七月の出来事B面・⑤
男子寮を後にした三人は、そのまま帰路へ…、というわけにはいかなかった。
「すまんの。洗濯物が溜まっておって」
教室が並ぶ高等部B棟三階の自分たちのロッカーから、通学用バッグを回収している時に、まるで独居男性のような事を明実が言い出した。
そのせいで彼が研究室を持っている清隆大学科学研究所へ寄ることとなった。
多摩川の浸食で出来た河岸段丘を上り、大型トラックがビュンビュン飛ばす国道の方へと向かう。歩くにはちょっと覚悟がいる距離なのだが、どちらにせよ帰宅する時に利用しているバス停と同じ道のりである。
違うのは国道の歩道橋がある交差点で、道を渡るのではなく左折するところだ。
そこからたっぷりトラックどもに排気ガスを吹きかかけられながら狭い歩道を歩く。郊外型のレストランやら、車で来店するお客さんを当て込んだコンビニなどを過ぎると、低いレンガ造りの塀が見えてくる。
これが清隆大学科学研究所だ。
「どうした?」
敷地に入る前に立ち止まったアキラを訝し気にヒカルは振り返った。
幼いころから天才的才能を発揮していた明実が、ココに研究室を持ってから何度も訊ねた経験がある。さらに言えば交通事故で死にかけたアキラの身体を『再構築』したのもココである。さすがにセキュリティの関係で顔パスとまではいかないが、アキラを見れば明実の関係者と知っている大人だって複数いるはずだ。
そんな慣れたはずの建物に、今日のアキラは違和感を抱いていた。
「うーん、まあ…」
白い低層建築を見上げる。外見にはまったく変わりはないが、アキラには雰囲気が変わっているように感じ取れるのだ。
煮え切らないアキラの表情に、それでも短気を起こすことなくヒカルは訊ねた。
「変な予感でもあるのか?」
「予感って…」
「あたしにも経験あるからよ。何か変だと思って近づかなかったら、その日の午後に、テロリストが爆弾抱えて突っ込んできたとかよ」
「いや、そんな風でなくて」
アキラはしきりに左手で右腕をさすりはじめた。
「なにか腕が重いというか、痒いというか…」
「なんだぁ」
ドスの利いた声でヒカルは明実を振り返った。
「あたしらの体調は、アキザネの管轄だぞ。おまえ半端な仕事してんじゃねえだろうな」
珍しく明実に凄むヒカルを、アキラは止めた。
「いや、そんな酷い程じゃないんだ」
「どう変なのだ?」
明実が身長差から見おろしてくる。その視線は幼馴染の体を心配しているというより、研究者が対象を観察する物に近かった。
「だから、なんか荷物を持たされたような、蚊に刺されたんだけど痒いところがわからないような…」
「ふむ。醍醐クマが言っていたことは本当だったようだの」
「おまえ、また何かしたのか?」
幼馴染として数々の明実が作った発明品の被害者になってきた身である。我知らずに飛び退り、通学用バッグごと自分の体を抱きしめてしまった。
「オマイには、まだしとらん」
しれっと明実が宣言する。
「それって、これからするっていう意味だよなあ」
警戒するアキラをその場に残し、明実は返事もせずに正面入り口へと行ってしまった。
「大丈夫か?」
ヒカルが心配げに顔を覗きこんできた。
「今のところはな」
どうやらここで抵抗しても、もう実験材料としての運命は変えられないと悟ったアキラは、肩をがっくりと落とした。
「よし。あんまりな事をしでかしやがったら、あたしがおまえの代わりに殴ってやるからな」
「ありがと」
わざとらしく力こぶを作って見せるヒカルに気のない返事をする。
「なんだよ」
ダラダラと歩き出したアキラを追いかけながらヒカルは言った。
「マヌケはマヌケらしく、いつもの脳天気な顔しておけよ」
「それも酷い言われ方だなあ」
どうやら励まされたと感じたアキラは、ヒカルに右手を差し出した。
「?」
「オレにもキャンディくれよ」
「おし。嘗めたら元気出せよ」
そうやってヒカルは、肩にかけていた通学用バッグをまさぐった。出てきたのは、いつもヒカルが愛好している銘柄のイチゴ味であった。
二重の自動ドアを抜けると、白色で統一された広めのホールとなっている。向かって右側にはカウンターがあり、表情が硬い受付嬢が座っている。
三人が近づくと、いま電源が入ったというように瞬きをしながら顔を向けてきた。
「オカエリナサイマセ、ゴ主人様」
とても平板な感情の無い声で、曖昧な表情を作って見せた。人間ならば不愛想な受付嬢だと苦情が寄せられそうだが、彼女の場合はそうはならない。この研究所の受付嬢は、最先端技術で造られたアンドロイドなのだ。
「こういうのを無駄遣いって言うんじゃないか?」
ヒカルがふと口にした疑問に、おおいにうなずけるところがあるアキラ。なにせ最新鋭のアンドロイドである。他にやらせることは一杯あるだろう。ただ座っているだけなら四角いロボットでもいいはずだ。いま受付に座っているアンドロイドは、前から見ても横から見ても、表情以外は成人女性となんら変わりのない姿なのだ。
「イラッシャイマセ。海城あきら様。新命ひかる様」
こちらのやり取りを悪口と取ったのか、眼孔の中身が複眼で出来ている目を細めて見せるアンドロイド。
「今日で一回実験を切って、家に帰ろうと思って荷物を取りに来たんだけど。二人と合わせての入所に問題はないよね」
明実の問いかけに、わずかに頭を下げたアンドロイドは、ちゃんとマニュキアまでしてある指で、カウンターの下から首より下げるタイプの身分証を取り出した。
「何モ問題ハゴザイマセン。ゴ主人様」
アンドロイドが取り出した身分証は全部で三つあった。その内一つには明実の名前と顔写真が入っている。他の二つには不愛想に関係者としか書き込まれていなかった。
これには非接触型ICカードの技術が仕込まれていて、各扉の鍵を兼ねているのだ。
もちろんここの研究者である明実の身分証には、自分に関するエリアを無制限に通過できる権限が与えられていた。
アキラたちに渡された関係者という身分証は、彼と一緒という条件付きで結構奥の方まで入ることができる。
駅の自動改札のようなゲートを通過すると、あとは不愛想な廊下が続くばかりである。
廊下はただ真っすぐではなく、定期的に鉤となっていた。これは直線の方が通行には便利だが、いざなにか研究室からヤバイ物が漏れた時に、その角が物理的に障壁となり、対応する時間が稼げるからである。
そういった鉤を数度通った後に、円形をした空間へと出た。
自動販売機や試作の技術を応用したゲーム機が並ぶリザクレーションルームという名の共有スペースだ。
ここから、さらに放射状に通路が延びている。その入り口の壁にもデータの読み取り機が設置されていて、同じ研究所に務める者でも他の研究者のエリアへ入ることは制限されていた。
ちなみに関係ない扉をしつこく開けようとすると、警備員という肩書を持った、どう見ても自衛隊か警察の特殊部隊というオジサンたちに囲まれることになる。
明実はまるで自分の家のような気軽さで、自分に割り当てられたスペースへ続く扉に向かった。
「大丈夫か?」
その背中について行こうとしたアキラに、ヒカルが心配そうな声をかけた。
「うん、まあ」
とても歯切れの悪い声に、明実は振り返った。
自分の通学用バッグを肩からかけたアキラは、その重さに潰されるかのように上体を屈していた。ヒカルが眉を顰めて横から顔を覗きこんでいる。
「ほほう」
アキラの様子を観察した明実は、自分の顎を撫でまわし始めた。
「もしかしたら負荷がかかっておるのか?」
「負荷って、なにやらかしたんだ? おまえは」
ヒカルが鋭い眼光で睨むが、彼はどこ吹く風という態度である。
「おそらく大量の情報が寄せられて、神経節がデータのやり取りから脳を守るために…」
「なにをやらかしたって訊いてんだ」
ヒカルは怒鳴るでなしに、低い声で訊ねた。いつもアキラを怒鳴りつけている声とは本質が違った。
右手で銃を抜きかけ、慌てて左手をスカートに当てる。宙を彷徨った右手は、結局アキラの背中へ回された。
「こんな脂汗まで掻いて…。いくら『マスター』だって、なんでもやっていいわけじゃないからな」
「わかったわかった」
こんなところで銃を抜かれちゃたまらんとばかりに、明実は両手を胸の前に上げた。
「すぐに説明するからの、はよ入れ」
明実が開けて待っていた扉へ、ヒカルに支えられながらアキラは入った。
扉を抜けると、また廊下が続いている。右手に小さな坪庭があり、目を休ませるにはちょうどいい。
その反対側にある鉄製の扉が明実の部屋である。
この廊下をもっと先まで行くと、アキラが『再構築』直後に過ごしていた病室のような部屋がある。
「横になるか?」
明実が開け放った扉をくぐり、ヒカルは支えていたアキラの体を、ソファへとおろした。
「い、いや。そこまでじゃない」
それでも少しは楽になるように、アキラは浅く腰掛け、体重をフカフカの背もたれへかけた。肩から荷物をソファへおろす。
「まっておれ。いま麻酔して来るでよ」
「麻酔?」
二人が訝しむ間もなく、明実が部屋から出て行った。二人が待つ部屋の扉が閉まり切らないうちに、別の扉を開く気配が聞こえてきた。
「どうする? なんか飲むか?」
室内を見回しながらヒカルが訊ねた。
六畳ほどの部屋である。全ての壁には本棚が設置されていて、そこには様々な本が詰め込まれていた。床にはプラスチック製のコンテナがいくつも置いてあり、そこからは納めきれない程の書類が溢れ出ていた。
いちおう揃えられている応接セットからの視線を遮るように、大きなモニターがこちらを向いて置かれており、その向こうには一揃えの事務机が鎮座していた。
周囲とは違い、奇跡的に片付けられている事務机にはネームプレートが置かれており「D研究室責任者・御門明実」と書き込まれていた。
「茶でも買ってくるか?」
先程のリラクゼーションルームにある自動販売機には、日本茶も果汁ジュースも用意されていた。
「ありがと。でもアメもあるし、なんだか軽くなってきた」
そう答えて、アキラは咥えていたキャンディの柄を舌先で動かしてみせた。
消耗した顔で言われても不安が消えるわけではないが、それでもアキラが笑顔を作ったので、ヒカルも横に座ることにした。
「そうだろうそうだろう」
騒がしく明実が戻って来た。開けっ放しの廊下からは、遅れて閉まる扉の音が聞こえてきた。
「やはり脳や神経に過負荷がかかっておったか。うんうん」
嬉しそうに一人だけ頷いている。それをヒカルが凶悪な目で見上げた。
「どういうことだ?」
「いやの、醍醐クマからもたらされた技術を応用しての。まあ、見るのが早いか?」
入口の所で一人納得していた明実は、二人を促すように扉を再び全開にした。
「どこまで行くんだよ」
「なあに隣の部屋だ」
アキラとヒカルは顔を見合わせて少しだけ逡巡してみせた。が、こうなったら明実が自分の主張を譲らないのは分かっていた。
「はあ」
溜息のような物をつきながらアキラが立ち上がると、ヒカルが寄り添ってくれた。
「ぬふふふ」
二人が廊下に出たあたりから、明実が変な笑い声を立て始めた。どうやら自分のやってきた実験の成果が自慢できるのが嬉しいようだ。
スキップを踏んでいるような軽い足取りで二人を抜いた明実は、首から下げた身分証で隣の扉を解錠し、大きく開け放った。
「見たまえ、オイラの科学力を」
室内からは嘘くさい程の青い色をした光が漏れ出てきた。
「なんだ?」
目を細めつつ引けた腰でアキラは室内を覗きこんだ。
「うげ」
「趣味わる」
アキラの腕を取って支えるヒカルも顔を歪めていた。
そこは明実専用の実験室である。広さは学校の化学室ほどあり、いまは窓のブラインドを閉めて外の光が入らないようになっていた。
室内の照明も落とされており、まだ夜まで時間があるのに、室内は暗くなっていた。
しかしまったくの闇ではない。実験用の机に置かれた物自体が青く発光しているからである。
発光しているのは、本来ならばホルマリン漬けの標本を入れておくような太いガラス瓶であった。いや正確には、そこにホルマリンの代わりに満たされた液体が、である。
そんな物体が実験卓に所狭しと並んでいた。
ざっと見ても三桁はあるような数である。
そのどれにも一本のダイコンのような物が沈められていた。
「これ、腕か?」
机に近づいてガラス瓶を覗き込む。ある物には指先を上にして、ある物には切断面を生々しく上にして晒しながら、一ビンに一本の割合で入れられていた。
「右手だけ…、でもないのか」
ヒカルが近づいたところには集中的に右腕が置かれていたが、ちょっと視線をずらせば左腕もあることが容易にわかった。
「ふはははは。どうだ素晴らしいだろう」
暗い室内で青い光を下から浴びて、どう見ても悪役面になった明実が目を血走らして笑い声を上げた。
「醍醐クマから供与された技術を応用し、オイラはアキラの腕の量産に成功した」
「こんなに作ってどうするんだよ」
アキラの質問に、明実は歪めた顔をさらに醜悪に変えた。
「決まっておる。これでオマイが腕を失くしても、困らない」
「なくす?」
「必殺技のこったろ」
ヒカルが呆れ果てた声を出した。
「あ」
アキラは自分の右手を見て、そこにある手相とビンの中の一本を比べた。
ほぼ同じ形をしていた。
女子高生に見える海城アキラは『クリーチャー』である。
この春に、即死してもおかしくない程の交通事故に遭った彰は、その直後にココ清隆大学科学研究所へ運び込まれた。このままでは彼が死を迎えることは確実で、幼馴染の御門明実は緊急に彼に対して開発中のある技術を用いることにした。
それが『施術』である。
一般には知られていない超技術で「女の子のようなもの」として生まれ変わったアキラに、明実はある力を授けていた。
それが必殺技の「ロケットパンチ」である。
高速で肘から先を飛ばすこの技で、アキラは数々の困難を打ち破って来た。特に上げられるのは、クロガラスの『クリーチャー』であるトレーネの撃破であった。
銃も剣も自在に使い襲ってくるトレーネを倒したことは大金星であり、これには同じ『クリーチャー』のヒカルも一目置いていた。
人外の物に『再構築』されたアキラは、人類の平和を脅かす悪の秘密結社と戦うこともなく、今日も一日を過ごすのであった。
なおロケットパンチが装備された理由は『明実の趣味』ただ一言である。
などと、日曜日早朝テレビから流れてくるようなモノローグ調に、自分の体に起きた事を振り返っていたアキラは、眺めていた自分の右手を握りしめると、身長差から明実の顔を見上げた。
「いまここで、おまえに対して撃ち込んでやろうか」
「おおっと」
飛び上がって逃げ腰になった明実は、とても曖昧な笑顔を浮かべた。
「ここでオイラに対して使ってもいいが、その後ダレが腕を戻すのかな?」
機械の体になったわけではないので、一度発射してしまうと、研究所屋上の魔法陣に設置されたシリンダーに入り『微構築』を受けなければならなくなる。
最初に使用した時は『微構築』の後に『調整』も受けなければならず、この研究室に半月ほど『入院』する羽目になった。
二回目の時は大幅に短縮されて、一日ほどで戻った。
そろそろ自由につけたり外したりできそうな気がする。そんな事を考えていたら嫌な予感がした。
一回、自分の腕のコピーたちを見回してから訊ねる。
「まさか連発式とか考えてないだろうな」
「あ、それは考えていなかったな」
(しまった)とアキラが思った時は後の祭りであった。明実が満更でもないというように自分の顎を撫でながら目を細めた。墓穴を掘るとはこういうことを言うのだろう。
「確かに、これだけあるのだから、連射できるようにするのもいいかもしれんな」
「まてまて、その時のオレの姿はどうなるんだ」
「そりゃ、こうだろ?」
ヒカルが肩をいからせるように両肘を突っ張らせてみせた。そこに、何本もの腕が肩から生えているのを幻視したアキラは、目眩のような物を感じた。千手観音はお寺に置いてあれば充分だ。
「いや、こうではないか?」
ヒカルの背中に回った明実が、肩の上から腕を前に突き出した。今度はその姿に、赤い中距離砲撃用ロボットを幻視したアキラは、頭を抱えてしまった。
「せめて人間の形を外れるようなことはやめてくれ」
「ほほお」意外な事を言われたように目を丸くして見せる明実。
「もう女として生きる決心がついたか?」
「それとこれとは話しは別だ」
ここは強く言っておかなければと、アキラは明実を指差した。
「とっととオレを男に戻せ」
「まあ、冗談はさておき」
明実は自分の顎を撫でまわしながら目を細めた。
「もし、オマイの必殺技が天使に有効ならば、携帯式の物を造って、誰にでも撃てるようにするのも、いいかもしれんな」
「バカ言ってんじゃ…、ねえ…」
アキラは眉を顰めると、額に手を当てた。よろよろと足元がおぼつかなくなる。唇がだらしなく開いたせいで、咥えていたキャンディが床へと落ちた。
「どうした?」
「いや、またなんかおかしい…」
ふらつくアキラを、慌ててヒカルが支えた。
「おい、この気違い。まだ充分に良くなってねえじゃねえか」
「おかしいのう」
そう言って明実は実験卓に近づくと、そこに置かれていた救急箱を開いた。
中から細身の注射器と、薬液の入ったアンプルを取り出して、準備を始める。
「おい、なんだそれ」
立つのもやっとになってしまったアキラの代わりにヒカルが訊いた。
「これか? ただの麻酔であるが?」
明実は振り返りもせずにアンプルを切ると、注射器に薬液を満たす。そして別の実験卓へ歩み寄った。
そこに置かれているのはガラス瓶ではなく、大き目の水槽といった容れ物であった。やはり『生命の水』で満たされており、腕のコピーが横向きに沈められていた。
容れ物が他よりも大きいせいか、そのコピーは他の物より大きめであった。ガラス瓶の物が肘から先しか無いのに比べ、肩口近くまである。
白くきめ細かい肌には電極が貼り付けられており、素人では意味の分からない波形を映し出しているオシロスコープと繋がっていた。
明実は迷うことなく『生命の水』の中へ手を突っ込むと、その薬液に沈んだ腕へ注射器を突き立てた。
「うっ」
注射針が刺さった瞬間、アキラが呻き声を漏らした。
ピストンが前進し、注射器の中身が腕の静脈へと入れられた。
「どうだ?」
抜いた注射器を救急箱へ仕舞いながら明実はアキラを振り返った。アキラは右肘の少し上を押さえつつ顔を上げる。
「いてえ」
「というと、やっぱ繋がっているのか」
ヒカルはアキラの顔と、周囲の腕を見比べた。
「ふむ。これで実証されたと言って構わないかな。この腕たちと、アキラの脳の間には、見えない経路ができておる」
再び実験体を見る目になった明実が説明を開始した。
「パス?」
「四月にトレーネと戦った時を思い出してみろ」と、その戦いに参加していなかった明実が言った。
「トレーネに斬り飛ばされた左腕は、離れた位置でもアキラに動かせたのであろう」
「あ」
その記憶に至ったヒカルが声を漏らした。戦いの経過は、事件後に詳しく明実へ報告していた。その中にトレーネの死角からロケットパンチを撃ち込んだ下りがあったはずである。
あの時、トレーネの剣で切断された左腕は、アキラの身体から離れているのに動かすことが出来た。
「そして、体の部位をコピーする方法を教えてくれた醍醐クマも、言っておったではないか。同じ部屋ならば感覚を共有していると」
「そういえば…」
「そして、いまコピーの腕に注射した部位と同じ個所に、アキラは痛みを感じた。つまり、これらもまた自分の肉体として、アキラの脳が認識しておるのだ」
明実は、まるで踊るように両腕を広げると、クルクルとその場で回り始めた。
「うれしそうだな」
対照的な声でヒカルがきいた。
「もちろんだ。重要な臓器のコピーはまだであるが、これでまた目標に近づいたと言えるからな」
「目標?」
二人で顔を見合わせていると、何をいまさらといった声で明実が宣言した。
「不老不死に決まっておろう」
「…で、だ」
一瞬だけ絶句したヒカルは、アキラを支えていない方の手で、卓上の救急箱を指差した。
「いまは何をしたんだ?」
「だから麻酔だ」
ニンマリと気持ち悪い笑顔を向ける明実。再び水槽の方に近づくと、幼馴染へ新しくできた友人を紹介するような調子で説明を始めた。
「一本ずつの腕はそうでもないが、これだけの大きさを持たせると、内容する神経の量もそれなりになる。そこから発生する雑音のような情報が、脳へ負担をかけたのが、今のアキラの不調の原因であろう。であるならば、一時的にでもこちらの神経を麻痺させれば、その雑音は治まるはずだ。事実、調子の方はどうかね?」
「どうかねって」
アキラは目を瞬かせた。先程よりは顔色がマシになったような気がするが、明かりと言えば『生命の水』の発光する青い光しかないので、正確な判断はつきかねた。
「まあ、たしかに」
マッサージを受けて肩こりが取れたように、左手を当てて肩を動かしてみる。
「そうであろうそうであろう」
うんうんと何度も頷きながら明実はやって来て、アキラが落としたキャンディを拾い上げた。
自分の説が実証されてご機嫌である。
「このコピーたちが使い物になるかの実験はじきに行うとして、他に何か質問は?」
「…」
アキラとヒカルは顔を見合わせた。
「無ければ無いで結構。…食うか?」
汚れた球体を差し出され、二人は首を横に振った。
「もう諦めなよ」
アキラが呆れかえった声を上げる。
「これほどとはな」
隣のヒカルも同じ調子の声だった。
「いや、なんとかなる」
明実が男前の声を出す。
「自分を信じろ、御門明実」
「いや、信じても体積は変わらんだろ」
アキラが渋い顔をして摘まみ上げたのは、まるで下町で営む下宿の押し入れで、キノコを生やしていそうな縦縞模様の男性用パンツであった。
「目覚めよ、その力!」などと、あかつき号事件が今にも起きそうな事を言いつつ、明実は両手でバッグを上から潰すようにして中身を押し込んだ。
アキラと同じ物を使っている明実の通学用バッグから、その押し込んだ力の反作用で、大量の布地が噴水のように溢れ出た。
それらは主に、ランニングや、アキラが摘まんでいる物と同じパンツ等の下着類、そして高等部へ着ていくYシャツと白衣である。
全て明実が研究室に泊まり込んで生産(?)してしまった洗濯物であった。
「うへえ」
ヒカルがこれ見よがしに鼻を摘まんでみせる。
アキラはあまり気にならないが、研究室には明実の体臭が充満していた。
これというのも、この大量の洗濯物を、どう見ても収まりそうにも無い自分の通学バッグへ、詰め込もうと明実が悪戦苦闘したからに他ならない。
詰め込もうとすればするほど、押した時には悪臭を吐き出し、手を離した時には周囲の空気を吸い込み、また押したときに汚染された空気を吐き出すという、まるでポンプのような作用で、明実の体臭が室内へ充満していくという悪循環であった。
「ふむ。おかしいの」
やっと詰め込む手を止めた明実は、顎に手を当てて首を捻った。
「これだけの洗濯物が溜まっておるはずがないのだが」
「おまえよお」
アキラは周囲を見回しながら告げた。研究室で唯一散らかっていなかった机の周辺には、どこに隠していたのだろうと思えるぐらいの洗濯物が積み上げられていた。
「他に、もう一山あるぜ。それが入ったとしても、無理だろ」
「おかしいのう」
「ま、着たきりスズメよりは、なんぼかマシだけどな」
ヒカルが感心した声を漏らした。
「湿度の高い日本では、清潔を保たんと病気の素になるからの。どんなに研究に没頭していても、シャワーは毎日欠かさぬぞ」
「その結果がコレだろ。洗濯する人の身にもなれよ」
アキラが摘まんでいたパンツを、洗濯物の山へ投げて戻して、忠告のような物をした。
「一考しよう」
全然反省していない様子の明実。
「で、どうすんだよ、これ」
ヒカルの質問に、パチンと明実は両手を合わせた。
「入れて行ってはくれんか」
まるで神仏に対するかの如く、拝み倒しに入る明実。
「え~」
ヒカルが心底嫌そうな声を上げる。それは態度にも現れていて、奪われないように自分のバッグを抱きしめてみせた。
「オレのバッグだって、そんなに入らないと思うぞ」
元は男の子で、幼馴染であるアキラの方は抵抗が無いようだ。なにせ幼稚園の頃から二人一緒に泥んことなって遊んでいた間柄だ。
アキラは、ソファに置いたバッグのチャックを開いて、中を確認した。
「全部は無理か…。最後の手段だ」
明実は先程アキラが買い出しに使ったエコバッグを取り出すと、そこへも洗濯物を詰め込み始める。アキラへは、いちおう遠慮があるのか、一番汚れが目立たないランニングが押し付けられる。
「ずいぶん安い最後の手段だな」
ヒカルの呆れた声は無視して、アキラのバッグと合わせ技で、なんとか洗濯物を運べる状態にする。
「ちなみに訊くけど、研究所に洗濯機は無いのか?」
「あるにはあるが」
「あるのかよ」
「ちょうど大型撹拌機が故障しておっての。丁度いい物が…」
「はあ」
アキラはパンパンになったバッグを肩から提げた。また少しずつ体調が悪くなってきているような気がするので、なるべく早くココを出たい一心からの行動だ。
「それじゃあ、いくかの」
モニターの電源など指差し確認した明実が、自分も通学用バッグを肩にかけ、手からエコバッグを提げる。
「おまえらっさあ」
再び鼻を摘まんだヒカルが、自分の周囲を扇ぎつつ口を開いた。
「その格好でバスに乗るのか?」
「なにか問題でも?」
「おおアリだ」
二人は気にならないようであるが、ヒカルの嗅覚には暴力的ともいえる空気なのだ。研究室の狭い室内で不必要に洗濯物を掻き回したということを差っ引いても、新陳代謝が激しいお年頃の少年である。このまま公共交通機関を利用したら、他の乗客に迷惑がかかるであろう。
しかもお隣さん同士の海城家、御門家までは一本のバスでは辿り着けないのだ。研究所が面している国道のバス停からは、一旦駅のバスターミナルへ出て、また別のバスに乗り換えなければならない。
普段は、贅沢は慎みなさいと教育されている二人は、それでもバスで帰る気マンマンのようだ。
「あたしゃ一緒になんて嫌だからな」
「それは困る」
明実は顔をしかめた。
「天使の襲撃があった場合、我々の最大戦力であるヒカルがおらんと話しにならん」
「そいつの必殺技でなんとかしろ」
冷たい声でアキラを指差す。
「まてまて」
廊下に出て先に行こうとする小柄な背中を慌てて追った。アキラも置いてきぼりにされないように速足になった。
部屋の施錠がある明実を交わして前に出て、ヒカルのバッグを摘まんで止めた。
「そんなに臭うか?」
この場合、嗅覚がダメというより慣れというものであろう。アキラは心底不思議そうにヒカルへ訊ねた。
「くさいなんてもんじゃねえぞ」
対するヒカルは、鼻を摘まんだままだ。まあ少しは、年長の女性として少年たちへエチケットを教えてやろうと、大げさに言っている部分もあるようだ。何度も繰り返すようだがヒカルは、どこから見ても女子高生という姿であるが、実際はもっと歳上である。
「そうかなあ」
「少しは自覚しろ」
「…、オレもか?」
恐る恐るアキラは、バッグとは反対側の肩口へ、鼻を持って行った。もちろん実家暮らしの身の上で、しかもしっかり者の母親が家事全般を取り仕切っているアキラの制服からは、悪臭なんて微塵も感じられない。
特に「女の子のようなもの」になってからというもの、制服は綺麗に洗濯されているどころか、香る柔軟剤とやらのおかげでいい匂いがするほどだ。
母曰く「せっかくアキラちゃんが、欲しかった女の子になってくれたんだもの。綺麗な物を着てもらわないとね」だそうだ。じゃあ男の子のままだったらどうなったのだろうか。
「ためしてみるか?」
ニヤリとして振り返るヒカル。
「ためす?」
こたえる前に、ヒカルがアキラへ襲い掛かった。
二人の荷物が床に落ち、無粋な音を立てた。
ヒカルはアキラの両手首を掴むと、愛想もない廊下の壁へ押し付けた。さらに足の間へ右膝まで割り込んでくる。
「え、ちょ、ちょっと」
そのままヒカルは、アキラの胸元へ顔を埋めた。
「あ、ヒ、ヒカル?」
顔を真っ赤にしているアキラを抑え込んだまま、ヒカルが大きく呼吸をしてみせる。ヒカルの体温どころか、早くなった鼓動すら聞こえるような密着具合である。
同じシャンプーを使っているのに、目の前の黒髪からは魅力的な香りがした。
おそらく数秒だったろうが、アキラには十分以上に感じられた時間が過ぎた後、やっとヒカルは顔を上げた。
「うん、やっぱりくさい」
そういったヒカルの顔も真っ赤になっていた。
「お、おまえよぉ」
その上気した顔が悪戯気に微笑んでいたので、アキラにだって、それが嘘だとすぐに分かった。
「イチャついているところ悪いが…」と前置きをして「じゃあ、どうやって帰るのが正しい選択なのだ?」
科学者らしく問いかける明実に、アキラを開放したヒカルがこたえる。
「考えるのはアキザネの仕事だろ。あたしに訊くな」
少し乱れたスカートの裾を直して床に落としたバッグを拾い上げる。動悸が収まらないアキラはまだ壁面に寄りかかっていた。
「ふむ…」
室内よりも明度を落としている廊下の端に来る。三人の行く手を塞ぐ扉は、明実の身分証が無いと開かないはずだ。
早く開けろと下から見上げてくるヒカルの顔を見ながら、明実は妥協案を提示した。
「そういえばヒカルは運転免許を持っておるんだったの」
「なんで知って…」文句を言いかけて、やっと後ろからついてきたアキラを振り返った。
「三人でドライブしたろ。五月に」
制服のネクタイを直していたアキラが、噛みつかれる前に指摘する。五月にヒカルがちょっと離れた『いい店』へ行くためにレンタカーを借りたことがあった。そのレンタル期間に、家の近くのコインパーキングから研究所の駐車場まで、たしかに三人で乗った。それをヒカルは忘れていたようである。
「で? あたしの免許がどうしたって?」
「研究所で普段使いに数台の車を所持しておる。その車を借りて、足にするというのはどうだ?」
「あたしに運転しろと?」
「オイラでもよいが?」
「バカ言ってんじゃねえよ」
日本の高校一年生である明実が運転免許を取得しているわけはない。もちろんそれは同級生のアキラにも言えることだ。
ただ二人の護衛役という事で女子高生のフリをしているが、本当は成人女性のヒカルは運転免許も取得していた。とは言っても、その免許証の名義は、いまとは違う名前なのだが。
扉を開けないという強引さで足止めされたヒカルは、その場所で腕を組んで考えた。こうしている間にも、二人が抱えた洗濯物から男の体臭が上がっており、ヒカルの制服にまでしみ込んでくるイメージが沸いて来た。
「はあ」
なるべく鼻から息を吸わないようにしつつ、ヒカルは溜息をついた。
「あんまりうまくないぞ、運転」
「お」
困った顔を作っていた明実が表情を一変させる。あからさまに肩を落としてみせるヒカルを励まそうと、アキラは声をかけた。
「そうでもなかったぜ、運転」
「いいから、おまえは黙ってろ。喋るな」
「ひでえ」
力ない声なのにピシャリと言われ、いつもヒカルの八つ当たりにされる対象にされている自分の境遇を嘆いた。
「どこで借りるんだ?」
そうと決まれば行動が早いのがヒカルのいいところである。
「受付で」
明実はやっと壁の読み取り機に自分の身分証を当てた。
「言っておくが、取り回しのいい車…、軽とかにしろよ」
「わかっておる」
全然分かっていなさそうに明実がこたえた。
まるでホテルの娯楽室のような、明るくて清潔な円形のリラクゼーションルームを抜け、またやたらと角が多い廊下を進む。
「研究所のクルマ?」
荷物ごと腕を組んだアキラは首を傾げた。
アキラが乗せられたことがある車両は、マイクロバスのような中型以上の物ばかりだった記憶しかない。ヒカルの希望する軽自動車は果たしてあるのだろうか。
「まあ、無けりゃ無いで、あるやつを運転するがよお」
ヒカルが不機嫌そうに呟く。それを聞いていた明実は、どうやら研究所が所有している車両のリストを頭に思い浮かべているようだ。
「実験のための器材運搬用としてだけでなく、もちろん自動車自体を研究するために、世界各国の色々な車種を取り揃えておるぞ。有名どころだと焼死体運搬車に聖なる神の玉座、イタ車だとC一。珍しいところだと南アフリカの象もあったかの。もちろん定番の豹もM六〇もあるぞ」
「T九〇までなら運転したことあるけどよお」
ジト目になったヒカルが呆れかえった声を出した。
「そいつらで日本の公道を走るのか?」
「少なくとも、もらい事故は怖くないかの」
しれっと言い返した明実に、溜息を返す。
「なんの話だよ」
アキラが訊くが、ヒカルは振り返りもしなかった。
「なんでもねえよ」
「まあ冗談はさておき、スズキエブリィのバンか、ニッサンのクリッパー、マツダのスクラムやミツビシのミニキャブあたり暇をしておるだろ」
「冗談が終わってねえぞ」
ヒカルが軽く明実の足を蹴った。
「???」
車に詳しくないアキラは首を捻るばかりだ。
「ではモーガンスリーホイラーとかメッサーシュミット…」
「荷物が載せられねえどころか、二人乗りじゃねえか」
「うむ。ヒカルと話しておると楽しいの」
「まあ普段のツッコミ役がアレじゃあな」
二人して半分振り返ってアキラを眺めた。
「なんだよ、オレが悪者か?」
話しの半分どころか、全然分からなかったアキラは膨れて見せた。高校生男子がやってもあまり似合う者がいない表情であろうが、さいわい今のアキラは「女の子のようなもの」である。
「おまえがマヌケなのが悪い」
そんなアキラをヒカルは一刀両断にした。
「むー」
「まあまあ」
さらに膨れるアキラに声をかけながら、明実は明るい空間に出た。
やっと研究所の玄関ホールである。
「あ、いいところに来た」
鉄道の自動改札のような入退出ゲートの向こうから声がかけられた。
再び首から下げた身分証を読み取り機へかざす。赤色に灯っていたパイロットランプが、読み取り完了を示す緑色に変わった。
ゲートを抜けて視界を遮るものが無くなって、ホールが来た時と違って無人ではなくなっていることが把握できた。
受付カウンターの前に、白い服を着た一団がいた。
一目でアキラたちと同じ世代の学生とわかる集団だ。雰囲気は修学旅行のソレである。
その中から声をかけてきたのは、首一つ背の高い女性だった。
他の者が制服のような物を身に着けている中で、白衣の下は夏らしいロングデニムとショートTシャツという軽快な服装をしていた。
上のTシャツなんか短すぎて、かわいいオヘソが顔を出しているぐらいだ。
もちろん出ているところが出ていて、引っ込むところが引っ込んでいないと似合わないファッションであり、彼女にはその服装を難なくこなしていた。
化粧はそれなりだが、何よりも髪の毛の量が圧倒される程多い上に、天然の巻き毛で、後ろから見たら黒い毛玉にしか見えない人物である。
「ちょうどよかったよ~」
「こんにちは。お客さんですか」
会話する距離まで歩み寄って来た相手に、明実が少し丁寧な言葉遣いをした。それもそのはずである。この挨拶を返した女性が、明実の才能を見出してこの研究所へ迎え入れた、いわば恩師のような立場の人だからである。
「はい、こんにちは」
挨拶を返してニッコリとする。
明実の恩師である岸田美亜博士は、大学で数学の教鞭を執っている才媛だ。カレンダー計算どころか瞬時に五桁同士の掛け算を含む計算を暗算でこなし、素数や円周率、周期表まで暗唱できる。
そんな数字に強い彼女であるが、自分の才能が生かせる場所を見つけるまで非常に苦労した。
マスコミなどで、その美貌と合わせて驚異の暗算能力者などと見世物になる事はあっても、彼女の頭脳は空転するばかりであった。
今ではこの研究所で数学科のトップとして活躍しているだけでなく、副所長のような仕事もこなしていた。
そんな自身の経験から、彼女は全国に散らばる天才と呼ばれる少年少女を発掘し、清隆学園に集めることで才能が無駄にならないように計らっていた。その計画の一人として明実も選出されたのだ。
もちろん明実と同じように選抜された子供は複数いた。その才能の程度を見て、ある者はこの清隆大学科学研究所に研究室を持ったり、ある者はもっと才能が開花するまで高等部で学んだりしていた。
「岸田博士、そちらは?」
明実が目線で指差したのは、見たことも無い顔が揃った集団であった。
三人いる男子は白いスラックスにワイシャツ。八人いる女子は白いプリーツスカートに半そでの白セーラー服といった、清潔感溢れる物だ。一人は体が不自由なのか顔の半分まで包帯が巻かれ、パフスリーブワンピースを着た女性が押す車椅子に座っていた。
車椅子のハンドルを握る女性の赤茶色した瞳が細められた気がした。どうやら微笑んだらしい。
その女性以外に、他には引率者は見当たらない。総じて女子率が高めの集団であった。
明実の質問に、岸田博士は服装の印象と同じ軽快な様子で、手を広げるようにして彼らを示した。
「えー、紹介しよう。彼がこの研究所の筆頭ともいえる御門明実くんだ。アキザネ。彼らは、九州は福岡県の白膏学苑から来た化学部一行だよ」
「きゅうしゅう…。それは遠いところからようこそ」
「どうも初めまして」
代表者らしいイケメンが前に出た。
「白膏学苑化学部で部長をやっている二年の三浦です。御門くんの噂は時々耳にしていますよ」
爽やかに右手を出してきた。明実も抱えた荷物を二人に任せ、彼と握手を交わした。
欧州と日本の混血児である明実ほどではないが、身長の高い少年である。顔には、街ですれ違う女性が思わず振り返りそうな微笑みを浮かべていた。
染めずとも明るい髪の色に、あまり陽に焼けていないが健康そうな肌をしていた。
ただ、どことなく印象が爬虫類を思い起こさせる粘着質な雰囲気が大きなマイナス点であった。
「どんな噂かが興味ありますね」
ヨソ行きの笑顔でこたえる明実。ちなみに相手が年上ということは歯牙にもかけていない様子である。
明実と握手を終えた三浦は、手を腰だめに上げたまま、後ろに並んでいた二人にも近づいて来た。
「いやあ、東京には美人が多いなあ。キミたちは彼の秘書なのかな?」
薄っぺらい笑顔で話しかけられて、アキラは目が点になってしまった。差し出された右手を何の気に無しに握り返したら、そこに左手まで重ねてきた。しかも手の甲を撫で始めるではないか。アキラの背筋に寒気のような物が走った。
「ボクもこれから彼のライバルとして名前が売れるだろうから、覚えておいてくれよ」
「そいつは結構な事で」
チョップ一発で三浦の手からアキラを救ったヒカルが、とてもご機嫌斜めな声を出した。
「あいてて。強気な女性も魅力的だよ」
「あいにく男にゃ不自由してねぇんだ」
改めて差し出された右手を無視してヒカルは堂々と胸を張った。
「おや、そいつは残念」
「ほら、お仲間が心配そうに見てるぜ」
キャンディの柄がはみ出したままの唇で、他の白膏学苑の面々を差す。一行のほとんどがヒカルの言ったように心配げな顔をしていた。特に中心に居るオサゲに眼鏡という田舎にいる女学生のテンプレみたいな娘は、手を握り合わせて今にも泣きそうな表情をしていた。
すごすごと戻る三浦の背中に聞こえないように、ヒカルが小声を出した。
「あいつ、おまえが男だって知ったらビックリするだろうなあ」
まるでイタズラを思いついた少年のような顔をしてみせた。
「余計な事はするな…、と言いたいが、今回ばかりは賛成する」
なにか粘液のような物を擦り付けられた気がして、アキラは右手を何度もスカートで拭った。
「で? なぜ遠い九州の学校の人を招いたんです?」
その様子を離れた位置で見ていた明実が、不思議そうに岸田博士に訊ねた。
「知らんのかキミは」
逆に不思議そうに聞き返す岸田博士。
「は?」
「東の清隆、西の白膏と言えば、鎬を削るライバル関係と巷では噂なんだぞ」
「そうなんですか?」
「ウチももちろんそうだが。文科省の科学教育重点校の指定を受けて、そこらへんの三流大学にはない設備まで整っている学校だ。今回はソコの化学部総勢十一人を、東京にご招待したわけだ。両校のさらなる発展を願って、というヤツだな」
「へえ」
「というわけで年齢も近い事だし、所内の案内をキミに頼もうと思っていたのだが…」
急に岸田博士のトーンがダウンした。半歩下がってジト目で睨みつけてくる。
「どうしたアキザネ。いつものキミらしくない」
わざわざ鼻を摘まむパフォーマンスまでしてみせる。
「え?」
その意味が分からなかったのか、明実はキョトンとした年齢相応の顔になった。
「そうですよ博士」
ヒカルが、先程明実から押し付けられた荷物を、なるべく自分に触れないように運びながら会話に参加した。
「少しは言ってください。清潔にしろって」
明実が『施術』の研究をしている事は、もちろん岸田博士も知っている。詳しい内容までは知らないだろうが、ヒカルがすでに別の『マスター』によって『構築』された身で、その結果見た目と違うプロフィールを持っていることぐらいは知識として入っているはずだ。
そしてヒカルが大怪我をした時に、研究所に「入院」していた時期もあるため、短い会話するぐらいの知り合いにはなっているようだ。
こうして並んでみると、大人と子供ほどの身長差がある。女子高生の姿をしているヒカルが小柄な事もあるが、岸田博士は日本人女性という、身長に対して不利な出自なのに、明実とほぼ同じ高さという体格なのだ。
「ふむ。今日は帰宅して、サッパリとして来た方が良いようだ。案内役は高橋くんにでも任せるとしよう」
「そうさせてください博士。まあ新陳代謝の激しい年頃ですが、明日にはちゃんとさせますから」
「ふむ。たしかキミはアキザネと同居しているんだったけか?」
「いいえ」
慌てて首を振るヒカル。アキラの横まで飛んで戻って、その腕を引っ張った。
「こいつとは一緒ですが、アキザネとは別です」
「ふむ」
ちょっと考える顔になった岸田博士は、ツカツカと歩み寄ると、ポンと二人の肩に両手を置いた。
「よろしくたのむよキミたち。アキザネを少しはまともな男にしてあげてくれ」
「はあまあ」
意味がまったく分からず頷くアキラの横で、ヒカルがきっぱりと言った。
「給料分は善処しましょう」
「じゃあ受付くん。D研究室の高橋くんを呼び出してくれたまえ」
「了解シマシタ、岸田博士」
「それと、研究所の車を借りることはできないかな?」
脇から明実が口を挟んだ。それに対し、人間らしく首を傾げた受付用アンドロイドが、頭部表面に愛想笑いを貼り付けた。
「順番ニ処理シマスノデ、シバラクオ待チクダサイ」
カウンターには見学者と書かれた身分証が十一枚並べられていた。それを岸田博士が学生たちへ配っていく。代わりにアキラたちの関係者という身分証と、明実の写真入りの身分証が返却された。
「高橋くんは今なにをやっているのかな?」
なかなか現れない明実の助手を心配そうに待ちながら岸田博士が訊いてきた。
「例の培養ですよ」
曖昧な明実の返事に、岸田博士がうなずいてこたえる。岸田博士も明実の研究している『施術』が一般に知られてはまずいことは理解している。なにせ不老不死である。いきなりその技術が完成しているのなら、大きな人類の足跡がまた一歩というところだが、まだ明実の研究では成功率が半分にも満たない。そんな物を、いくら人命救助のためとはいえ幼馴染であるアキラの身体に使用したのだ。へたをすると人体実験を咎められ、学界から追放される可能性すらあった。
聞いている者がアキラやヒカルだけなら問題ないが、いまは白膏学苑の人たちがいる。
「じゃあ忙しいのかな?」
「ちゃんと九時五時の週休二日でこなせる量の仕事しか振ってませんよ」
明実は堀の深い顔をしかめた。
「もちろん余った時間を自分の研究に使うのも止めていませんが」
「まあ、彼女の場合は余暇を楽しむというより、その線だろうな」
一人で二人分の空間を使用する原因となっている長い髪を掻き始める。
「根を詰めなければよいが」
ふうと溜息のような物を漏らす岸田博士に、明実はニヤリとして言った。
「それは博士もそうですよ。たまには余暇を楽しんで下さい」
「やはりキミは優しいな」
曇らせていた表情を笑顔に戻して岸田博士は言った。
「そのココロがある限り、いまの研究もうまくいくだろうよ」
免許証の登録がどうとかの面倒臭い手続きを、岸田博士がちりめん問屋の隠居を騙る人物並みの権力を持ってスルーした三人は、無事に自宅まで辿りついた。
「なんだったら試乗してもいいんだぞ」と岸田博士に薦められた黒い色をした一九八二年型ポンティアック・ファイヤーバード・トランザムは辞退した。ハンドルを握るヒカルが、馬力のある車を運転するのは疲れるので嫌がったこともあるし、それに消灯していて良く分からなかったが、フロントバンパー中央に赤いLEDが横一列に並んでいるような気もしたし。
結局、外見上は日本中で見かけることのできるバンタイプの軽自動車を借りだすことに成功した。
ちなみに最後まで明実が「このクルマも機械生命体として変形を…」とか主張していたが、二人は見事にスルーした。
コインパーキングに停めると、三人して洗濯物を抱えて住宅街を歩く。他の住居と特に変わったところが無い平凡な一軒家、その一つが海城家であり、隣接するのが御門家である。
唯一とも言える特徴は、お互いの庭を隔てる生垣が、とても低い事だろうか。本当はそんな障害など取り払ってしまってもいいぐらい仲の良い両家であるが、そこはケジメとして残してある最後の線であった。
両家で祝い事などあると、海城家主人が日曜大工の腕を振るって作った、生垣に設けられた白い門を開放し、お互いの家族が入り混じってのバーベキュー大会となる。
そんな庭を右手に見ながら明実が白衣から鍵束を取り出した。玄関扉の前に立つと、わざわざ取り換えたという古風な青銅製の鍵穴に差し込んだ。
最近の日本では防犯のために廃れたような鍵である。強いて言えばアクセサリーとしてデザインされている物に近い形状だ。
これまた効果音ではないかと思えるぐらいのガチャリという音がして鍵が開いた。
「ただいま」
明実の声は屋内へ虚しく響いた。
「なんだ? おふくろさん留守か?」
一人洗濯物を運ばなかったヒカルが訊ねた。対して気にしていないように明実がこたえる。
「母さんは忙しいからな」
「まさか、運ぶだけじゃなく洗濯までさせるんじゃないだろうね?」
ちょっと剣のある声で訊ねると、明るい声で否定が返って来た。
「大丈夫。洗濯籠に入れておけばいい。するとタンスに綺麗畳まれて収められておるからの」
「それって? 小人でもいるのか?」
家族とは顔をあわせないのかと心配げな顔になるヒカル。それに対し、自分のバッグから明実の洗濯物を取り出しながらアキラが種明かしをした。
「かあさんがやってくれてるんだろ。感謝しろよ」
「カナエが?」
へえとヒカルが感心した声を漏らした。
両親共働きどころか、日本のスロバキアコミュニティで色々な世話をしている役回りの明実の母、御門クララはとても忙しい。起床して普通に会社で仕事をこなし、夕方からは遠い異国の地で苦労している同国人の悩み相談。それが夜に及ぶことだって度々だ。しかし地球は二十四時間で一周してしまう。そんな御門家では家事が滞ることは、もはや当たり前である。
そんな御門家の事情を充分知っている海城家の主婦、海城香苗が、簡単な掃除と洗濯ならばやっておくことがあるのだ。もちろん鍵は正式に預かっている。
「さすがオイラの未来の伴侶。完璧だ」などと、今知った風に明実が感動した声を上げる。
「いいかげん、その妄想ヤメロ」
自分のバッグのチャックを閉めながらアキラは指摘した。
明実の天才的な頭脳は幼いころからすでにその才能を開花させていた。どんな難しい理論でも、まるで砂地が水を吸収するように己が物としてきたのだ。その知能と同じように精神の方も早熟であった。そこに近所では美人と評判で、さらに幼馴染の母親である香苗の存在だ。
「おいらオバチャンのお婿さんになる」と香苗に宣言したのが幼稚園は年長組の時であった。
だが想像して欲しい、そのぐらいの年頃の男の子にそう言われた女性の反応を。
「じゃあ、大きくなったらね」
いたって普通の返答を、それから十年近くたった今でも明実は信じているのだった。
ちなみに海城家の大黒柱であるところの海城茂は健康そのもので、今週は山形県にある自社と大口の取引をしている倉庫会社に出張しているはずだ。
「まあ、ともかく」
角を生やして明実に凄んでみせるアキラと、いつもの調子の明実を取りなすつもりか、ヒカルが珍しく穏やかな声を出した。
「今日の所は、ゆっくり風呂にでも浸かって、神経を休ませるこったな」
「一人で大丈夫か?」
アキラが思い出したように訊いた。そのセリフを聞いて、ヒカルと明実が目を点にしてアキラの顔を覗きこんだ。
「オイラにはカナエさんという大事な人が」これは明実。
「おまえ、あたしだけじゃなくアキザネとまで…」これはヒカル。
右耳から入った二人の声が、脳内で言葉として認識されて、さらに左耳から出て水平線へ赴こうかという頃になって、アキラの顔が真っ赤になった。
「ば、ばか! 風呂じゃなくて、家に家族がいないから心配したんだろうが!」
「まあ風呂だったら、彰とはよく一緒に入った仲だがな」
明実は小学校の頃を思い出すように天井を振り仰いだ。
「オイラの方が先に剥けてからは、別々に入るようになったな」
「ここでその話をするかあ?」
別の意味で顔を赤くしたアキラが、怒声を発した。
「どだいアキザネとオレでは、遺伝子レベルで勝負にならないってことにしただろうがよ」
身長を含む体格や、そういった成長期のアレコレは、やはり欧州の血が入っているせいか、明実の方が早く現れていた。
「はあ」
わざとらしくヒカルが頭を抱えた。
「そういった話は、淑女のあたしがいないところでやっとくれ」
「…!」
アキラがまた別の意味で顔を赤くしている間に、ヒカルが明実に訊ねた。
「だが家に誰も居ないとなると、襲われた時に身を守れるか?」
「大丈夫であろう」
安請け合いのように明実が胸を張った。論理的思考が最優先の彼にとって、この程度の思い出話など赤面する価値も無いようだ。
「いま一番危険な存在は天使であるが、向こうは『施術』を受けた物を最優先にするようだ」
「そしたら『マスター』である、おまえが一番危ねえじゃねえか」
「いや、オイラの体はまだ人間だ。天使が『生命の水』を体内に持つだけで、『構築』されていない大岩輝に対し、最初あまり関心を見せていなかったこと。オイラや醍醐クマの代理人に攻撃の意思を見せたのが、最後であったこと。以上二つの観測から、オイラは『天使は人間にはあまり興味をみせない』と推論する。おそらく何らかの方法で『生命の水』を感知しているのであろう。オイラみたいに『施術』の知識はあるが、肉体は人間の者は後回しになるものと思われる。むしろ危ないのはオマイらの方だ」
「家まで攻めて来られちゃ、体がもたないよ」
アキラが情けない声を出した。
「それも大丈夫かと思われる」
明実は人差し指を立てた。
「最初に襲われた時には『構築』されたものがアキラ、ヒカル、クロガラスと三人揃っていた…。アキラの場合は『再構築』だが、まあ誤差範囲だろう。二回目は、その一回目の経験から、同じ敷地内を探索している時に、鍵寺明日香と遭遇したのだろう。つまり清隆学園の外では、三人以上集まっていない限り、襲われないであろうことが推察される」
「確証がねえのに、よくそこまで言えるな」
ヒカルが呆れた声を出した。
「たった二回しか遭遇しておらんのだ。半分以上推理というより想像になってしまうのは、いたしかたあるまい」
「だが仮説をまったく立てないわけにもいかないか」
「ああ。我々はのんびりと敵の攻撃を待っているわけにはいかんからのう」
「つまり?」
横からアキラが口を挟んだ。キョトンとした顔をして見せる。
「つまりだな」
ヒカルはアキラを振り返り、腕組みをしてみせた。
「うじうじ考えているだけ無駄ってことさ」
「まあ、いずれ分かって来るだろう。それに…」
わざと嫌味な笑顔を作った明実は、ずいっとアキラに顔を寄せた。
「『構築』されたものが二人いる時点で天使に探知されるのならば、どうあがいてもココは襲撃対象になる」
「かあさんがいるのに」
肩を落とすアキラを励ますように、表情を一変させた明実は言い切った。
「その時はその時で考えるしかあるまい。やってみないと何事も進展しないのだぞ」
「三人揃うと探知されるというのが条件なら…」
ニヤリと凄みのある笑顔になったヒカルが、スカートの上からホルスターを叩いた。
「明日からの英語の授業が楽しみだ」
「あ」
アキラの顔がさらに青ざめた。アキラとヒカルは同じ一年一組なのである。そこへクロガラスは松山マーガレットという名前の英語教師として赴任してきた。
つまり英語の授業中は、いま明実が上げた「三人揃えば天使に探知される」という条件を満たしてしまうではないか。
「どうしよう」
「だから難しく考えるなって」
バンとアキラの背中を叩いて、ヒカルが楽しそうに言った。
「そん時は、あたしが天使を倒してやるからよ」
「それに」
明実は人差し指を立ててみせた。
「あくまでもこれはオイラの仮説なのだから、被探知の条件は違うかもしれない。もしかしたら適当にダウジングしているのかもしれんぞい」