

「なんだよ、その『とってもエコ』って」

 アキラの顔から血の気が引いて来た。

「聞きたいか?」

 わざとらしくニヤリと嗤う明実。

「…」

 そこら辺を飛んでいるようなハトに、自分の眼球を移植するような者である。それに最初に会った時の顔を移植した猫の例もある。

 アキラは、昔どこかで見たマンガのように、小型車が前輪に持ったナイフとフォークを使って、ラジエターの口で食事をしている姿を想像してしまった。

 その思考を読んだのか、明実が明るい声で言った。

「血液満タン入りま~す。すいませんね、お客さん。今日はO型しか無くって。とかかの」

「うへえ」

 体を捩って震わせていると、明実が屈託のない笑い声を上げる。

「まあ一番ありうるのは、予備の体が車内に隠してあって、それを使って運転していったということだろうな」

「天使は?」

「言ったであろう。ドロンと消えたと」

 ちょっと難しい顔をしてみせる明実。

「あれでお終いなのか、それともいつかはダメージが回復して戻ってくるか、微妙なところだの」

「もともと死体が残らないとか」

「オマイはパンチ一発で死ぬのか?」

 嘲るような響きを混ぜて明実が訊いてきた。

「いや、普通は死なねーだろ」

 実際、先程の戦いでアキラは腹も殴られたし、顔なんかクロスボウの銃床で殴られた。

「そういうことだ」

「じゃあ、また…」

「そうだろうな。それと思い出してもみろ」

 また立てられた明実の人差し指の先を注視する。

「クロガラスが言っておったろ。捥いだ首があると。つまり天使も死ぬと死体が残るのだ」

「じゃあ引き分けかあ」

「受けた損失からすると負けているがな」

「そうか?」と思案顔になったアキラは、ベッドで眠るヒカルをみた。

「いや勝っただろ」

「ほほう。それぞれが程度の差はあれど負傷し、銃まで持ち出したというのに決着が着かなかったのだが? そう言い切れる根拠は?」

 アキラは手を伸ばして、乱れていたヒカルの髪を整えてやった。無意識なのかヒカルが顔を擦りつけてくる。

「こうして、オレたちが生きている。それで勝ちだろ」



「まったく、あの野郎は」

 由美子はプリプリ怒りながらC棟の廊下を歩いていた。陽はだいぶ傾いており、そろそろ校内放送で最終下校時刻が告げられて、強制的に帰宅させられる時間である。

 終業式の今日は、三時まで図書室を解放。その後から蔵書を整理するために図書室を閉めた。

 それからが大変である。椅子やソファを片側へ寄せ、床に敷いた工事用のブルーシートに、棚の列ごとに本を並べて行くのである。

 もちろん模範的な利用者ばかりではないから、分類が違う物がたくさん混じっている。

 全部床に出したら、本を拭いてやりながら、本に記した番号通りに再分類しなければならない。

 番号で仕分け終わったら、今度はその中で作者順。さらに五十音順と、手間ばかりかかる作業が待っている。

 今日は床へ半分ぐらい出したところで時間切れとなった。

 それというのも、人手が圧倒的に足りないせいである。

 本当ならば陣頭指揮を執るはずの委員長は顔も見せず、副委員長である由美子が色々と判断しなければならなかった。しかも慣れているのならまだしも、今年入学したばかりの一年生で、初めての蔵書整理なのだ。

 ちょぼちょぼと顔を出した二年生の委員がサポートしてくれたが、右も左も分からない状態からの棚卸である。肉体的にも精神的にも来るものがあった。

 委員長自らサボるぐらいであるから、各クラスから二名ずつ選出されているはずの委員たちも、二割以下の出席率であった。これでは仕事が進むわけが無い。

 唯一の救いは、いつも由美子が「ロクデナシ」呼ばわりしていた『常連組』の連中が、率先して動いてくれたことだ。

 図書委員で無いから本当は入室も禁止なのだが、相撲取りみたいにガタイが立派な奴も混じっている連中である。途中でサトミがお茶菓子に用意したカリントウを全部一人で食べちゃったり、不破空楽が窓際で寝落ちしたり、権藤正美の銀縁眼鏡(ほんたい)が外れるなどのトラブルがあったが、彼らを含めた『常連組』の活躍には感謝せねばなるまい。

 そして無関係な者が活躍すれば、余計に活躍しなかった関係者が目立つというのは、物の道理であった。

 教室から連行することには成功した孝之を「ちょっと用事がある」と男子トイレの前で放したのが失敗であった。

 それから色々と仕事が押し寄せてきて、孝之のことはほったらかしになってしまったが、業務が終われば別である。

 どうとっちめてやろうかと、あれやこれやと考えながら、まず彼を見失った二階西側の男子トイレまでやってくる。

 最終下校時刻近くの放課後である。専門教科教室が集められているC棟と、学生会館という名目の暇人たちの溜まり場があるD棟二階との境目。人の気配は全くなかった。

 とは言っても、乙女である由美子がズカズカと男子トイレに入り込むわけにもいかなかった。

(さすがに、もう移動してるよね)

 入口で躊躇していると、水音がした。その後に蛇口を締める音がして水音が止む。

 どうやら隣の女子トイレから誰か出て来るようだ。

「あ、姐さんじゃない」

 朗らかに挨拶をして来た相手を確認し、三歩踏み出すと、最後に踏み込んだ軸足へ体重を移動させ、振り出した右拳のインパクトの瞬間に脇をしめる。

 ドスッ。

「ぐは」

「アんで、おまえが女子の方から出て来ンだよ!」

 当たり前のような顔をして女子トイレから出てきたのは、男のはずのサトミであった。

「い、いつもより、ちから、はいってない?」

「当たり前だろ。このチカン。センセに言いつけてやるから」

 身を屈して廊下へ崩れ落ちる寸前のサトミを、腕組みをして見おろす。

「女の子のお腹を殴るなんて。大事な赤ちゃんを授かれなくなったら、姐さんのせいだからね」

 涙目になって言われても説得力が無かった。

「放課後だからって、女子の方へ入るの禁止だかンな」

「じゃあ昼休みはいいね」

「余計悪いわ」

 火を噴く勢いで怒鳴りつけておいて、それから表情を戻す。

「まあ、あたしの言う事聞いてくれるンなら、今回だけは見逃してやる」

「え~」

 不満そうに眉を顰めるサトミを一睨みで黙らせる。

「真鹿児がいないのよ。ンで、そン中に居ないか知りたいのよ」

「入ればいいじゃん」

 気軽にサトミは言った。

「いいんだよ。男が男子便所に入ったって」

「調べて欲しいンだけど?」

 再び身を屈して痛みに悶えるサトミの後頭部へ話しかける。

「ぼ、ぼうりょくはんたい」

 由美子のボディブローがめり込んだため、腹筋に力が入らずサトミの台詞は全部平仮名に聞こえた。

「おら、調べてこい」

 軽くサトミの足を蹴飛ばす。サトミは渋々といった態で、今度は男子トイレの方へ入っていった。

「おーい」

 呑気に声をかけている雰囲気だけが伝わって来る。

「まさかと思うけど、マカゴ君かい?」

 個室をノックしている音。

「…」

 しばらく待っていたら、サトミが出てきた。

「個室が一か所埋まっているんだけど、反応が無い」

「鍵が壊れているとか?」

「それだけだったらいいんだけど」

 とても言いにくそうにサトミは告げた。

「女子の方もそうなっているから分かると思うけど、個室って足元だけ覗けるようになっているでしょ」

「ああ、まあな」

 こんな時に、サトミの違反行為が役に立つとは皮肉である。由美子にも男子トイレの中が想像できた。

「そこから覗いたら、倒れているらしいんだ」

「え!」

 由美子の反応を楽しそうに見ながらサトミは告げた。

「なんか知らないオジサンが」



 七月の出来事B面:おしまい




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