七月の出来事B面・⑦
そして憂鬱な朝が来た。
二階の自室で支度を終え、暗い顔でダイニングへと下りていく。そこではエプロン姿をしたアキラによく似た女性が待っていた。
「おはよ、アキラちゃん」
仕草から、その微笑む頬の柔らかさまで、アキラと瓜二つである。
それもそのはずだ。彼女はアキラと血を分けた家族なのだから。
ただし姉のように見える外見からは想像しにくいが、続柄が母というところが普通とは違った。
清隆学園へ入学する前の中学時代には、普通の男子だった彰の姉妹に間違える者が居たほどの若作りである。しかも当時は姉ではなくて妹に間違える者すらいた。
彰がアキラとなって、さらに姉妹感が増してきたような気がする。なにせ体格まで近いので、お互いの服が融通できる程なのだ。
これが海城家の主婦、香苗である。
「おはよ、かあさん」
暗い表情のまま挨拶を返す。食卓には、スクランブルエッグにトーストといった海城家の平均的な朝食が三人分用意されていた。
一番トースターに近い席は香苗の席である。その向かいがアキラの定位置であった。その席の横にも、もう一人分の朝食が並んでいた。
父である剛はまだ帰宅していないはずだ。だいたい剛の席はテーブルの一番上座に当たるところをいつも使っているので、そこではない。
もう一人分はもちろん…。
「おはよ」
二人に挨拶しながら現れたのは、同居人のヒカルである。
そのぶっきらぼうな挨拶には理由があった。
ガサツなヒカルは家庭的な香苗を苦手と感じているところがある。が、毎食こうしてちゃんとした食事を用意してくれる相手を疎かに扱うわけにもいかなかった。
最初の内は挨拶もあまりしなかったが、今では「反抗期の娘と母親」程度の会話は交わすようになっていた。
「さ、いただいちゃいましょ」
エプロンを外して、三人揃って手を合わせる。
「いただきます」
ほとんど無言で朝食を口へ運ぶアキラ。それとは対照的に、元気よくトーストにパクつくヒカル。
並んで食べる二人のそんな様子を見ていた香苗が、探るような目線から一転して曇りのない笑顔になった。
「あら、今日のヒカルちゃんは機嫌良さそうね」
「んあ?」
先程述べた通り、香苗から話しかけてもヒカルが碌な返事をしないのが、いつもの二人の関係なのだが、今朝は違った。
「そう見えるか?」
「うふふ。どうやら自信あるのね?」
目を細めた香苗がチラリとアキラへ視線をやってから言い切った。
「通知表」
「は? あ? ああ、そっちか」
別の事を考えていたらしいヒカルは、それでも少し前に出て笑顔を見せた。
「あんなレベルで躓いてちゃ、ガッコのセンセに悪いってやつだ」
そうなのである。今日は一学期最後の日、高校一年生ならば楽しい夏休みを前に、浮かれているのが普通である。そして普通ではない二人にとって、共闘相手と設定した天使との決戦日でもあった。
もちろんアキラは、これから迎えるその修羅場を思い、暗い顔をしていたのだが…。
「うっ」
ヒカルの明るい声を聞いて、アキラの顔が一層歪んだ。
忘れていたわけでは無い。いや故意に忘れようとしていたのかもしれない。
だが今日は終業式。当たり前だが夏休み前の儀式として、一学期の成績が無慈悲な紙によって、各家庭へと知らされる日でもある。
その息子であり娘である者の変化を見逃したのか、それともわざと見なかったのか、香苗はちょっと斜め上を見てからボヤくように言った。
「誰かさんは『通知表を楽しみにしてくれ』って言って、答案用紙一枚も見せてくれなかったのよ」
アキラの口真似なんかして見せる香苗。
アキラはそそくさと食事を詰め込むことに専念した。口いっぱいに頬張ってから、ミルクたっぷりのココアで流し込む。もちろん味なんてわかるわけがない。
「あ、コラ、アキラちゃん。ちゃんと噛まないとダメでしょ」
「悪ぃ、今日は急いでいるんだ」
部屋から下りてきて、まずリビングに放っておいた通学バッグへ駆け寄り、ヒカルを待つことなく玄関へ。
「なんだなんだ? そんなにアキザネの横が恋しいか?」
からかうようなヒカルの声も気にならない。
後から追いついて来たヒカルと、狭い玄関でお尻をぶつけ合いながら靴に足を通した。
「じゃあ行ってきます」
振り返ると、香苗の手が襟元に伸びてきた。彼女が夏服の要所を引っ張るだけで、魔法のように皺が消えていく。
「よし、いってらっしゃい」
それでも香苗は笑顔で送り出してくれた。
玄関を出てから、歩きながら寄りかかるようにして、ヒカルが体を寄せてきた。
「おまえも肝が据わって来たな」
「?」
なにを言っているんだろうと内緒話の相手を見る。
「香苗とは、今生の別れになるかもしれないんだぜ。それにしちゃあ、あっさり別れることが出来たじゃねえか」
「ま、まあな」
そう言われてちょろっとだけ玄関を振り返った。いつもは玄関で別れる母親が、今日だけはツッカケを履いて、外まで見送りに出ていた。
心なしか、その表情が不安げに曇っているようにも見えた。
「ほら、おまえがいつもと違ぇから、心配して出てきたじゃねえか」
「それは、おまえの方だろ」
言い返して睨みつける。今日のヒカルは、いつもの通学バッグの他に、まるでバンドマンのキーボーダーが持ち歩いているようなケースを肩にしていた。
中身はもちろん物騒な「オモチャ」だ。
終業式の今日は、全体集会とホームルームだけで終わる予定だ。もちろん進学校である故か、放課後に自由参加が建前の講習会が予定されていた。複数開催予定のそれらから、自分の進路や学習進度に合った講習会を選択して参加する生徒は大多数であろう。
また運動会系の部活では夏季大会に向けての練習も予定が組まれているだろう。
そんな学校の放課後で、二人は修羅場を迎えようというのだ。
御門家の前では明実が、いつもの制服の上に白衣という服装で待っていた。
普段と同じく、清隆学園高等部の生徒たちは、教室に集合した。
どことなく浮ついた雰囲気なのは、明日から始まる夏休みというイベントに期待しての物だろう。
もちろん受験を控えた三年生には、そんな軽い空気は訪れていない。推薦枠から外れた生徒には、これから長く厳しい夏季講習という登り坂が待っているのだから。推薦を受ける予定の者だって、その試験に向けて色々と準備をしなければならない時期でもある。
そんな足首までアスファルトに埋もれた進学希望の三年生たちを除いて、生徒は軽やかに講堂へ移動した。
そこで校長からのありがたい話という苦行に耐えることになる。
まあ、それを耐えれば無事に釈放、自由な夏が待っていると思えば、少しは忍耐力の助けにはなった。
もちろん内容をちゃんと聞いている者など存在しない。
生徒会の役員などは、ありがたい話として会報などに引用する事もあるが、それだってポケットに忍ばせた録音機材が無ければ不可能であろう。
保健の山井先生から夏休み中に大きな怪我や重い病気などに罹った場合の注意点や連絡方法などの説明もあったが、それもクラスで後から配布される保健委員会のプリントを読めば事足りるはずだ。
そうして、いささかの私語による喧騒混じりの終業式も終わり、後はクラスで大多数の者が忌々しい、そしてごく少数の者が待ちかねた、白い紙が配布される儀式だ。
清隆学園高等部では、大時代的に硬質の紙にプリントして成績が配布される。
最近の学校らしく、登録した者ならばネットで検索ができるようにもなってはいる。そちらだと自分の学年順位だけでなく、実際にドコがダメで苦手なのか得意不得意まで分析されて載っていた。
が、昭和生まれの校長が「成績表はこうじゃなきゃダメ」と言い切って、いまだに数字を書き込んだ硬質の紙を渡すという古いシステムも残っているのだ。
その紙に並んでいる数字を見て、青くなったり赤くなったり、クラス中が悲喜こもごもだ。
誰にも覗かれないように、垂直に立てて中身を検分していたアキラは、ホッと安心した溜息をついた。
この成績ならば、保護者の呼び出しという最悪の事態は避けられたようだ。
ただし、納得してくれるかは別問題であるが。
念願のスマートフォンの所持は二学期へ延期になりそうだ。
「どうだ? いい数字が並んでいるか?」
ヒカルが冷やかすように訊ねてくる。覗かれないようにピシャリと閉めて、素早くバッグへと仕舞いこんだ。
「普通」
そっぽを向いてそれだけを言う。それを見たヒカルが苦笑のような物を浮かべた。
「普通ねえ」
ヒカルの声には少し軽蔑する物が混ざっているような気がした。
連絡事項が終わっても教室に残っていた担任が「夏休みだからと言って、ハメを外しすぎるなよ」という定番な言葉を残して出て行った。
それを確認してからヒカルは、いちおう我慢していた柄付きキャンディの包装を解き始めた。
「アキラちゃんと、ヒカルちゃん。見せっこしない?」
まるで小学生のような事を言いながら近づいてきたのは『学園のマドンナ』こと佐々木恵美子だ。
「絶対にイヤ」
「別にいいが」
アキラとヒカルの正反対の返事が重なって、目を白黒させる恵美子。
つい立ち止まってしまった彼女をかわして、今度は明実が近づいて来た。
「アキザネはどうだった?」
「良くないな」
こちらは悪びれずに堂々としている明実。
「よくない?」
学校の成績に関して、彼からは聞きたくない言葉であった。下手をすると五段階評価でオール五を逃してしまったとか言われかねない。
そんな事を言われたら、ショックで血反吐を吐いてしまうと思いつつも、アキラは好奇心の方が勝ってしまった。
「おまえの成績が悪いなんてこと、あるのかよ」
「体育の成績が三であった」
ちなみに清隆学園高等部では一学期と二学期は十段階評価、三学期に渡される成績は一年間の集大成という事で五段階である。
「はあ?」
つい素っ頓狂な声が出た。体育の授業は男女別なので、明実が授業中にどんな様子だったのかまでは分からなかった。しかし男女別の授業だろうが、アキラは中学時代まで、それこそ肩を並べて一緒に授業を受けていた仲だ。
その記憶からすると、明実の運動神経は並みで、普通に授業を受けていれば落第点とは無縁の成績が取れるはずである。
「あ」
そこまで考えてから気が付いた。醍醐クマから技術供与があってからこっち、彼はちゃんと授業に出ていたか、だいぶ怪しい物だったからだ。自分の興味がある理数系の授業や、居眠りできそうな文系の授業ならまだしも、余分に体力を消耗させて研究に支障があってはいけないと、体育の授業はサボり気味だったかもしれない。
「そっか御門くんは体育が苦手かあ」
事情を知らない恵美子が安心した声を上げる。
「私と正反対だね」
「するとコジローは、体育の成績はいいのか?」
ヒカルの質問に、照れたような笑顔だけで返事がかえってきた。そしてヒカルは明実に向き直ると人差し指を突きつけた。
「おまえはサボりすぎだ。少しは反省しろ」
どうやらアキラと同じ事を考えていたようだ。
「まあ、そうであるな。これからは気を付けるとしよう」
少しも反省していない態度の明実。
「そういうことで体育の成績は三。保護者の呼び出しギリギリであるな」
「他は?」
ヒカルが口にした質問に、明実はそれが「あれれ~」等とワザとらしい声を上げる眼鏡をかけた蝶ネクタイの小学生(私立探偵事務所に居候)の周囲では毎日のように殺人事件が起きるぐらい当然という態度でこたえた。
「十だ。他の成績はな」
「全部?」
ヒカルが確認するために訊ねると、うむと頷いて腕組みをして見せる。
「全てだな。古文から地学に至るまで」
「ぐはあ」
突然アキラと恵美子が声を上げて、二人は目を丸くした。
「どうしたのだ? 二人とも」
「いや、つい自分が血反吐を吐いたような錯覚が…」
「おかしいな。私もそんな気が…」
そして二人で顔を見合わせて、戦友が身近にいたことを喜ぶかのように、微笑みあった。
「で?」
そんなアキラにヒカルが冷静に訊いた。
「おまえはどうなんだよ?」
「どうもしねえよ。普通だ普通」
さっきと同じ単語を、今度は感情的に重ねる。それを見て、ヒカルと明実の二人が揃って目を細めた。
「ふ~ん」
そんな癪に障る態度の二人に、何も言い返せない自分が不甲斐なかった。
「さあ、見せてみようか」
ずいっと明実が顔を近づけた。
「いいから、お姉さんに見せてごらんなさい」
ヒカルまで同調して乗り出してくる。
「私もみた~い」
恵美子も便乗してきた。
「さあさあ」
「~~~~」
三方向から追い詰められて言葉にならない声を上げるアキラ。
「くぅるらあああああ」
そこに怪鳥の叫び声のような声が割って入った。
「?」
四人して振り返れば、荷物を抱えて抜き足差し足といった感じで教室を脱出しようとしていた孝之へ、由美子がタックルをかますところであった。
「ぐはあ」
わざとらしいリアクションで孝之がぶっ飛ぶ。その先に、顔を寄せ合っていた四人がいた。
ドーンとぶつかって来た衝撃に、男の明実は耐えることができた。運動神経がいい恵美子は、さっと横へ避けることができた。が、ヒカルはアキラに対して上体を乗り出す形にしていたせいか、座っているアキラの上に落ちてきた。
「わ、バカ」
避けることもできたが、そんなことをしたらヒカルは顔面から床へ突っ込むことになっていただろう。アキラは全身で受けとめた。
「ぐっ」
ヒカルが口にしていたキャンディの柄が、制服越しに胸に刺さった。
「あいてて」
明実に支えてもらいながら孝之が体勢を立て直す。自分の背中で押してしまったヒカルを振り返って確認した。
「ごめんごめん。いきなり藤原さんが押すから」
「大丈夫?」
アキラの腕の中にいるヒカルの無事を確認してから、由美子は牙を剥いた。
「いきなり逃げようとする、おまえが悪いンだろうが」
その由美子のセリフで、この二人がいつもの通り、図書委員会の仕事をサボろうとした孝之を由美子が捕まえるという、一年一組で名物となっている夫婦漫才のようなコミュニケーションをとっていたのがわかった。
「まったく、おまえは。アキラにまで迷惑かけて。大丈夫? ヒカル」
クラスで班行動する時には、由美子を班長としてアキラ、ヒカル、恵美子と四人で組む関係だ。そのためクラスの図書委員である由美子とは、下の名前で呼ぶくらいは仲良くなっていた。
「王子ひどいぞ」
ヒカルがアキラに抱き着いたまま抗議の声を上げる。
「大丈夫?」
「顔をうったよ」
自分の眉間あたりを撫でるヒカル。
「もう少し海城さんの胸が大きかったら、痛くなかったんじゃない?」
これは孝之だ。
「それはセクハラというやつではないか?」
いちおう研究所では女性の部下がいる明実が注意する。
「あ、やっぱそう?」
「自覚があるんかい」
怒った声で由美子が孝之の左手を掴んだ。
「今日からは蔵書整理があるんだからね。覚悟してもらおうか」
「きゃー、たすけてー、ひとさらいー」
孝之が声を上げるが、とても平板な物だった。同情するどころか「夫婦喧嘩は犬も食わない」という言葉を連想してしまうほどだ。
「コジロー、あたしの荷物お願いね」
そのままズルズルと孝之を引きずったまま教室から出て行った。おそらく、あれだけガッチリ掴まれたら脱走は不可能であろう。その背中に恵美子は追いかけるように声をかけた。
「まったくもう。浮気はダメなんだよ」
「浮気?」
「王子には、もう決まったヒトがいるもの」
「あ~、たしか、そんなハナシだったな」
ヒカルはつまらなそうにこたえながら体を起こした。その途中でアキラの顔が歪んでいることに気が付いた。
「どうした?」
「それが刺さった」
心臓の上あたりを抑えるアキラ。
「それって、コレか?」
ヒカルは一回口からキャンディを取り出してみせた。それに対してうなずくだけでこたえるアキラ。とても痛そうだ。
「よくノドに刺さらなかったな」
感心しているのは明実である。
「咄嗟に食いしばったからな。大丈夫か? 見せてみろ」
そういってヒカルがブラウスのボタンに手をかけた瞬間に、明実の視界が塞がった。
「コラ。あっち向いてなさい」
恵美子の細い指に目隠しされた明実は、そのままぐいっと窓の方へ首を捻じ曲げられた。
「おう」
ブラウスを覗き込んだヒカルが変な声を上げた。
「まあ」
これは恵美子だ。
「かわいいのつけてるのね」
その言葉に一旦ブラウスを閉めてから、アキラは自分の視界を確保しようと脂肪を寄せたりしてみた。
「どうなってる?」
「蚊に刺されたみたいになってる」
恵美子の説明が一番分かりやすかった。
「悪かったなあ、アキラ」
素直にヒカルが謝ってくれた。
「悪いと思うんなら、一本くれよ」
「これでいいか?」
アキラの要求に、寄りにもよって咥えていた一本を口から取り出すヒカル。
「ま」
恵美子が目と口を丸くしてハニワのような顔になった。ヒカルの悪戯気な顔を見て、ここで動揺したらいつもの調子になると感じたアキラは、平然を装って言い返した。
「おう、ありがとな」
まだヒカルが手に持っていたソレに、体ごと前に出てパクついた。
「あら」
恵美子が羨ましそうな顔になった。
「その手、こんど王子に試してみようかしら」
「なんだ? コジローは王子とそういう事したいのか? この前はカレシ欲しいって言ってたじゃないか」
内心のドキドキを面に出さないように、アキラは恵美子に訊いた。
「うん、カレシも欲しい。私、欲張りなの」
「あーあれか。今様で言うバイというやつか?」
そろそろいいかと、こちらを向いた明実が訊いた。
「ちがうんだよなあ」
嘗め始めた一本をアキラに取られたヒカルは、新しい物を取り出しながら呆れたような声を出した。
「確かに、そういうんじゃないわね」
これは恵美子。
「だいたい女子の会話に男子が入ってくんなよ」
これは確信犯のアキラである。
「そうだそうだ~」
明るい声で恵美子が同調し、ヒカルが腕組みをしてウンウンとうなずいてみせる。
「え? なんでオイラが悪者?」
「ほらほら科学部総帥として仕事があんだろ。行った行った。すぐにあたしらも行くから」
そこで明実が、恵美子が目の前に居るというのに「アキラも男であろう」などと言い出す前に、ヒカルが追い出しにかかった。
「お、おう」
納得いってない声を出しながら、明実は自席に置いたままの荷物を取りに戻る。その白衣を着た背中を見てヒカルが、アキラを見おろした。
「じゃあ、あたしらも行くか」
もちろん行くのは科学部が根城にしているC棟の教材倉庫ではない。待っているのは修羅場だ。
音楽室からピアノの音がしていた。
終業式の今日、音楽室は吹奏楽部が部活動のため使用予定であった。
しかし緩く閉められた防音扉の向こうには、人気が無い。答えは簡単である。長い演奏時間を演奏しきるには、基礎体力が必要ということで、吹奏楽部全員で高等部裏の雑木林に設けられたマラソンコースに走り込みへ行っているからだ。
残されているのは部員たちの荷物だけのはず。しかし、その音楽室に入り込んで、ピアノを一音ずつ鳴らしている者がいるのだ。
ちょうど通りかかった背の高い少年が、好奇心に負けたとばかりに顔を出した。
ピアノの音を出しているのは、先生でも生徒でもなかった。
それどころか日本人すらでない。彫の深い顔に陽に焼けたような濃い色の肌。
真鹿児孝之と藤原由美子にラモニエルと名乗った天使であった。
彼は二人の前に現れた姿のまま、白いタンクトップにウォッシュドジーンズという服装であった。
一音ずつ下から重ねて行って、和音が完成する。完成したら、もう一度最初から。
飽きずに何度も弾いては、麻薬でも嗅いだかのような恍惚な表情をしてみせる。
音楽室を覗き込んだ少年は、不審者が校内に入り込んでいると通報するでもなく、まるでその和音に誘われるようにふらふらと室内へと入った。
「君は自分が地獄へ落ちるべきだと考えているね」
演奏を続けながら、まったく振り返りもせずに彼は言った。
「友人を救えなかった後悔。しかし、それはこれから充分取り戻せるんだよ」
「なにか知っているようだけど」
とても高い声で少年は言い返した。
「地獄行きで諦めがついたからこそ、いまここに立っていられるんだ」
筋肉質の背中に氷のような声。決して感情的でないのが逆に人間離れしていた。しかし天使の方はちょいと左肩を竦めただけだ。
「何も大したことではない。誰もが知っている事さ」
鍵盤に置いていた手を止めると、半分だけ少年を振り返った。
「どっちみち、それでも風は吹くんだ」
天使は彼へ微笑みを見せた。
終業式から小一時間。清隆学園の雑木林にある休憩所。
そこに二人の人物がいた。
制服から動きやすい服に着替えたアキラとヒカルである。
明実の姿は無かった。彼には戦闘能力は無い。それどころか彼を守りながら戦うという枷が無い方が二人にとって有利だからだ。
といっても彼がまったく戦闘に無関心というわけでもない。その証拠に二人の足元に銀色の球体が転がっていた。
大きさはハンドボールの公式球程度であり、その表面には銀河帝国のターキン提督が指揮官を務めている宇宙要塞のようなディテールがあった。
もちろんスーパーレーザー砲なんかは装備されていないが、赤道溝の中に見え隠れしている各種アンテナ類は本物であった。
「二人とも準備はできておるか?」
金属製らしい球体表面にあるお皿状のディテールから、明実の声がする。きっとそこにスピーカが仕込まれているのだろう。この球体は一種のドローンで、二人の様子を複数のセンサーやカメラで情報を収集していた。
電波で結ばれた先で明実はモニターしているはずだ。彼は科学部関係でも、研究所関係でもない某所にいるはずだ。万が一電波を逆探知された場合を想定しての事である。
二人も高等部の体育館近くとしか教えてもらっていなかった。
「全然できてねえ」
忌々しそうにキャンディを咥えたままのヒカルが言う。彼女は出会った頃に着ていたブラックデニムに黒いシャツ、それに膝まである黒いブーツという服装に着替えていた。
傍らで、その悪態をつくような声を聞いているアキラには懐かしい格好だ。
準備ができていないという割に、ヒカルの武装は充実していた。
左右の腿にそれぞれいつものホルスター、お尻には学生寮の有紀から購入したヒップホルスター、さらに手には最新式のサブマシンガンまであるからだ。
クリスベクターには輪っかのようなスリングに、ライト、それにクローズドタイプのドットサイトが乗せられていた。マガジンは結局自分で探したと言った三〇連の物がぶち込んである。
どこから見ても完全武装である。しかも、おそらくヒカルの事だから、隠し武器も色々と用意しているかもしれない。
それでも全然足りないというのがヒカルらしいなとアキラは思った。
振り返って自分を見て見れば、男の子だった頃のデニムに、最近香苗が買ってきたTシャツ。その上から着ている緑色の細かい格子柄が入ったシャツは、これも男の子だった頃に着ていた服だ。本当は気温の関係から半袖でいたいところ、ヒカルが怪我の恐れがあるから長袖にしろと言ってきたのだ。妥協案としてボタンを留めずに袖だけ通していた。もちろん袖も裾も余りまくりである。
他には何も無かった。武器のような物すら用意していない。まるでお休みの日に油断していたら母親から「お醤油切れたから買って来て」と言われた女子高生である。
ヒカルが色々と銃を用意するのを見ていて、自分も一挺は持ちたいなと考えた。これでも中身は男の子だから、鉄砲をバンバン撃つのに魅力みたいな物を感じるし。
しかしヒカルと明実二人からダメ出しをされて諦めた。
曰く「マヌケのおまえに当てられるとは思えない」とか「年寄りの冷や水、生兵法は大怪我の素」などと言いたい放題である。
でも二人が止める理由も分かっていたので、不承不承ながらもアキラも同意した。
銃がダメなら剣でも、と考えないこともあったが、これは自分から諦めた。
先のキューピット戦でダイヤとアスカの奮戦を見ていたからに他ならない。あの剣戟の場に身が置けると思えなかった。
よってアキラは、この身体にされた時に明実が仕込んだ必殺技以外の用意が無かった。
休憩室で簡単に済ませた昼食の後片付けをする。こんな雑木林の中で豪勢なフランス料理のわけがない。高等部D棟にある購買部で買ったオニギリと飲み物だ。
それらのゴミを一つに纏める。もちろん折角の雑木林を汚してはいけないという心もあったが、痕跡は極力残すなというヒカルの命令でもあったりする。
梅雨明け直後の眩しい陽の光がさっと差す。周囲の緑はたっぷりと大地が雨水を吸ってくれたおかげで生き生きとしていた。
風が丘の方から草の葉を揺らしてやってきて、二人の髪を乱して抜けて行った。
気温と湿度は相当上がっているはずだが、この風のおかげで快適である。
「なあ」
休憩室のベンチにそっくり返って座って、試しに言ってみた。
「これで天使が来なかったら、ただのピクニックじゃね?」
「まあ、それもいいか」
険しい顔をして周囲を睨んでいたヒカルも、肩の力を抜いて背もたれに寄りかかった。ダランと口元のキャンディの柄が下がった。
「本当に来なかったらどうするんだよ」
「んなもん決まってる」ちょっとだけ目つきを戻してヒカル。「明日もここで待つんだ」
「うへえ~」
アキラは両脚を伸ばしながら悲鳴のような物を上げた。
「せっかくこんないい天気なのに」
「迎え撃つって決めたのは、あたしじゃねえ」
忌々し気に足元の金属球を睨みつける。何かしらの動力が入れてあるのか、金属球は自らの力で揺れてみせた。スピーカから得意そうな声が聞こえてきた。
「だが戦略的には正しい選択であろう」
「まあ戦術的にもそうかもな」
その時、カサリと音がした。ビクッとベンチの上で飛び上がるアキラと、のんびりと構えたままのヒカル。その対照的な二人の前に、古風ないでたちをした人物が立った。
「ど、ども。コンニチハ」
その人物は、とても緊張した挨拶をしてきた。それは、これから道場での試合であるかのように、道着と袴という姿をした大岩輝であった。
使い古している物なのか、すこしくたびれた道着の色は白。袴は黒である。
まったくの手ぶらというわけでは無く、手に持ったバスケットが、先程までの会話のように、ピクニック感を強めていた。
「はい、こんにちは」
「こんちはオーイワ」
二人で挨拶を返した後、ヒカルがアキラを振り返った。
「いまのカナエに似てたな」
「え?」
目を点にしてヒカルを見ると、悪戯気に微笑んだウインクが返って来た。
「まあ、母子が似るのは当たり前か」
「?」
話しが分からずにキョトンとしているダイヤへ、ヒカルは誤魔化すためか苦笑のような物を見せた。
「こっちの話しだ」
その時、ダイヤの持つバスケットがゴソゴソと音を立てた。その中身はピクニックのお弁当などでは無いようだ。
「ひゃん」
かわいい声と共に、バスケットの蓋が片方だけ持ち上がる。
そこから顔を出したのはマメシバに見える一匹の雑種犬であった。
「ええと、コクリ丸だっけか?」
その純粋そうな瞳に合わせるためか、ヒカルが少し前に乗り出して訊いた。
「ええ。コクリ丸、ご挨拶は?」
「ひゃん」
日本語を完璧に理解してますぜと言わんばかりのコクリ丸に、ヒカルの頬が自然に緩んだ。
「いざという時は頼むぜコクリ丸」
このコクリ丸は、ダイヤではなくクマの愛犬である。しかもただの雑種犬では無かった。
「しんれいへいき、であったか?」
金属球から明実の声がした。ダイヤがギョッとして見おろしたが、すぐに仕掛けを理解したのか、警戒を解いた。
アキラたちは、コクリ丸のかわいらしい姿が仮の物ということを知っていた。
心霊兵器コクリ丸。かの一刀石を両断した業物、その物らしい。
どうやら『施術』とも違う全く未知の技術で造られた兵器であるが、アキラにとって由来はどうでもよかった。
ここに強い武器があり、そしてその持ち主が味方になってくれる、それだけで充分だ。
「そこ、いいかな? ええと、カイジョウさん」
ベンチの真ん中に座るアキラに許可を求める。
「ああ」
慌てて尻をヒカルの方へ寄せた。
ダイヤは武芸者らしく、とても浅く腰掛けた。長い髪をポニーテールに纏めているのが、さらにその印象を強くした。
しばらく無言でソッポを向きあう。唯一コクリ丸だけは、バスケットから顔を出して、二人へ愛嬌をふりまいていた。
「ええと」
沈黙が耐えきれなくなったとばかりに、ダイヤが声を上げた。少々裏返り気味なのは、やはり緊張しているせいかもしれない。
「あの外人さんは?」
「外人?」
アキラはヒカルと顔を見合わせた。
「男と女、どっちだよ」
「あの…、女のかた」
「クロガラスか? あいつは午後一に講習会の講師を頼まれたから、それが終わってから来るってよ。そろそろじゃねえか?」
ヒカルは防水性どころか防弾まで機能に加えてあるような、ごつい腕時計を確認した。
話しが分かっているらしいヒカルへ、今度はアキラが質問した。
「男って誰だよ」
「アキザネのこったろ。あいつ黙って立ってればハリウッド俳優並みのイケメンだろ」
「ああ、まあ。黙って立っていればな」
「おい、失礼な事を申すな」
すぐさま金属球から抗議の声が上がった。
「男のかたは、これで聞いているんですか?」
興味深そうに金属球を見おろす。たしかに、ただ転がっているだけでは、誰かが忘れて行ったオモチャにも見える。
「カメラもついているそうだ」
ヒカルが胡散臭い物を見るような目で見おろす。
「趣味はノゾキだからな」
「えっ」
おどろいて振り返ったダイヤの髪が、アキラの頬を叩いた。
「そうなんですか?」
「信じるなよ、ジョークだろ」
幼馴染の名誉のためにアキラが介入するが、ヒカルは腹に一物あるという風に、顔を歪めて見せた。ピコピコとキャンディの柄が揺れていた。
「さて、どうかな」
「ふーん」
その様子に、ダイヤがとても曖昧な声を漏らす。どうやら彼女の中では明実はノゾキが趣味で固定されてしまったようだ。
「もう一人は気にならないのか?」
ヒカルが訊くと、ダイヤはバスケットを抱えるようにして自分の腕を抱いた。
「人をなんだと思っているんでしょうね、アレ」
ブルッとダイヤが震えたのを感じて、アキラも同意する気持ちになった。平気な顔をして人を食べただの言うし、自分のパーツを動物に組み込むなどするし、正気の沙汰とは思えなかった。
「あれからノラネコに近寄られても、無邪気に喜べなくなりました」
「まあ、そうだよなあ」
ヒカルも同じ思いだったようで、バリバリと乱暴に頭を掻いた。
「あれを受け入れられるようになっちまったら、人として終わっちまうだろ」
三人は微妙な表情を寄せた。いちおう味方という事になっているが、アスカに対しては実際に戦ったキューピットよりも嫌悪感があった。
さらに、この天使との戦いが終わったら、敵になる可能性が高いと思うと、よりアスカを受け入れられない気持ちが強くなる。
「まあ、どんなやつでも、あたしがちゃっちゃっと片付けてやるさ」
自分に寄りかけたサブマシンガンを撫でるヒカル。その武器を懐疑そうに見るダイヤ。
「で、今日その天使とやらが現れなかったら、どうするんです?」
ダイヤの口から発せられた質問に、二人の首がガックリ落ちた。
「いま、その話しをしていたトコだよ」
「明日も…、いや現れるまでココで待つに決まってんだろうが」
ヒカルがアキラ越しに、がなり声を浴びせた。
「す、すいません」
首を竦めるダイヤを見ていられなくて、アキラは間に入った。
「まあまあ。緊張して神経が苛立っているのは分かるが、彼女に当たるなよ」
「当たってなんかねえ」
プイッと余所を向くヒカル。
「それに当たるんだったら、まず、おまえからだ」
「それもヒデェ」
嘆くアキラを余所に、不思議そうな顔をしたダイヤがヒカルに訊いた。
「では、毎日ココに集合ですか?」
「まあ、最悪そうなるな。あたしとしては早く終わらせたいもんだが」
「そうですね、神経がすり減っちゃいます」
憂鬱な顔をしたダイヤは、バスケットへ顎を乗せた。
「旅行どころか、お買い物にも行けませんもんね」
それを聞きつけたヒカルが、ちょっと意地悪な顔を作って振り返った。
「デートはどうした、デートは。若い娘がカレシの一人もいないなんて、寂しいねえ」
まるで中年サラリーマンが若手キャリアのOLをからかうような口調であった。咥えタバコ代わりのキャンディの柄が揺れた。
「それは、シンメイさんもそうでしょ?」
チロッと謎の視線をアキラに送って来るダイヤ。
「?」
その視線が分からなかったアキラは首を傾げるばかりだ。
「あたしのことはヒカルでいい」
プイッと表情を変えてヒカルはそう言い、そしてアキラを親指で指差した。
「こいつはマヌケで」
「ヒデェ」
もう嘆く言葉しか出てこない。
「ああ、それと誤解があるといけないから言っておくぞ」
ちょっと小骨が喉に刺さったような声でヒカルが打ち明けた。
「あたしは『クリーチャー』だから、見た目より歳は上だかんな」
「そうなんですか?」
目を丸くするダイヤに、アキラが苦笑交じりで口を挟んだ。
「驚くなかれ、昭和生まれ」
「うるせ」
その声の響きが気に入らなかったのか、またヒカルはそっぽを向いてしまった。
「そういうカイジョウさんは?」
さすがにマヌケとは呼べなかったらしい。
「オレもアキラでいいよ」と彼女の緊張を解こうと微笑んでおいて「オレ? オレはたぶん大岩さんと同じじゃないかな? 高校一年?」
アキラの質問に頷くダイヤ。
「はい。聖アドルフ学園」
「ああ」
ダイヤの説明に声を上げるアキラ。アキラも聞いた事がある、中高一貫のミッションスクール系で有名な女学校であった。
「じゃあセーラー服だ」
「え? ま、まあ」
戦前から続く古い学校で、制服はいまだにセーラー服という学校である。制服の古くささが逆にいいと、中学の頃のクラスメイトが力説していたのを覚えていた。
ちなみにそいつこそノゾキが趣味で、何回か女子更衣室へ侵入しようとして吊し上げをくらっていた記憶がある。
「そっか~」
町で見かけた事のある女子高の制服と、ダイヤを組み合わせて想像してみる。意外と似合っているのではないだろうか。
「なんだ? おまえセーラー服着たかったのか?」
ヒカルが探るように訊いてきた。
「いや、そういうわけじゃねえけど」
「でも、清隆でもセーラー着ている人いますよね?」
不思議そうな顔をするダイヤに、アキラがこたえてやった。
「ウチは二種類制服があって、だいたいの人はブレザーの方を選ぶんだけど、たまに詰襟やセーラー服を選ぶ人がいるんだ」
明実が図書室で仲良くなった左右田優を思い出しながら説明する。
「二つあるんですか? いいなあ」
「でも終業式とかは正装とか言って、ブレザーの方を着ないといけないけどね」
「は? は?」
「制服の他に、正装規定ってのがあって、そっちはブレザーなんだ。だから普段セーラー服を着ている人も、入学式とかだとブレザー」
「うわあ、かえって大変そう」
「まあ、お洒落をするなら覚悟を持てってことさ」
これはヒカル。
「お洒落…、おしゃれ…」
ブツブツとダイヤが繰り返し始めた。
「どうした?」
ちょっと顔が曇ったようなのでヒカルが水を向けた。
「やっぱり清隆もセーターからバッグまで指定なんですか?」
「いや」
アキラとヒカルは顔を見合わせた。
「そこら辺はだいぶ自由だよ。バッグも学校推薦はあるけど、リュックだったり革の学生カバンだったり、好きなの使ってるし。オレたちは着てないけど、カラーブラウスの人もいるし」
こんな「女の子のようなもの」になってから、香苗による「お洒落をするための特訓」というヤツで、カラーブラウスなる単語もスラスラ出てくるようになってしまった。
クラスメイトの女子でそんなお洒落をしてくるのは、約半分といったところだ。ちなみに由美子や恵美子も、いつも真っ白なブラウスであった。
「いいなあ」
ダイヤは唇を尖らせた。
「ウチはどれも禁止。ケータイの持ち込みはOKだけど、校内では電源入れるとムッチャ怒られるし、厳しいの」
「ああ、あれだ」
ピンと来たらしいヒカルが指を立てた。
「一流のレディを目指すには、まず規律からってヤツだ」
「やだ。まるでウチのセンセみたい」
「大人の言うことは素直に聞くもんだ」
うんうんとうなずいたヒカルが実年齢に沿った事を言う。それからイタズラ気に微笑んで言葉を続けた。
「ま、聞くだけ聞いて、従うかどうかは別の問題だがよ」
「またそういう」
青少年の素行不良を助長するような発言に、眉をひそめるアキラ。
「なに言ってやがる。歩く性犯罪者め」
「なんだよそれえ」
アキラが唇を尖らせた。
「おまえなんか、女の姿になったことをいいことに、ノゾキどころかチカンし放題じゃないか」
「へ?」
ダイヤが頭のテッペンから声を出した。驚いている彼女の方にヒカルは乗り出して言った。
「オーイワも気をつけろよ。こいつ、こんな見た目で男だかんな」
「ええっ」
改めて凝視されてしまう。
この自分より小柄でかわいく見える少女が、じつは男であると信じられないようだ。
「まあオオイワさんには知っていてもらった方がいいか。オレは男なの」
「はあ、まあ」
どこを切っても美少女という現在のアキラに、相槌を返すダイヤ。納得いっていないようだ。
「じゃあ、その…」
言い淀んで頬を染める。それだけで何が言いたいのか分かった。
「ああ、見た目は女なんだよ、生意気に」
何が生意気なんだろうとアキラが思う前に、ヒカルの手が伸びてきた。
「だから、この胸も本物」
ガシッと横から鷲掴みにされた。
「それとノーチン」
「なんだよ、そのノーチンっていう言葉」
放っておくと痛い程握力を入れてくるので、ヒカルの手を振り払いながら、そのパワーワードを質問してみる。
「いま考えた。言い得て妙だろ」
「はあ」
得意そうにキャンディの柄を揺らすヒカルに、アキラからは溜息しか出なかった。
「それって、やっぱり…」
「ああ、こいつが…」と、ヒカルは足元の金属球へ軽い蹴りを入れた。
「いてっ」
なぜかそう反応する金属球。音声はマイクでモニターしているだろうが、さすがに痛覚まで明実と共有しているはずはないのだが。
「こいつが『施術』する時に、趣味に走ったらしい」
「ああ、そういう」
別の事を考えていたらしいダイヤが、納得した声を上げた。
「オーイワも、こいつにセクハラされたら、あたしに言えよ。きっちりオトシマエつけさせるから」
「その、オレがセクハラする前提の会話、やめてくれないかなあ」
「なに言ってやがる。あたしにしたことを忘れたって言うのか?」
拳を振り上げてくるので、ちょっと逃げながらアキラは言い返した。
「どの事を言ってんだよ」
「ほらな」
ダイヤへ同意を求めるように視線を移した。
「自分じゃ覚えてられない程やったから、言えないだろ」
「うわあ」
ダイヤの口から軽蔑する声が出た。それはアキラも耐えることができたが、わざわざ座り直してベンチの上で距離を取られたのはショックであった。
突然、ヒカルがサブマシンガンを構えた。
「?」
そんなに自分への痴漢行為が許せなかったのかと驚くアキラを余所に、ヒカルは銃口を渡り廊下の方へ向けた。
そこを一人の人物が歩いてやってくる。
あの目立つ亜麻色の長い髪は見間違いようがない、クロガラスだ。すると講習会は終わったようだ。
「集まっているわね」
休憩室に入ってきながらニッコリと笑う。ヒカルの銃口が出迎える形になっているが、少しも動じたところが無かった。
近づいたことで今日のクロガラスの様子が良く分かった。いつか身に着けていたパンツルックのスーツは、学校の先生らしかった。ただ今日は、右手にボロ布で包まれた巨大な何かを提げていた。
中身は、ほとんどが汚れて所々ほつれたボロ布で隠されて見えない。そのボロ布を巻き付けるために必要なのだろう、さらに上からロープで縛り付けてある。クロガラスはそのロープを鷲掴みするようにして持っていた。
大荷物の一方が覆われていなかったので、その大荷物の正体が分かった。
そこから覗いているのは、まるで蝶が羽を広げたような装飾が施された鍔に見えた。そこから導かれる答えは巨大な西洋の剣である。
休憩室に入ってきても足を止めず、三人が腰を下ろしている反対側のベンチのところまで歩く。そのまま座るのかと思いきや、右手の荷物を壁に寄りかけて置き、振り返った。
クロガラスは、腕組みをすると並んで座る三人を見おろした。
「これで『施術』関係者が四人ね。御門くんが立てた仮説の条件は充分に満たした、ということね」
「ありゃ三人だったろ」
サブマシンガンを構えたままのヒカルが言い返した。
「ヒカル…」
なんで同士討ちを始めなきゃいけないんだろうと、アキラが焦った声を出す。が、反対側に座るダイヤも、ほぼ腰を浮かせかけていることに気が付いて、さらに驚きを深くする。
「大岩さんは『クリーチャー』とは言えないもの。よくて半分?」
「四捨五入すれば三だな、おまえがいなくっても」
「あら、ここにきて仲間割れ?」
驚いたような顔を作って見せるが、それが演技であることはアキラにも分かった。
「仲間割れ? そういう言葉は、一度でも仲間になってから使うモンだ」
「じゃあ、なんて言うんだよ」
空気を穏やかにしようと、アキラが口を挟んだ。それに対して、サブマシンガンを小揺るぎもさせずに、ヒカルは目を向けた。
「決裂だな」
「あら、残念ね」
全然残念そうに聞こえない声でクロガラスは言った。それどころか笑って見せた。
「こらこら」
足元の金属球から声が上がった。
「勝手に共闘関係を解消しようとするな」
「…」
明実の声にも反応が無い。アキラは双方の顔を見比べるのがやっとだ。
「ふん」
やっとヒカルが銃口を外した。それを見てクロガラスが勝ち誇ったように笑顔を変化させる。
「絶対ブチ殺してやる。いつか絶対だ」
ブツブツと呟き出したヒカルを放っておいて、アキラは強引に笑顔を作った。
「先生も、まあ座って。立っていられると落ち着かないから」
「座っていると初動が遅れない?」
「それは安心してくれたまえ」
これは明実。
「周囲に監視用のドローンを飛ばしておる。相手が人間でも、天使でも、見知らぬ者を捉えたらすぐに警告すると約束しよう」
その言葉に、いま気が付いたように金属球を見おろすクロガラス。何か言いたげな様子であったが、そのままベンチへ腰をおろすと、長い足を優雅に組んだ。
「で? 大岩さんはお腹の調子は良くなったの?」
アキラの耳に小石同士が擦りあい削れるような音が聞こえた。聞こえてきた方角から察するに、ダイヤが歯を噛みしめたのだろう。
それでもダイヤは微笑むと、丁寧な口調で話し始めた。
「ええと、清隆の夏期講習は、外の人間も受講できるって本当ですか? 私も受けようかなあ」
「それはいいわね。申し込み受け付けは、まだ締め切られていないわよ」
「そうすれば最低でも逃がすことはなさそうですもんね」
「逃がす?」
とぼけてクロガラスが訊き返した。
「ああ、テストの点数ね。そうする方がいいわよ」
「…」
ダイヤは黙り込んでしまったが、腹の中では色々な感情が渦巻いているのだろう、ヒクヒクと頬の端がひきつっていた。
みんなの顔を見まわしたアキラは、無理に明るい声を作った。
「そ、それじゃ、大岩さんとは夏休みも学校で会えそうだね」
「へ? あ、はい、え?」
どうやら自分が清隆の夏季講習を受講すると言ったことを、自分自身で理解していなかったらしい。アキラの質問に変な反応が返って来た。
「でも大丈夫? 忙しいんじゃない?」
「そ、そんなことは無いです」
「学生の本分は勉学にあり、だよなオーイワ」
気分を切り替えたのか、ヒカルが悪戯気に訊ねた。ダイヤの首がガックリと落ちる。
「そうですよね…。勉強しないとですよね」
「あーっと」
その落ち込み具合から、なんとなくダイヤの成績が察せられるような気がした。
「ほら、頑張れば取り返す事できるから。できる…、から…、たぶん…」
励まそうとしたアキラも、うつむいてしまった。
二人で、先程とは違う重さの空気を醸し出す。
「なんだよアキラ。やっぱ悪かったのかよ」
教室でアキラの通知表を見はぐったヒカルが、バカにするように言った。
「まあ海城さんの成績では、大学受験も考えるところがあるわね」
反対側からクロガラスが教師のような事を言った。いや本当に英語の教師であった。しかもアキラとヒカルが所属する一年一組で、英文法の教鞭を執っているのだ。通知表に乗っている成績だって、英語に関してはクロガラスがつけたはずだ。偉そうなことを言う権利はありそうだ。ついでに言えば二人の副担任でもあるから、他教科の成績も知っていておかしくない。
「おまえの授業は回りくどいんだよ」
顔を歪めたヒカルが、授業の進め方対する苦情を持った生徒とは思えない口調でクロガラスへ言った。
「大体、なんでセンセの身分で入り込んで来るんだよ」
「ちょうど欠員があったみたいだし」と、その欠員を非合法な手を使って作ったような態度のクロガラス。
「学園生活ってやつにも、ちょっと興味があったし」
「その歳じゃ学生は無理だったか。じゃあ掃除のオバサンでもよかったろ。似合うぜ、きっと。便所掃除」
ヒカルが織り交ぜてくる挑発にも動じるところは無かった。
「これで成績が悪かったら、あなたに罰当番でさせるところなんだけど」
「きゃー」
とても平板な声でヒカルが悲鳴のような声を出す。
「ウチのセンセが暴力教師なんですー」
「だいたい歳の事を言ったら、あなただって」
「えー、あたち、じゅうごさーい」
ヒカルが作った声で体をくねらせ、しなをつくってみせた。
「…」
全員がそれを見て絶句した。
「おい、おまえら。なんだ、その態度は! 特にアキラ! おめえ!」
「はいはい、かわいいかわいい、ひ」
適当に言ったアキラの言葉が変調して終わる。なぜならヒカルがアキラの首を絞めたからだ。ギリギリという音は指が食い込む音では無くて、ヒカルがキャンディへ歯を立てている音だ。
「おまえ心にも無いことを」
「ぎぶぎぶ」
指を、自分の首とヒカルの手の間へねじ込ませて気道を確保する。寄せた顔には本気の殺意が現れていた。
「チョークチョーク!」
「覚えてやがれ」
ドアップで凄まれてしまった。
「イチャつくんだったら、他でやってちょうだい」
ベンチの反対側から苦情が寄せられた。それに対して若干頬を染めたヒカルが、アキラを放しながら言い返した。
「イチャついてなんかねえ」
「どうだか」
その僅かな変化を見て取ったのか、クロガラスがニヤリと嗤う。まるで蛇が笑ったかのような印象であった。
「で、大事な話しがあるんだけど」
いま思い出したというように、クロガラスはその笑みを消して、幾分か真面目な表情をつくって訊いた。
「今日、天使が現れなかったら、どうする?」
「だー」
ヒカルが脱力した声を上げ、こちらのベンチに座っている三人は、揃って休憩室の天井を見上げた。
「なんで、おんなじ事を、何回も説明しなきゃならねえんだ」これはヒカル。
「ほ、ほら。みんな疑問に思うということで」これはアキラのコメント。
「先生も仲間」親指を立てたのはダイヤだ。
「?」
鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしているクロガラスに、三人の中で最初に気を取り直したヒカルが説明した。
「現れるまでココで待つに決まってんだろうが。おまえは分かってたと思ったんだが」
「おまえって何ですか。先生って呼びなさい」と怒るふりをしてから、表情を戻した。
「いっそ『施術』関係者で山籠もりでもするのかと思ったわ。そうすれば、こんな目撃者が出そうな場所で戦わなくても済むでしょ」
「あ~、そいつもいいかもな」
思うところがあるのかヒカルが賛同した。
「一人ぐらい同士討ちになっても、埋めて帰って来れるからな」
「また、そういう…」
再び口げんかに発展しそうな挑発に、アキラが口を挟んだ。
「でも、みんなでキャンプも楽しいかな」
「そんな事計画すると、おまえの家族がついてきそうで怖いんだよ」
アキラのことを、ヒカルは咥えたキャンディの柄で差した。
「えっ」
もちろん家族を修羅場になんて巻き込みたくない。しかし、慎重に部屋で外泊の準備をして、抜き足差し足で玄関へ向かい、見つからなかったことをホッとして靴を履き、玄関の扉を開いたところに、麦わら帽子に膨らました浮き輪を持った母香苗の笑顔を幻視したアキラは、そのまま頭を抱えた。
「おそかったのね」
幻聴まで聞こえたかと慌てると、集まっていた全員が、旧中等部の方角から歩いて来る人物へ顔を向けているところだった。
「ええ? 遅刻になるのかな」
雑木林の木漏れ日に姿を現せたのは、緑色のサロペットに袖がフレアになっている白いTシャツというファッションをした人物だった。
軽く脱色している髪は間違いない鍵寺明日香だ。
休憩室へ入って来ると、あの琥珀のような瞳で全員を確認する。
前回のアスカは、袖に隠し武器を仕込んでいるようであったが、今日は無理であろう。フレアな袖では腕が丸出しだ。その代わりと言っては何だが、黒い大きな武器を携えていた。
黒い銃床の上に羽のような部品。一般的にクロスボウと呼ばれる武器だ。銃のようにトリガーを引くと、弓弦が解放されて番えてあった矢が発射される物である。
日本で一般的に流通しているスポーツ用の物には見えなかった。黒くてゴツい銃床を見る限り、少なくとも輸入品か、もしくはアスカ自身が製作した物であろう。
もちろんアスカも『施術』によって常人には出せないような膂力を持つはずなので、その腕で扱うクロスボウの威力は、銃にも引けを取らないことが想像できた。
「また、手下が先に来てました、なんて言うんじゃないだろうね」
ヒカルが周囲を確認する。雑木林にはそこそこ小型動物の気配があった。
「てした?」
キョトンとした表情がかわいらしかった。
「ああ、手下ね。みんなは森の中に散らばって、周囲を監視しているよ。誰だって奇襲は受けたくないものだろ?」
そのまま、当たり前のようにクロガラスの横に座るが、それと入れ替わるようにクロガラスが席を立った。
「おや連れない」
アスカは厳しい目で見おろすクロガラスに、皮肉めいた笑顔を向けた。
「どうした、センセ」
ヒカルが含み笑いをしながら、わざとらしく訊ねた。
「センセのイロだったんじゃねえのか」
「イロって…」
長い髪を揺らしてクロガラスが振り返った。先程までとは違い、はっきりと嫌悪感が面に出ていた。
「まあまあ」
睨みあう二人を仲裁しようと声を上げたのは、アスカだった。
「君も、ボクに取り入って自分の知らない知識を得ようとしていたのだろ? イロと呼ばれて怒るなんて、修業が足りないよ」
「いまからでも教えてもらえるんじゃねえか?」
これはヒカル。
「それで食べられるなんて、まっぴらごめん」
プイッと丘の方へ顔をそむけた。それを見てヒカルは声を殺しながら笑い、アスカは肩をすくめた。
「そんな事で、連携は大丈夫かいの」
心配の声を上げるのは明実だ。
「ひょっとしないでも、キミか?」
床に転がる金属球を見おろして、アスカが納得したような声を出した。
「あちこちにラジコンが飛んでいるのだけど。あれもキミが操縦しているのかい?」
「らじこん…」
アキラが目を点にしている内に、明実が言い返していた。
「ドローンと呼んで貰おうか。やはり、ここ最近にない程に野鳥が集まっているのは、ひょっとしなくても、鍵寺の手下か」
明実がわざと使った自分の言い回しに、アスカはニヤリとしてこたえた。
「これで、ここは二重の意味で安全な場所という事になるね」
「突然、宙から現れるなんてことがなければな」
ヒカルが顔を緩めたアスカに釘を差す。
「まさか。いままでの経験でも、さすがにそれは無かったよ」
浮かんだ笑みは苦笑なのだろうか。
「で、大事な話しがあるんだが…」
ぐっと乗り出してくる。話のオチが見えたアキラは、すでに肩を落としていた。
「さっそく、現れたみたいだぞ」
「え?!」