七月の出来事B面・③
「天使…、ですか」
困ったように微笑む老婦人。
「初耳ですね」
それから小一時間後。アキラ、ヒカル、そして明実の三人は陽当たりのよい部屋に置かれたキングサイズのベッドの傍らにいた。
その上の柔らかいクッションを集めた中に埋もれるように座り、頬に右手を当てて眉を顰めているのは、上品な佇まいをした高齢の女性であった。
その肩書は商工会顧問。長い時を過ごしてきた者だけが纏える大木のような雰囲気のまま、その老婦人…、醍醐クマはベッドの脇で控えるメイドを見た。その瞳の奥には青い炎のような光がある。
ギンガムチェックを存分にあしらった服を身に着けた、一見カジュアルメイドと思える相手も、ちょっとだけ首を傾げて見せた。
「そうですか」
明実は少しも残念そうな素振りを見せず、言葉を繋いだ。
「そういったわけで、クロガラスから休戦と共闘の提案がありましてね。オイラは乗ることにしたんですよ」
クロガラスとの会談を終えた三人は、その場でクマとのアポイントメントを取った。クマの体も『構築』された物であり、長い時間と共にゆっくりと歳を取って来た存在なのだ。
現在は明実とクマは協力関係にあるため、こうしてクロガラスとの会談を包み隠さず話し終えたところだった。そしてもちろんキューピットの襲撃も話した。
明実の報告に、クマは難しい顔をした。ヒカルが仇としてトレーネを追っていたように、クマにとってクロガラスは自らの『マスター』の仇なのである。
「もちろん、休戦は休戦であって、再び矛を交えることになるかもしれまんが」
「そんなに天使とは強いのですか?」
「さあ」
あっけらかんと肩を竦める明実。
「まだ、そのご本尊とやらに出くわしていませんし。ただ、その下っ端のキューピットと呼ばれる存在とは交戦しましたがね、クロガラスの言うところのイコノスタシスとやらで、こちらは触ることもできませんでした。よくて引き分けといったところですかね」
「ブラッククロウと休戦とは…。なにかの罠かもしれません」
警戒する声に、やはり明実の横から賛成する声が上がった。
「そうだよな、あんないけ好かない女。すぐに縊り殺すべきだよな」
咥えているキャンディを零しそうなほどキツイ口調のヒカルを、アキラは驚いて振り返った。
「ヒカル…」
小さなアタッシュケースを両手で抱えたまま止めに入った。
「アキザネの言う通り、休戦が最適だと思うけど」
「おまえの意見なんざ、聞いてねえ」
プイっと外を向いてしまう。
「天使、キューピット…」
ベッドの上で考える顔になったクマは、自分の手元に視線を落とした。
「銃が利かないのがやっかいだが。あんなヤツら、右から左へ片付けてやるって」
顔を戻して胸を張るヒカルを、クマは手で制した。
「こちらでも調べてみましょう。その結果が出てから、休戦や共闘について考えるという事でいいですか?」
「もちろんですとも」
胸に手を当てて腰を折る明実。
「ただ我々がクロガラスと共闘関係にあっても、そちらとの協力関係は維持していただきたいものですね」
「もし…」
また傍らのメイドに視線をやってから、クマは明実に訊いた。
「こちらが敵対関係を維持、ブラッククロウへ戦いをしかけたら、どうしますか? ブラッククロウと一緒になって敵対しますか? それとも我々の側につきますか?」
「オイラたちがクロガラスと結んだ休戦及び共闘の相手は天使であります。その時は、中立もしくはこちらの側に立たせていただきたいと思います」
「まあ」
ちょっと驚いた顔をしてみせるクマ。
「最低でも敵対はしないと約束して下さるのね」
「ええ、ええ。もちろんですとも。様々な技術的興味を満たしていただける間はね」
頭を下げたその位置から見上げるように顔を歪めて笑う明実。見るからに腹に一物あるようだ。それを重ねてきた人生経験か、微笑みでかわしたクマは、話題を変えようというのか、手を叩いた。
「それでこの話題は終わり?」
「まあ、だいたいは」
「では今度、こちらからも人をやって話し合いとやらに参加させていただくとします」
「彼女を、ですか?」
背中をのばした明実は、クマのメイドを見て訊いた。
部屋中の視線を集めたメイド…、大岩輝は、困ったような微笑みを浮かべた。その瞳の中には、アキラやヒカル、そして自らの主人と同じような青い炎のような光がある。
ただし彼女はアキラたちのような「女の子のようなもの」ではない、れっきとした女子高生だ。この春に、クロガラスによる醍醐クマ襲撃事件に巻き込まれた彼女は、重傷を負ってしまった。その彼女を助けるために、クマが救命措置として『生命の水』を注射した存在である。そうすることによって一から人体を再生する『構築』ほどではないが、大きな傷を負った人間を助けることができる。
現在の彼女は、『生命の水』が注射されたことによる副作用として、膂力など人外の物かと思わせる力を出す事は出来た。が、それもいずれは新陳代謝と共に『生命の水』が体外へ排出されて失われて行き、最後は普通の人間に戻れるはずだ。
「そういう時は、ゴンさんにも行ってもらいましょう」
戸惑っているダイヤに微笑みかけ、クマはもう一人の使用人の名前をあげた。
ゴンさんというのは、クマのところで運転手をやっている男である。今日も、清隆学園高等部から、ここクマの東京での住まいまで、アキラたちをリムジンで送ってくれた。
黒いスーツを着て不愛想な態度であるが、その服装の上からも分かるほど鍛えられた肉体を持っており、ヒカル曰く「デキる男」らしい。
「ああ、彼ならば安心でしょう」
アキラが野生のトラのような印象を得た男の相貌を思い出していると、明実が安請け合いのような口調で太鼓判を押した。
「それでは、クロガラスとの次回会談が決まり次第、連絡を差し上げたいと思います」
もう一度、明実は頭を下げた。
「で、次の話題ですが」
その頭を上げた時には、慇懃無礼さが掻き消え、純粋に研究対象を前にした科学者の顔つきになっていた。
「オイラが預かった検体で、色々と試験させてもらいました」
明実が週末、研究室に籠り徹夜続きで研究していた『施術』の新展開というのは、クマからもたらされた物だったのだ。
不老不死を目指している『施術』であるが、いまのクマを見て分かる通り、老化を完全に止めることはまだできなかった。だが老いた体を捨て、新しく若々しい肉体を『構築』すれば、理論的には不老の存在と言える。
ただし体の『構築』には『儀式』が必要なため、自分一人では若返ることはできない。そのため『マスター』は、最低でも一人の『クリーチャー』を手元に置き、自分の体の『構築』を任せなくてはならなくなる。
クマもそうやって『構築』された『クリーチャー』の一人であった。ただクマの『マスター』は、五十年ほど前にクロガラスに殺されてしまったようである。
それから一人で生きてきたクマであるが、重なる齢に老衰が目立つようになり、このまま普通の人間と同じように死が迫っていた。
そんな時に明実が『施術』を成功させたのである。まだ成功率が低いために非公開であったが、どこからかその情報を得たクマが、彼に接触を求めてきたのは自然な事と言えよう。
明実はアキラに正対した。一瞬だけ何だろうと思ったが、自分が両手で抱えている荷物に用事があると思い立ったアキラは、それを明実に差し出した。
明実はアキラの腕の中でアタッシュケースの蓋を開き、中から紙束を取り出した。
「くわしいデータは、そちらが指定したアドレスへデータ送付した通りなんですが」
カラー写真を含めたレポートという感じの書類を、半分だけクマへと差し出す。どうやら同じ物を二部用意してきたらしい。
「そちらのウィルス対策を疑うわけではありませんが、最重要な部分はプリントアウトしてきました」
明実の声を聴きながら、ダイヤが中継してくれた紙束を、クマはパラパラとめくった。
「まあ、字が細かい」
「これでも大きめのフォントを選んだつもりなんですが」
クマが顔を上げただけで、できるメイドであるダイヤが、部屋の一面をしめる暖炉の上から眼鏡を持ってくる。その眼鏡ケースに並んで置いてあったのは、一見チェスの駒を模したデキャンタと思われる複数のガラス瓶であった。
そのどれにも自ら青く発光する液体が詰められている。
これこそが『生命の水』なのである。
「結果から申しますと」
自分も紙束をパラパラめくっていた明実は、カラー写真が複数掲載されたページで手を止めた。
「現在のオイラには、あなたの『再構築』は無理ですな」
「そんな!」
声を上げたのはクマではなく、ダイヤであった。
睨みつけてくる彼女の顔をチラリと見やってから、明実は言葉を続けた。
「いただいた検体に、オイラが開発した方の『生命の水』を注射すると、一時的に若返りました」
アタッシュケースを腕に乗せたまま、アキラは首を伸ばして明実の手元を覗こうとした。それに気が付いた明実が、親切にも書類を傾けて、アキラの視界に掲載された写真を入れてくれた。
学校の実験で使用するメスシリンダーのような容器が写されていた。容器全体が青く光っていることから、中に『生命の水』が入れられていることが、簡単に想像ついた。
その容器の丁度真ん中あたりに、比重の関係か、何かで支えているわけでも無いのに小さな肉塊が浮かんでいた。
円筒形の断面に、反対側には貝殻のような爪が見える。これはクマが検体として用意した自らの小指である。といっても、柔らかそうな布団の上に並べられたクマの指には欠損は一つも無い。そのトリックは簡単で、クマはある程度、身体部品を複製する技術を持っているのだ。
その技術を使えば、自分の体を直接使用しなくとも、こうして人体実験ができるという寸法だ。
一枚目の写真では、その肉塊は年相応の皺だらけで艶のない肌をしていた。
二枚目の写真では今のアキラと同じような瑞々しい張りのある物に変わっている。
しかし一時間後のキャプションがつけられた三枚目の写真では、形はそのままに全体が白くなっていた。
「写真の通り一時的には若返りました。が、一時間ほどで炭化を通り越して灰と言える状態になってしまった。おそらくあなたの『マスター』が生成した『生命の水』と、オイラの『生命の水』は、細かな成分が違うようだ」
「そんなんで、よく『クリーチャー』が作れたわね」
ダイヤの非難する声に、悪びれず左肩だけすくめた明実は、当たり前のように言った。
「まだ、こちらの成功率は四七パーセントだからな」
ダイヤはあんぐりと口を開けると、首を巡らせてアキラを見た。
「よく助かったわね、あなた」
「本当だよ」
アキラの顔に苦笑めいたものが浮かんだ。その横で両肩をすくめてみせるヒカル。
「そん時に死んでりゃ、めんどくさくなかったものを」
ヒカルが悪態をついている間も、明実の報告は続いていた。
「成分の何が違うかを、今は大学の各種クロマトグラフィーにて、分子単位で分析中です。秋には結果が出そろうでしょう」
「あき?」
ダイヤが素っ頓狂な声を上げる。その響きだけで「もっと早くならないのか」と言っていた。
「これでも新幹線並みの超特急で依頼しているのだが…」
堀の深い目元に皺を寄せる明実。
「まあまあ」
ちょっと陰のある微笑みでダイヤを諫めたクマは、明実にも同じ表情を向けた。
「わたしの身体が持つうちにお願いしますよ」
「それはもちろん」
再び腰を折って礼をした明実は、下からクマを見上げた。
「あなたには、まだまだ教えてもらうことがあるようですから」
小雨がダラダラと続いていた。
木製のベンチに腰掛けたアキラは、トタン屋根を流れていく雨の音を、憂鬱気に聞き流していた。
もう梅雨も本番である。
「ぼーっとしてんじゃねえ」
周囲の警戒のためだろうか、ベンチには座らずに立ったままのヒカルが、アキラへ発破を飛ばしてきた。
灰色の背景で、そこだけが黒く見えた。
ただし沈んだ色の黒ではない。命の輝きを感じさせる黒色である。
「本当に、おまえは黒色が似合うなあ」
アキラがしみじみとヒカルへ告げた。
「はあ?」
別にヒカルが黒い服を着ているというわけでは無い。今日も着崩してはいたが制服を身に着けていた。ただその制服は、月が替わって夏服になっていた。
清隆学園高等部では、女子は夏季制服として裏地の無いスカートにブラウス、そしてベストを着けることになってはいたが、暑い場合はベスト着用に拘らなくてもよいということになっていた。
ヒカルは紺色をしたベストを真面目に着ていたが、下に着ているブラウスの胸元は大きく開けていた。おかげで姿は「女の子のようなもの」であるが、中身が男の子であるアキラは、ちょっと目のやり場に困ったりした。
あと、ポケットの少ない夏服に対応するためか、小さな帆布製の手提げを肘に通している。中身は財布などであろうが、ヒカルのことだから物騒な物もしこんでいるのかもしれない。
そして相変わらず、プリーツスカートからはホルスター見え隠れしていた。
「ぼーっとしてんじゃねえって言ってんの」
わざわざ咥えていたキャンディを取り出すと、それでアキラを差してから同じことを繰り返した。それから何か思いついたような顔になって、休憩所の外に広がる雑木林の方へ向いてしまった。
「また天使とやらが襲ってきたらどうすんだ」
「とは言っても」
いつもと同じように制服に白衣姿の明実が、それでも周囲を見回しながら口を挟んできた。彼も白衣の下は流石に夏服になっている。
「最初の襲撃から、まったく出くわしもしておらんからのお」
「諦めた、とは虫のいい解釈かな?」
試しに言ってみたアキラの足を、再び口へキャンディを放り込んだヒカルが軽く蹴った。横に立つ明実が人差し指を立ててみせる。
「あのキューピットとやらがセンセの自作自演で、実は休戦も共闘もウソっていう可能性もあるな」
明実の言葉に、アキラの顔がみるみる青くなった。
「あんな空飛ぶ化け物まで作れるのかよ」
「可能性の話しだ」
明実が念を押す。とは言え、あの小競り合いがクロガラスの仕込みの可能性は低いとアキラは考えていた。
根拠の一つは、とある同級生にあった。
いつも信用の置けない笑顔しか見せないその人物は、アキラにはサトミとしか名乗っていなかった。
明実の紹介で四月に知り合った人物であるが、いまだにアキラには、サトミという存在をコレと特定できていなかった。それというのも現れる度に違う外見をしているからだ。
ある時はどこから見ても清隆学園高等部女子という制服姿、またある時は欧州の貴婦人といったドレス姿、しかしてその実体は?
いちおうアキラたちの協力者という態度を取っており、体育などでヒカルが持っている色々と危ない「オモチャ」を隠さなければならない時など、預かってくれたりした。
それだけならば単純に「味方」と判断してもいいかもしれないが、五月に敵対した事があったのだ。その経験があるので、いまいち信用のおけない存在であった。
そんな相手であるが、大抵の場合はこちらから出向いて色々な仕事を頼むことが多かった。が、先週の中ごろに珍しく向こうから訊ねてきたのだ。
その時のサトミは、校内だというのにライダースーツに薄手のジャケットを着た成人女性の姿をしていた。
どんな格好をしていようともこれだけは変わらない、いつも浮かべている微笑みを若干薄めると、ちょっとは真面目な声でこう切り出してきた。
「なんか不思議な事が起きると、教えてくれる人が友だちにいるのよ」と自分の交友関係を前置きしてから「天使っていう存在が地上に降りてきてるんですって」と教えてくれた。
研究者たるもの冷静に情報を分析するべしという態度の明実と、あまりサトミのことが気に入っていない様子のヒカルは、眉筋一本も動かすことは無かった。腹芸では一足も二足も遅れるアキラの顔には動揺が浮かんだらしい。それ以上は天使の話題をしてこなかったが、絵本に出てくる神出鬼没のネコのようなニヤニヤ笑いをサトミはしてみせた。
また別の日には、明実が総帥という立場についている科学部の事務局に、怪しげなお客さんもやってきた。
明実が、文献などを借りに何度も図書室に顔を出している内に知り合いになったらしい、図書室常連組の同級生男子、左右田優という少年だ。
この少年も個性溢れる常連組のメンバーふさわしいキャラクターをしている。黙って立っていればイケメンなのに、とにかく奇行が目立つ少年なのだ。いきなり大声を出して走り去るなんて彼にとっては普通の事で、酷い時など紐をつけた骨付きの鶏肉を、廊下で引き摺っていたりする。
個性は服装にも現れていて、紺色のブレザーが制服の清隆学園高等部において、黒い学ランで登校して来る。(とは言っても学ランの方も、いちおう制服として認定はされているのだが)
それもボタンを三つも外し、下に着た黒いワイシャツを見せ、襟もとに巻いたスカーフだけは真っ白だ。
能天気なアキラですら「風紀委員に掴まって、畳の部屋に入れられるんじゃないか」と心配になるほど自由な服装である。
もちろん、彼への女子からの評価は、最低ランクである。
一癖どころか灰汁が強すぎる、そんな同級生がフラリといった態度で現れると、三人それぞれに、ズイッと顔をミリ単位になるほど近づけてきた。
「うひゃあ」
アキラとヒカルの二人が、新手の痴漢かセクハラかという行為に飛び退っていると、唯一逃げなかった明実に、まるで念仏を唱えるような口調でこう訊いたのだ。
「なにしたの、キミたち」
「何をとは、どういう意味だんべ?」
明実に変な方言のような返しでとぼけられると、太陽光をあまり浴びていなさそうな白い顔がヒクついた。
「天から輝く存在が降りてくると、地を這う虫は眩しさに身を捩るのだ」
意味のよくわからぬことを、まるで呟くように言い捨てるとフイッと顔をそらして、そのまま出て行ってしまった。
彼も天使が地上に降りてきていることを知らせに来てくれたのだろう…、たぶん。
そんな最近の出来事を思い出していたアキラだが、ヒカルが口腔内で転がすキャンディの音で我に返った。ボーッとしていたと思われたら、ヒカルにまた蹴り飛ばされてしまう。
「宙に浮かぶ生き物なんて、いたか?」
ベンチの背もたれに身を預けて、立ったままの明実に訊いた。
しばらく腕組みをして考えていた明実は、一本だけ指を立てる。アキラは彼の額の辺りに電球が灯る幻覚を見た。
「おるぞ、一種類だけ」
「ホントか?」
「気球に乗った人間」
「トンチじゃないんだからさあ」
幼馴染のいつもの調子に、脱力感に包まれるアキラ。
「まあ、なんにしろ。最後はあたしがぶち殺すだけだがな」
ニヤリと嗤ったヒカルが、左に提げた黒い自動拳銃を抜いて見せた。自慢げにキャンディの柄がピコピコと上下に揺れていた。
「そうすぐ抜くなよ」
眉を顰めたアキラが注意すると、面倒くさそうにヒカルは顔をしかめた。
「あたしら以外にこんな場所に誰も来ねえって」
「まあ、そうではあるな」
ヒカルの意見に明実も賛成する。
「しっかし、広いガッコだなあ」
銃をしまいながらヒカルは呆れた声を漏らした。
いま三人が居るのは、学園の北端にあたる休憩所である。簡単に言うと、高等部と中等部の境目となる場所だ。東にのびている渡り廊下を行けば、高等部学生寮を経由して高等部校舎に、南にのびている渡り廊下を行けば、いまは使用されていない中等部の旧校舎へと辿り着く。だが視界には、その渡り廊下と休憩所以外に人工物は目に入らなかった。
武蔵野の良き時代のままの風景だが、ちゃんと学園の敷地内である。
ベンチの背中側には雑木林が広がっており、反対側は雑草が生い茂る丘がある。その丘で見ることはできないが、さらに向こうには敷地の形に沿って巡っている管理用道路があるはずだ。
なにせここは大昔に戦闘機の基地だったという歴史があるぐらいだ。敷地は当時の滑走路を含めてそうとう広い。アキラは実際に見た事はないが、大学の方では好事家たちが当時の遺構を掘り返し、見つけた部品で零式艦上戦闘機だか四式戦闘機だかをレストアしているらしい。
ベンチからは、こんな小雨の降る視界でも、管理用道路に沿って植えられた杉の先端がかろうじて視界に入る。その方向に向かって、休憩所から雑草を掻き分けて作った筋のような獣道のような物がのびていた。
いま傘を差した人物がそこを通って、こちらへ歩いて来るのが見えた。
黒いのと赤いのと一つずつ。それを認めたアキラは二人に訊いた。
「あれじゃないか?」
「ふむ。時間には正確だな」
三人が注目しているのに気が付いたのか、軽く傘を振って合図をしてくる。
片方は、この距離でもそれが黒いスーツを身に着けた成人男性という事が分かった。彼が醍醐クマの代理人という肩書の男である。本名は教えられていないので知らないが、クマからは「ゴンさん」と呼ばれていた。
もう片方の赤い傘を差しているのは、彼よりもずっと小さいシルエットをしている。
遠目でも線の細さから女性という事が分かる。スカートではなくピッタリとしたパンツルックであった。
傘を持つ手とは反対側には何か持っているようで、動きがぎこちなかった。
「こちらは揃ったようだな」
「まあ、なんにせよ」
明実の呟きにヒカルが反応した。
「味方が増えるのはいいことだ」
見る間にきびきびとした足運びで二人は休憩所までやってきた。
黒スーツが、チラリと袖元の腕時計を確認する姿が板についていた。
もちろん巻いているのはそこら辺で投げ売りしているような安物ではない。アポロ計画で月に行った宇宙飛行士が使っていた物と同じブランドであった。
「間に合いましたようで」
とても響くバリトンボイスで、挨拶代わりに訊いてきた。
余分な皺の無い黒い上下に、整った面差し。若い頃はモテたのであろうという中年男性である。もちろん髪にも一筋の乱れは無かった。
身長は欧州の血が入っている明実ほどある。そして若いのに研究所に籠りがちな明実とは違って、がっしりとした肩幅に厚い胸板を持っており、それなりに鍛えているのだろうと思わせる体つきであった。
「五分近くまだあるでよ」
こちらは懐から出した自作の「象が踏んでも壊れない」スマートフォンで時刻を秒単位で確認した明実は、いつもの調子を崩していなかった。
「お待たせしました」
傘を畳みつつ丁寧に頭を下げたのは、年の頃はアキラと同じくらいの少女であった。
見慣れない少女であるが、すでに知り合いではある。
お屋敷でのギンガムチェックのメイド服からは連想しにくいが、大岩輝である。
傘を折り畳んだ二人は、ソレを腰の高さまでしかない休憩室の壁へ寄りかけた。
「アキザネが遅刻じゃないって言えば、それは遅刻じゃないよ」
失礼してはいけないとベンチから立ったアキラが、同年代という気安さで声をかけると、ダイヤがホッとした顔を見せる。
私服の彼女を見るのはまだ二回目である。前回はドタバタ騒ぎがあったので、話すことが無かったので、実質今日が初めてと言って間違いない。
ジロジロとアキラに見られた気がしたダイヤがその理由を聞いて来た。
「えっと、どこか変ですか?」
「え、あ、いいや。ほら、そういう格好は初めてだから」
今日の彼女は、お屋敷で身に着けているメイド服ではなく、大きな英字ロゴが入ったトレーナーに、ジーパンというファッションであった。
こうして歳相応の格好をしていると、なかなか見栄えの良い女の子である。快活そうな愛くるしい瞳に、ちょっとだけ鼻のまわりに散らばったソバカスがアクセント。愛嬌のある微笑みが似合う唇には、薄くリップが塗られていた。長い黒髪は後ろで束ねており、彼女の若鹿のような肢体を強調していた。
彼女は居合道を嗜んでいるせいか適度に鍛えられた体をしていた。かといって隣に立つ黒スーツのように筋肉だけという体でもない。服の上からでも分かる程度に、しなやかなラインをしていた。
動作をぎこちなく見せていたのは、肘から提げたバッグであった。おそらくヒカルの物と同じように身の回りの物が入れてあるのだろう。
「改めて、はじめまして」
「こ、こちらこそ」
ちょっと驚いた顔で会釈してくれる。
「?」
横のヒカルが何か言いたそうにジッと彼女の胸のあたりを見つめていた。口の中で転がすキャンディが、歯に当たる音がした。
「どうした?」
「いや…、なんでも」
アキラに声をかけられて、我に返ったように首を振ってみせる。
「?」
そんな態度に、アキラとダイヤは顔をみあわせた。
「今日は連れて来んかったか?」
明実が残念そうにダイヤに訊いた。
「つれて? ああコクリ丸のこと」
明実の質問にこたえるように、ダイヤが彼を振り返った。
「あのコ、本当は奥さまのコだもの」
コクリ丸というのは、最初にダイヤと会った時に連れていた、一見して雑種の子犬である。
だが『クリーチャー』であるクマの飼い犬が、ただの犬であるわけがない。
心霊兵器コクリ丸として、その犬は武器になるのだ。ただ、その技術は『施術』とは関係ない物らしく、いまだ明実には解明されていないのだ。
そんな不思議兵器を、治療のためとはいえ『生命の水』を注射されたダイヤが握ると、鉄をも両断する威力を見せる。その彼女が味方になるのだから、こんなに心強いことはなかった。
「ふむ」
明実が珍しく感情的な響きを持つ声を漏らした。ただしコクリ丸と出会うことが出来ずに残念がるというより、研究所で解析したいという欲求から出た様にも思えた。
「で、警戒はした方がいい?」
長い髪を揺らしたダイヤが、腕を組んで難しい顔をしている明実に訊いた。
「最大限に」
「まあ楽にしたまえ」
明実とヒカルの声が重なり、ダイヤが目を丸くする。一瞬だけ早かったヒカルが、とてもつまらなそうに胸を張った。
「相手はクロガラスだ。いつ襲い掛かって来るか、知れたもんじゃねえ」
「いちおう休戦協定中の相手だ。武器を構えるなど交渉の障害になりかねない」
つっかかってくるヒカルに、まるで教師のような口調で明実が告げた。ヒカルも頭のどこかではそれも一理あると思っているのか、特に反論はしなかった。
ただキャンディの柄だけが揺れて、ヒカルの主張を示していた。
「だが、しかし」
困ったように明実は、黒スーツに振り返った。
「彼女もこちらに来てしまうと、夫人の身の回りが手薄になってしまったのではないか?」
明実は戦力がこちらに集中している間に、クロガラスがクマのことを襲う可能性を気にしているようだ。
「こちらから屋敷も近い事ですし」
返事はとても冷静な声だった。
「我々だけがお仕えする者でもありません」
「ふ~ん」
(まさか、あの子犬が守っているから大丈夫ってことじゃ…。いや、まだ隠し玉はあるってことか)
彼から漂う余裕とも見える雰囲気にアキラはそう考えた。
「そうか」
同じ事を考えたのか、明実はうなずき、そして再びダイヤの方へと向いた。
「で? そちらは大丈夫なのか?」
「?」
なにを訊ねられているか分からないとダイヤの顔がキョトンとする。その様子を見た明実は、なにか思いつくことがあったのか、何回か頷いた。
「大丈夫ならそれでいい」
「おあつまりのようね」
六人目の声が休憩所に響いた。
さっと顔を強張らせたヒカルの手がホルスターに伸び、先程までの愛想を無表情へ変えたダイヤが、肘のバッグへ右手を突っ込んだ。
その代わりと言ってはなんだが、いつもの調子のままの明実とアキラは(まあ多少は緊張した表情を作っていたが)のんびりと雑木林の方に顔を向けた。
木立の間をぬって、黒いレディススーツ姿のクロガラスが現れたところだ。
オシャレに気を使っているのか、最初に会った時とは違うデザインをしたジャケットに、薄いピンク色をした男物のシャツを身に着けていた。初日がパンツルックだったのに、今日はスカート姿である。
しかし明るい色をファッションに取り入れている割に、振り続けている小雨のせいか、林の木陰が固まって現れた幽鬼のように見えた。
同系色を連想させるヒカルとは、まったく逆の印象であった。
積もった落ち葉をカサカサ言わせて、ろくに壁も設置されていない休憩所へと入って来る。傘も差さずにやってきたらしく、髪にも服にも丸い水滴が乗っていた。
ほぼ正方形である休憩所で、最大限とれる距離をもって、相対した。
「いやあねえ。なんか目の敵にされているみたい」
あからさまに警戒する顔のヒカルとダイヤを見て、クラスのイジメの現場を見つけてしまった女教師のような態度でクロガラスが言った。まあ半分は本当なのだが。
「改めて、こんにちは。御門くん、海城くん…、そして新命さん」
一人ずつに顔を向けて挨拶してくれる。ただヒカルに挨拶する時は、ちょっと含み笑いになっていた。
その態度にヒカルの不機嫌メーターの数値が上がるのを、アキラは幻視した。春からの付き合いで、ヒカルの咥えたキャンディの柄がどれだけ揺れているかで察する事ができるようになってしまっていた。
警戒を解かない相手に、クロガラスはわざとらしく頬を膨らませてみせた。
「とりあえず、天使を倒すまでは共闘しようって話だったでしょ」
「こちらには、まだ正式にお話が来ていませんので」
クロガラスと目線をあわせようというのか、黒スーツが少し屈んで言った。
「ええと、たしか」ポケットから花柄のハンカチを取り出し、肩のあたりに残る水滴を払いながらクロガラスは目を細めた。
「春にお世話になった殿方によく似ていらっしゃるようだけど?」
「その節は」
彼が真面目に頭を下げた。
「ふ~ん、そういうこと」
値踏みをするように二人を見ると、踵を使って明実に振り向いた。
「醍醐クマとも共闘関係にあったわけね」
軽蔑するでもなく、ただ事実を確認するように明実へ問うた。
「まあ、醍醐夫人からは興味深い技術供与の話しがありましてね」
明実の言い訳のようなセリフにちょっとだけ目を細めたクロガラスは、双方の協力体制を見抜いたようだ。
「誰も皺くちゃになって死ぬのは嫌だもんね。わかったわ、そちらが矛を収めるならば、そちらとも休戦しましょう。共闘関係となるのに、こちらに異論はないわ」
小さなハンカチで長い髪の全てを拭うことは諦めているのか、まるで温泉に入るオッサンが手拭いでやるように、畳んで頭の上乗せたクロガラスは腕組みをした。
「こちらの男性がゴンさん。女性が大岩輝さん」
明実が簡単に紹介する。
「よろしくね」
「こちらこそよろしくお願いします。我々は、主人の安全が第一と考えております。それさえ納得していただければ、こちらも休戦、共闘に異論はございません」
「それで天使を倒した直後から敵になる、と?」
「ええ」
挑発するような物言いに、彼は少しも揺らがなかった。
「天使を倒すまでが休戦の約束であれば、そうなるかと。ブラッククロウ…、失礼しました、いまは松山さまと名乗られているそうで…、松山さまは、我が主人の大事だった方の『死』に関係するということなので」
弩級戦艦の舷側装甲並みの慇懃無礼さに、クロガラスの頬が若干引きつった。
「まてまて」
そんな大人同士が繰り広げる見えない刃での戦いに、アキラがのんびりとした様子で口を挟んだ。
「先生は、あと一人連れて来るんじゃなかったのかよ」
「そのはずなんだけど、わたしは授業があったから別行動だったのよね」
左手首に巻いた細身の腕時計を確認するクロガラス。その困ったように顰められた眉は、どうやら演技ではないようだ。
「場所が分からないのか、来る気が失せたか、それとも…」
「そいつも関係者なのかよ」
ヒカルの声からは警戒が解けていない事が丸わかりであった。
「別の『マスター』?」
アキラはちょっと好奇心が強めの声になった。
「う~ん」
なんと答えていいか分からない顔でクロガラスが口を開いた。
「実物を見てもらうのが確かなんだけど」
「?」
ダイヤが黒スーツへ視線を送る。その意味するところを正確に把握したのか、彼は頭を横に振った。
「ところで…」
身長差からちょっと屈んで、クロガラスはダイヤの表情を覗き込むようにした。
「あなたは、この学校の生徒ではないわね」
「えっ。ま、まあ」
一瞬だけ肯定していいのか迷ったが、彼の表情がまったく変わらないのを見て取ると、ダイヤは慌てて首を縦に振った。
「そうよね」
安心したようにクロガラスは言った。
「この学校の生徒は優秀だものね。先生、やりがいが無いわあ」
「?」
クロガラスが何を言っているのか分からず、きょとんとするダイヤ。
「それと…」
まるでネコがネズミを見つけたような笑顔になったクロガラスは、再度彼女の顔を覗きこんだ。
「純粋な『クリーチャー』でもないわね」
さすがに『施術』のエキスパートといったところか。見ただけでダイヤの状態が分かった様である。
「危険な事をするわねえ、醍醐クマも」
少し嘲るような響きを混ぜたクロガラスは、チラリと黒スーツの方へ視線をやった。
「そもそもあんな場所で、松山さまが大立ち回りなど演じられなければ、彼女が大怪我を負うこともございませんでした」
最初の挨拶からまったく声色が揺るいでいなかった。
「大立ち回り?」
思いつくことがなかったのか、クロガラスはキョトンとしてみせた。実際の年齢は不詳だが、そういった表情をしても良く似合う面差しである。正体さえ知らなければ見とれてしまう事だろう。
「春の事でございます」
「ああ、アレね」
ニヤリと不敵に笑うと、腰に手をやってポーズをつけてみせた。
「あの程度で『大立ち回り』なんて、日本は平和ねえ」
(何があったんだろう?)
興味が湧いたアキラであったが、まさか聞くわけにもいかず、代わりに明実の顔を見上げた。彼も詳細は知らないようで、五ミリだけ横に頭を振った。
「で? ガールのお名前はなんだっけ?」
クロガラスの再確認に、顎を引いてこたえた。
「ダイヤです。大岩輝」
「ダイヤちゃんね。まあ、あなたなら大丈夫か」
「大丈夫?」
ダイヤが小首を傾げると、クロガラスは小さく肩を竦めた。
「天使はね、周囲にいる人間を金縛りにすることができるのよ」
「ああ、それでか」
明実が納得した声を漏らした。
何を言っているのだろうと視線が集まる中、明実はアキラに向かって人差し指を立てた。
「いまの世の中、民間の軍事会社なんていう物がいくらでもある。また、そんな大げさな組織では無くても、身辺護衛を引き受けてくれるところは、けっこう一杯ある。大は警備会社から、小は探偵事務所などだ。大きい話をすれば、政治家を不老不死の方法があると言って騙し、一国の軍隊を動かすことだってできるはずだ。しかし、彼女はそうしようとする素振りが無かったのが不思議でな。だが、そういったところに頼んでも、兵隊が金縛りで動けなくなるんでは、何人いてもカカシと同じだ」
「ああ、なるほど」
ポンと手を打つアキラを置いておき、明実はクロガラスに向き直った。
「すでに一回は試したようだし」
「軍隊なんて、ホント役立たずよね」
肩を竦めて見せるクロガラス。
「よくても囮役。悪いと、それすらも果たせないんだから」
「それは武器…、軍隊が使用するような火器を含む攻撃が利かなかったと思っていいのかな?」
「野砲大隊の制圧射撃だって、天使にはそよ風みたいな物よ」
何事か忌々しいことを思い出したのか、少し苛立った声を出してクロガラスが長い亜麻色の髪を払った。
「やほう?」
「大砲のことだ」
アキラの質問に、明実が即座にこたえた。
「では、どんな攻撃が天使には効くというのだ?」
「見てたでしょ?」
意地悪そうに微笑むクロガラス。それに対して明実は空中で頬杖をついて目を閉じた。
「なるほどね」
「どういうことだ?」
一人納得してしまった明実に、アキラは訊いた。
「この前の教室での戦いを思い出してみろ、アキラ」
「?」
「はあ、こいつにそんな訊き方してピントのあった答えが返って来るのかねえ」
ボーッと口を半開きにして宙を見上げるアキラの横で、ヒカルがバリバリと頭を掻いた。
「バンバン撃って、ドカッと殴ってた」
「そういうことだ」
アキラの擬音だらけの返答に、明実が即答した。
「?」
「ああ、イライラする!」
それでも分かっていない様子のアキラの尻を、とうとうヒカルが蹴り上げた。脇のダイヤが驚いて目を丸くしていた。
「いてえ」
「もう一回言ってみろ」
ヒカルがキャンディの柄をピコピコ揺らしながら腕組みをした。
「? いてえ?」
「ちげーよ、もっと前だよ!」
「?」
蹴られてコケていたアキラは、尻を撫でながらまっすぐ立つと、ヒカルの真似をするように腕を組んだ。
「…おぎゃあ?」
「どこまで遡ってんだよ!」
「じょ、じょうだんだよ!」
さすがに黒い銃口を向けられて、慌ててアキラはバンザイするようにホールドアップした。視界の隅でダイヤが笑いをこらえているのが気に障った。
「バンバン撃って、ドカッと殴った。バンバンドカッ、そうだよな」
「そうだ」
引き金を絞れなかったのを名残惜しそうに、ヒカルは銃をホルスターへ戻した。
「銃弾がイコノスタシスとやらに食い込んでいる間だけは、警棒やキックが効いてたろ」
「あー」
「正確には、顔面周辺のイコノスタシスに銃弾が食い込んでいる間、薙ぐ攻撃だけが通じるの」
アキラが手を打っている間に、クロガラスが正解を発表した。
言われてみればクロガラスは、天使の顔を狙って射撃し、その後に殴ったり蹴ったりしていた。
「だからか?」
再び腕組みをしたヒカルが試すように訊いた。
「トレーネが銃と剣を同時に使っていたのは?」
「まあね」
ちょっと肩をすくめたクロガラスが、かわいらしく舌を出した。
「銃剣をつけたライフルでもいいんだけど、日本じゃ弾の調達が大変で」
「顔を狙うのは、どんな口径でもいいのか?」
「いちおう九ミリパラ以上ってトコかしら。二二ロングライフルなんかの豆鉄砲だとダメね。一回だけマグナム弾を撃ち込んだことがあるけど、結果は同じだったから、使いやすさで選んだ方が得という事ね」
「さらに大口径はどうなのだ?」
横から明実が口を挟んだ。
「大口径?」
「火砲の徹甲弾は試したことはないのか」
「ないわね」
肩を竦めたクロガラスは頭を振った。
「さっき言った野砲の効力射だって榴弾だものね。だいたいそんな人間大の物に直撃させる精密射撃ができるようになったのって、最近の事じゃない?」
「成形炸薬弾も同じか?」
「なんか相手が戦車みたいな話になってきたわね」
クロガラスは苦笑さえ浮かべた。
「それも試したことないわね。でも爆轟って一種のプラズマでしょ? 神の火が天使に効くとは思えないけど」
「?」
アキラがキョトンとしたので、明実の顔にも苦笑が浮かんだ。
「太陽は、そのもの全体がプラズマの塊なんだ。だいたいどの宗教でも、神というものは太陽に住んでいる者とされていたりするだろ? そのような連中にプラズマがダメージを与えることができるとなると、整合性が取れぬではないか」
「あー」
奇跡を起こし放題のはずの神だ仏だという割に、理屈の整合性があるのかと変な気持ちになりながらアキラが無理やり納得していると、その顔を見ながらクロガラスがクスクス笑い始めた。
「あら、かわいい」
「ど、ども」
どうやら褒められたようなので、礼だけは返しておく。
「剣の方はどうなんだよ」
もともといがらっぽいような声色を、さらに荒らしてヒカルが訊ねた。その質問に、ダイヤも興味あるのか、ちょっと前のめりになる。
「真剣じゃないとダメ…、でもないのか」
自分で喋っている内に、先日の交戦でクロガラスは特殊警棒を使用していたことを思い出したのだろう、ヒカルの声が失速した。
「切った感触からすれば…」
今度はヒカルの様子を観察しながらクロガラスは人差し指を立てた。
「イコノスタシスさえ抜けてしまえば、普通の人間と同じね。切ったり殴ったり、普通にダメージが通るみたい」
クロガラスは意地悪そうな微笑みに表情を固定すると、身長差から上から覆いかぶさるように上体を傾けてきた。
離れて立っているはずなのに、アキラは後さじってしまった。
「なによ。取って食おうってわけじゃあるまいし」
「アキラをからかうのは止めてもらいたいもんだな」
完全に怒った声でヒカルが二人の間に入った。
「あら、いいじゃない。しばらく仲間なんだし」
わざとらしくシャツの胸元を弄ったりして、ヒカルとは違う大人の色気をアキラに当てるクロガラス。頬を染めるアキラを見て、ヒカルが「う~っ」と唸り声を上げた。
「仲間になんかなった覚えはないね」
堂々と胸を張ってヒカルは言い返した。
「いちおう共闘する間柄だが、仲間じゃねえ」
「そんな唸らないでよ」
クロガラスは謝っているつもりか、上体を戻してウインクを飛ばしてみせた。
「ワンコロじゃあるまいし、唸ってなんかねえ」
そういうヒカルの声は、まさに唸り声になっていた。
「さっそく仲間割れ? そんなことだと生き残るのは難しくなるわよ」
「どうしたのかな?」
腕を組んで人外の者たちの会話を聞いていた明実が、その腕を解いて視線をずらした。
「?」
その目の動きを追うように、休憩室に居た全員の視線がダイヤへ集まった。
途中から会話に参加していなかった彼女は、渡り廊下の先へと顔を向けていた。
釣られるように明実が目を向けたのは、中等部旧校舎へと続く南方向である。そちらは雑木林の間を抜けるため元々陽光が入りづらい。さらに悪天候もあり、まるで夜のように暗くなっていた。
「えっと…」
自分でも説明できない様子でダイヤが口ごもっていると、暗い奥から一匹の動物が走って来た。
「ネコ?」
最初に気が付いたのは、アキラであった。
もう使用されていないためか、打ちっぱなしのコンクリートには落ち葉が積もり始めていた。それを自身の巻き起こす風で掃き散らしながらやってくる。
「ノラネ…、じゃない」
言葉の途中で声がひっくり返る。そのネコと思われた小型獣は、まったく別の生物だったのだ。
毛並みのいいキジネコに見えた。しかし、その背中には一部体毛が生えておらず、代わりに存在する物がある。
「みみ?」
「また趣味の悪い」
明実ですら眉を顰めた声を上げる。そのネコの背中よりのところに、人間の耳と思われる物体が、縦方向にくっついているのだ。
「この程度で趣味が悪いなんて、まだまだね」
クロガラスも呆れ声で注意した。
「!?」
そのネコがチョコンとお座りした時点で、休憩室の誰もが息を呑んだ。
腹に人間の顔と思われる物が貼りつけてあったからだ。
一見、よくできたマスクかなにかをイタズラして貼り付けたようにも見えた。しかし開いた瞼の中で瞳がギョロリと動き、注目している一同を確認すると、はっきりと唇を歪めたのだ。
「ゲロゲロ。なんじゃこりゃ」
さすがにヒカルが銃を抜いても、アキラは止める気が起きなかった。
「ネコの腹に人間の顔が移植されているのか。カオネコといったところか、それともネコカオか? いずれにしろ趣味の悪い合成生物だの」
明実が感心したような声を漏らした。言われてみれば背中の耳も、こうして腹を正面から見ると丁度いい位置にくる向きに生えていた。
「あら、アスカじゃない」
クロガラスがネコに張りついた顔に見覚えがあったのか、最低な雰囲気の中で明るい声を上げた。
「なー」
顔の方に発声機能は備わっていないのか、本体のネコの方が声を上げた。
「どうしたの、あなた。こんなに小さくなっちゃって」
嘲るような響きを声に混ぜてクロガラスが訊ねると、そのキメラは来た道を戻ろうとした。
「あれが五人目?」
恐る恐るアキラが訊くと、ヒカルがバカにしたように答えた。
「ちげーだろ。自分のパーツを移植して作った手下といったところか」
たしかに腹に貼られた顔の中で動いた瞳には、青い炎のような光があった。
「あんなことできるのか?」
今度は明実に訊く。彼は顎に手を当てて首を捻っていた。
「オイラにとって未知の技術であるな」
「あら、怒ったの?」
行ってしまおうとする小さな背中にクロガラスが声をかけると、キメラはネコの方の顔で振り返った。
「なー」
そちらの目の方にも青い光はあった。キメラは尻尾を振ったまま、立ち去るのでもなく、休憩室にいる者たちを眺める。その様子を見て、アキラが恐る恐る口を開いた。
「なんか、ついて来いって言ってるみたい」
「そうだな」
アキラの意見へ真っ先に賛成したのは明実だった。
「どうやら最後の一人は、別の所で待っているようだの」
「ついてってみるか」
「罠の可能性もあるが…」そこでクロガラスを見てから明実は楽観的に言った。「その可能性は低いな」
どうやら背中の耳は機能しているようだ。二人の会話を聞いてキメラが、渡り廊下をトトトと走り出した。
見えなくなる前に立ち止まって振り返って見せる。
「なんか急いでるみたい」
最初に接近する気配に気が付いていたダイヤが、キメラの様子を見て言った。
「ついていくか」
アキラは決心したように走り出した。それを予想していたタイミングで明実も後に続いた。
「バカ。罠だったら…、しょうがねえな」
一瞬だけ文句を言おうとしたヒカルが、肘の手提げを抱えるようにしてから後に続いた。それを、傘に手を伸ばしていた分だけ遅れたダイヤが追いかけ、彼女の背中を守るように黒スーツが続いた。
「ヤダ。このカッコ、走りづらいのよねえ」
ブツブツ文句を言いながら、最後尾にクロガラスがついた。
小雨の音すら吸い込んでいく雑木林の薄暗さ。その中を、奇妙な小型獣の背中を追って走る六人の男女。もし目撃者がいても、悪い白昼夢と思ったかもしれない。
「どこまで行くんだ?」
「中等部の旧校舎でないのか?」
揺れる尻尾に訊ねるように、アキラが呟くと、はやくも息が上がり始めている明実が反応した。
「それだと大分あるじゃ…、まて」
先導するキメラを無視するように、アキラが急ブレーキをかけた。肉体労働派より頭脳労働派な明実が、膝に手をついて横に停まる。
「どうした」
「なにか聞こえないか?」
「そうか?」
「なんだマラソンはお終いか?」
追いついたヒカルが、からかうように訊いてくる。それをアキラは手で制した。
「?」
「なんか音がしないか?」
「そんなものは…」
否定しようとしたヒカルの目が丸くなった。たしかにアキラが言うように、連続した金属音がどこかから聞こえてくる。
「もう、おしまい?」
息を乱さずに醍醐クマの付き人たちが追いついた。
「いや、音が」
アキラが渡り廊下の先を指差して説明しようとした。
「たしかに、戦闘騒音のような気がいたします」
運転手だけでなくボディガードも兼ねているらしい黒スーツが、丁寧かつ確実な声でアキラの先回りをした。
「なによもう」
そこで追いついたクロガラスが不満たらたらという声を出した。
「こんなことならパンツで来ればよかった」
「それよりセンセ」
アキラが強い口調でクロガラスを振り返った。
「あの探知機は持ってる?」
「もちろんよ」
若い男である明実が、もう肩で息をしているのに、少しも乱れたところなど見られないクロガラスが、懐からあのスノードームっぽいものを取り出した。
「!」
アキラが案じていたように、その中に立つヤジロベエが激しく前方に反応していた。
「なんなのコレ?」
天使探知機を知らないダイヤが訝し気な声を上げた。
「センセによると、コレで天使の居場所が分かるらしい」
明実が、やっと整った息で彼女に説明した。
「…ということは」
目を丸くして彼の顔を見つめかえすダイヤ。
「そういうことだ」
ヒカルが太腿から銃を抜いた。
暗闇の中で赤い火花が散った。
木立の下で二つに分かれた影が、間合いを大きく取って対峙する。
一方は、はっきりと大人の女性と思われる姿。そしてもう一方は、事情を知らなければ信じられないような姿をしていた。
赤ん坊のような容姿に、ゆったりとした白い布を巻き付けた存在。それだけならば町でも普通で見ることができようが、ソレが小さな羽を使って宙に浮いているとすれば話しは別だ。
古くから多くの絵画に描かれ、またある時はピンの先で何人踊れるか議論された存在。
まさしく天使と呼ばれる姿をしていた。
アキラたちが空き教室で戦った存在、キューピットと呼ばれる小さな天使だ。
こんな小雨が続く中、不思議にもキューピットの衣も体も、サラサラな髪すら濡れている様子はなかった。
対する女性の方は、町を歩いていたら異性どころか同性にすら振り返られるような、そんな美人であった。
深い緑色をしたポンチョのフードを被っているため、髪の長さまでは分からないが、軽く脱色しているような栗色だ。
中性的な魅力で売っている女優のような面差しは、相手を小馬鹿にしているように、少しだけ歪められているのだが、それが逆に美しさを増やすことになっていた。
上半身を覆い隠すポンチョからのびた腕は、薄手でゆったりとした生地に包まれていた。そうでいない箇所は、まるでゆで卵のように白い肌に薄く青い血管が浮いていた。もちろんムダ毛の類なんて存在しない。
ポンチョに隠された上半身とは対照的な下半身は、とても細いデニムパンツを選んでいた。それが彼女のスレンダーな体を充分に表現していた。足元は、軽快なファッションにあわせてスニーカーである。
相応に化粧を施しているのだが、素を活かすとても薄い物で、彼女を年齢不詳に見せていた。
その美しい面差しの中で、もっとも特徴的なのは瞳であった。
ヒスイのような色合いをした大きな虹彩に、ホクロが一つだけ墨を垂らしたように存在している。そして強い意志を感じさせる眼力の中心に、青い炎が踊っていた。
結局、活動的なファッションとその美しさで「近所の快活なおねえさん」という言葉を連想させる以外、まったくの正体不明な人物であった。
地に足を着けて立つ皮肉めいた微笑みを浮かべるおねえさんと、見た目は赤ん坊で無邪気な微笑みを浮かべている宙に浮くキューピット。
同じ微笑みながら、こうも違う物があるのかと思わせる対峙であった。
「キャハ?」
まるであどけない幼児のような声を上げるキューピット。それにこたえるわけでは無いだろうが、おねえさんが唇を尖らせると、自分の前髪へ息を吹きかけて、空中に踊らせた。
「困ったな。こんなところでクピドと出くわすなんて」
愚痴のようなセリフだが、あくまでも明るい口調を崩していなかった。その続きは口に出さずに考えていた。
(でも、あの娘が言うように、天使の降臨は本当だったみたいね)
突き出されたおねえさんの右手には、鉄の棒が握られていた。
専門用語では「異形棒鋼」と呼ばれるその棒は、巷では「鉄筋」と呼ばれる鋼材である。一般的には鉄筋コンクリート構造をした建築物に、骨組みとして使用される物だ。
いちおう武器として用意された物なのか、片方の端をグラインダーか何かで尖らせてあった。ただ見るからに武器としては頼りなかった。
(助けに来るまで、間に合うかどうか…。それとも助けなんて来ないのかな)
刺さればそれなりに痛そうな先端を、無邪気な笑顔に見える表情を見せる相手へ、ピタリと揺らさずに向けていた。
「キャハハ」
その武器が自分に通用しない事が分かっているのか、キューピットの方はまたあどけない笑い声を上げる。
「ふん!」
周囲に力のこもった排気の音が届くと同時に、キューピットの眼前で鉄筋の先端が静止した。
「キャハ」
人間のまばたき程度の時間で、双方の距離をゼロにした相手を嘲るように、笑い声をキューピットは上げた。
キューピットの方も武器を握っていた。
そのモミジのような手に握られていたのは、銀色をした十字架のような武器であった。刺突に特化した短剣で、スティレットと呼ばれるものだ。
それを両手に持ったキューピットは、銀色にも見えるサラサラヘヤーを揺らすと、猛然と突きを繰り出した。
一度だけではない。まるで横殴りの雨のような勢いである。
それをおねえさんは鉄筋で弾いた。金属同士がぶつかるギインという耳障りの悪い音が上がる。そのまま、まるで行進曲のドラムロールのような勢いで、周囲へその騒音と、火花をまき散らした。
しかしキューピットが持つのは二本、おねえさんは右手の一本である。
弾ききれなかった何度かの刺突が、肩口や二の腕を覆う布地を切り裂いた。
「キャハ!」
とどめという意味か、一声上げたキューピットの一撃が、ポンチョのフードに突き刺さった。
それを本当の意味で、おねえさんは間一髪首を傾けて避けた。切り裂かれたフードが刺突の起こした風で捲れ、隠れていたショートカットのシャギーが小雨の中に舞った。
つうっと刃先が掠ったコメカミから一筋の血が流れていた。
カウンターに突き出した鉄筋の先端は、やはりキューピットの眼前で見えない何かに阻まれていた。
「キャハハ」
刃のある剣ならば、そのまま横に薙げば致命傷になったかもしれないが、杭のようなスティレットではそうもいかず、キューピットは反対側の突きを繰り出しつつ外れた攻撃を引いた。
こんどこそは眉間にスティレット突き立つと思った時に、おねえさんは大きく飛び退ってその攻撃を避けた。
逃亡は許さないとばかりに、キューピットが前に出て次の攻撃を繰り出した。
とどめの一撃を狙ったらしい、体ごとぶつかっていくような攻撃である。それが顔に突き立つ寸前に、おねえさんの体が横にずれた。
外された鋭い尖端が、ガッという音を立てて何かに突き立った。
「キャハ」
悔しそうな笑い声。さらに追撃しようとして、いま繰り出したスティレットを引こうとした。
「キャ、キャハ?」
キューピットが驚きの声を上げる。いまの一撃が、おねえさんの後ろにあったコナラの木に深々と突き刺さっており、そこからスティレットが抜けなくなっていた。
「調子に乗りすぎだぞクピド」
命をかけた戦いの最中だというのに、それが近所の悪ガキがしでかしたスカート捲り程度の悪戯を注意するような口調で、おねえさんがキューピットの慢心を諫めた。
「キャハ」
抜けない右のスティレットを手放して、残った一本を両手で構えるキューピット。それに対し、おねえさんは左手を向けた。
「こちらの攻撃が効かないと思っているようだけど…」
歪められた唇を、真っ赤な舌が嘗めていった。
「たまに通じることがあるんだよなあ」
のんびりとした言葉と裏腹に、鋭い一撃が伸ばされた左腕から飛ばされた。
比喩ではない。左袖に仕込まれた何らかの発射装置により、まるで弾丸のように新たな鉄筋が撃ちだされたのだ。
寸分の狂いもなく、発射された鉄筋が、キューピットの眉間に突き立つ。しかし、その隠し武器でもダメージを与えることができなかった。
あと三センチで玉の肌に食い込むというところで、鉄筋は宙で静止していた。
やはり見えない障壁で食い止められたのだ。
「キャハ」
安心するような声を漏らすキューピット。しかし次の瞬間に、その横面を別の一撃が襲った。
「ギャ」
おねえさんが右手に持った方の鉄筋を、振り抜いていた。その先端に捕らえられた頬骨周辺がグシャリと潰れ、口から血を吐きつつ横に生えていた木にまで飛ばされる。
勢いよくその幹に衝突する事で、さらに追加のダメージまでもが入った。
「ギャ、ギャハ」
よっこいしょとばかりに両手を樹皮について、醜く貼りついてしまった体を剥がした。
殴られた勢いのまま、まともに木へ激突した顔面は、見るも無残に腫れあがり、鼻血やら涙やら、色々な液体がダラダラと流れ出ていた。
先程までの余裕のある様子から一変して、とても見ていられないような醜態である。
これが人間の赤ん坊なら、確実に虐待という絵柄だ。良心がさほどない町のゴロツキだって、少しは憐れんでしまうような姿だった。
「もう一本、行っとく?」
しかし、それを見るおねえさんの目には同情のかけらも無かった。
左袖には何本の鉄筋が仕込まれているのか分からないが、ゆっくりと左手をかざすように構えを取った。
「キャ、キャハ?」
その手の平を、初めて怯えたように振り返るキューピット。
おねえさんの目が細められた途端、ザクッと肉を抉る音が森に響いた。
「っ」
左手を構えていた姿勢から、濡れた地面へ前転をする勢いで体を投げ出した。数回回転したところで左脇腹を押さえながら立ち上がる。
「キャハ」
今までおねえさんが立っていた空間を、別の存在が占めていた。
赤ん坊のような容姿に、ゆったりとした白い布を巻き付けた姿。それだけならば町でも普通で見ることができようが、ソレが小さな羽を使って宙に浮いているとすれば話しは別だ。
「新手か」
スクエアウィグのような髪型をした新たなキューピットは、柄から刀身まで真っ赤な色をした剣を手にしていた。
その切っ先から、別の赤い色をした滴が垂れていた。
「いけないなあ、ボーイ」
苦しそうな声のわりに、軽い調子でおねえさんが言った。
「後ろから斬りかかるなんて、アンフェアってやつだよ」
事実、おねえさんの背中には、ポンチョの上から刺された痕が残っていた。厚手の生地のせいか傷の程度は分かりづらいが、先程から見せていた余裕のある表情を一変させているので、深手と見るのが正しいようだ。
後から来たキューピットは、先程まで戦っていたキューピットの方へフワリと近づくと、心配そうに顔を覗きこんだ。
「キャハ?」
「キャハハ」
問いかけの笑い声に、力のない笑い声が返された。
「キャハハハハハ」
仲間の様子を確認した剣を持つキューピットが、とても楽しそうに笑いだした。
その背中に、傷ついたキューピットが隠れるようにして、森の奥へ飛行を開始した。
「ちえ。せめて一匹ぐらいは潰しておきたかったな」
全然悔しくなさそうに、おねえさんが言う。それが耳に入ったのか、チラリとだけサラサラな髪をショートカットにした頭がこちらを見た。しかし、それもわずかな事。小雨で視界が悪いこともあり、すぐにそちらのキューピットは視界から消えた。
「キャハ!」
仲間の後退を確認したのだろう。新たなキューピットが鋭い笑い声を上げた。
「う~ん」
ちょっと首を傾けたおねえさんは、不思議そうに訊いた。
「君たちにも、そういった感情があるんだねえ」
「キャハ!」
人間ならば気合の入った声を出すところを、やはり笑い声を上げたキューピットが、おねえさんに斬りかかった。
おねえさんが脇を気にしながら後ろへ跳ねるように飛ぶ。しかしキューピットはドンドンと間合いを詰めていった。
その剣先が届くという距離になった瞬間。おねえさんは歪んだ微笑みを強めると、今度は右手をキューピットにかざした。
「キャ…」
疑念を抱く前に、右腕にも仕込まれていた発射装置から鉄筋が撃ちだされた。
それを柳の枝のように、軽く赤い剣で弾くキューピット。
「あっ、ずっこい」
右手から持ち替えた鉄筋で薙ぎながら、おねえさんが声を上げた。最初の鉄筋を剣で弾いたことにより、クロガラスの呼ぶところのイコノスタシスは、まだ無効化されていなかった。
当たっていればコメカミに食い込んでいたはずの鉄筋が、見えないイコノスタシスに阻まれて、宙で止まった。
「キャハ」
容赦なく赤い剣を振りかぶりながらキューピットが笑い声を上げる。それは最早無邪気なソレには聞こえず、まるで呪いの文句のようにさえ聞こえた。
「くたばれ!」
その時、森に鋭い声と連続する発砲音がこだました。
「キャハ?」
剣を振りかぶったキューピットの眼前に、浮く物がある。それが虚しく回転を続けるフルメタルジャケットだと気が付いた時、衝撃が襲った。
「ギャハー」
キリキリと回りながら、キューピットは離れた位置へ落下した。
「間に合ったようね」
反対側の暗闇から、複数の人影が姿を現した。あの不気味なキメラに誘導されて来た、アキラたち六人である。
先頭は、まだ硝煙が纏わりつく黒い拳銃を構えたヒカルである。
「間に合ってないよ。あいてて」
おねえさんが、鉄筋を持ったまま振り抜いた手で、左脇腹を痛そうに押さえてみせた。
「遅刻するからよ」
ヒカルの頭越しに、まるで生活態度の成っていない生徒を注意するようなクロガラス。すると、おねえさんはあっけらかんと言い返した。
「遅刻したつもりは無いのだけどなあ」
「世間話は後だ」
ヒカルが二人の会話を遮った。
「来るぞ」
見ると、いま鉄筋でぶっとばされたキューピットが、体勢を立て直して、文字通り飛んで来るところだった。
「オーイワ」
鋭い視線で半分だけ振り返ったヒカルが、一方的に告げた。
「あたしが撃つ。おまえが斬る」
「了解」
告げられたダイヤが、持っていた傘を投げ捨てると、腕からさげたバッグに手を入れた。そして向かってくるキューピットへ、自らも前に出て行った。
「キャハ?」
敵に加勢があっても、そんなに気にならないのか、キューピットの方も速度を落とさなかった。ただ剣を持っていない左手でダイヤを指差した。
「キャハーッ」
「うっ」
指を差されたと同時に、ダイヤの体が少し沈んだ。
「おらあ」
背後から雄々しい掛け声とともに、新たな発砲音が連続した。
ダイヤの両耳を、なにか熱い塊が掠めて行き、そしてそれはキューピットの眼前で阻止された。再びキリのように回転しつつ、一〇ミリAUTO弾が宙に留まっていた。
「しゅっ!」
重くなった体からプレッシャーを跳ねのけるように、ダイヤは鋭く息を吐いた。腕から外したバッグを地面へ捨てつつ、そこから銀色に光る物を抜き放つ。それは作図用らしいスチール製の定規であった。
これならば持ち歩いていても、街で警官に職務質問されて銃刀法などでトラブルが起きにくい護身具だ。しかも彼女は居合が使えるのである。
普通の人間では成し得ないような速度で煌めいた定規を、キューピットは立てた剣で受け止めた。
宙に浮いているキューピットの体勢は小揺るぎもしなかった。
第一撃を防がれたと悟ったダイヤは、そのままその場で一回転してみせた。
体に遅れて右手が回り、反対側から相手の首を狙った。
「キャハ」
その定規をまるで紙のごとく左掌で受けるキューピット。
「?」
まるで浮力のような圧力を体に感じて顔を歪めるダイヤ。その力はキューピットを中心にして周囲へ均等に働くらしく、左手に止められた定規も、最初はゆっくりとそしてやがて強い力で押し返された。
「ふんっ」
気合の声を上げて、今度は青眼から眉間を狙うが、もうイコノスタシスが復活したのか途中で止まってしまった。
「キャハ」
反撃は今だとばかりに、キューピットが赤い剣を振りかぶる。そこへまた発砲音がして、今度は直径九ミリの弾丸が宙で静止した。
「ふ」
横から、最初に戦っていたおねえさんが、鉄筋で殴りつける。キューピットはそれを、首を竦めるようにして、下へ避けた。
少し距離を取って、キューピットは周囲を確認した。
左右に、定規を構えたダイヤと、尖らせた鉄筋を握るおねえさん。その二人の後ろには、それぞれ黒色と銀色の銃を構えたヒカルとクロガラスがいた。
「で、オレの出番が無いわけだが」
離れた位置で、明実と黒スーツと、三人一緒に観戦モードになっていたアキラが、なにもできない自分を嘆くように発言した。
「おまえは黙ってろ」
黒い拳銃でキューピットを狙ったままのヒカルが怒鳴りつけるように言った。
「ただでさえマヌケなんだから、邪魔にしかならねえ」
「ひでえ」
嘆くが、実際にアキラには攻撃の方法が無かった。
そこらへんに落ちている枝で撲ちかかろうにも、ダイヤや、クロガラスの仲間らしいおねえさんのような、武器を使った格闘術に秀でているわけでも無い。それに、あんなに激しく接近戦を繰り広げているのでは、中に混ざろうとしただけで、足を引っ張ってしまうだろう。
そして、こんな「女の子のようなもの」になる前は普通の男子中学生だったアキラが、気軽に銃を扱えるとも思えなかった。
銃も剣も使えないなら、こうして見ているしかないではないか。
「新命さま」
とても丁寧な物腰で、黒スーツが口を開いた。
「もし何でしたら、銀色をした銃をお貸し願えたら、少しはお役に立てるかと」
「え? なんだって?」
ヒカルが引き金を絞りつつ、眉を顰めた声を上げた。
「あー、それは無理」
敵味方入り混じって繰り広げられる格闘戦の最中へ、動きの激しい味方へ当てないように射撃するという、普通の銃使いなら成し遂げることは難しいであろう事をヒカルはこなしていた。
それに忙しいヒカルに代わってアキラがこたえた。
「銀色の銃を、アレが貸すわけないもの」
「アレってなあ、どおいう意味だ!」
「うわあ」
キューピットに向いていたはずの銃口が向けられて、アキラは慌ててバンザイをした。
「二人とも、ふざけない」
その海城家では日常化している二人のやり取りを、まるで先生が授業中に私語の多い生徒を注意するような口調で諫めるクロガラス。クロガラスだって、仲間のおねえさんどころかダイヤへ掠りもさせていないのだから大したものだ。
「ふーん。仲がいいんだあ」
実際に鉄筋でキューピットと切り結んでいるおねえさんまで呑気な声を出した。
「バ、バカなこと言うな」
ヒカルが動揺した声でクロガラスに怒鳴り返すが、さすがにこれ見よがしにホルスターをさげているだけあって、キューピットに向け直した銃だけは、小揺るぎもしていなかった。
「しかし、バケモノか?」
明実がキューピットを見て感想を漏らした。
ヒカルとクロガラスの射撃により、イコノスタシスを次々に無効化されているにも関わらず、平然と二人相手の剣戟を平然とこなしているのだ。
もしかしたら、あの微笑み以外の表情は作れないのかもしれないが。
「あれならバリヤ要らないんじゃねえ?」
アキラの素朴な質問に、明実が腕組みをしてこたえた。
「いや、少なくとも三人分の攻撃は無効化されていると考える方が妥当だろう。あのイコノスタシスさえ無ければ、オマエも参加できるはずだからな」
「あー、そっか」
その瞬間、響きの違う銃声がして、アキラの耳を何かが掠めた。
「マヌケなこと言ってんじゃねえって、言ってんの」
「うひゃあ」
もう少しで一〇ミリAUTO弾により、ピアスを通すにはデカすぎる穴が開くところだった右耳を押さえて、アキラが飛び上がった。
「本当に撃ちやがった」
アキラの抗議をまったく無視して、ヒカルはダイヤに声をかけた。
「オーイワ弾切れだ。ちょっと待て」
「待てと言われても」
右手に握る定規で、キューピットの攻撃をしのぎながら、チラリと片目だけで振り返った。
「そう簡単には、いかないのよね」
それを助けるように、クロガラスが九ミリ弾を撃ち込み、反対側からおねえさんが鉄筋で撲ちかかった。
入れ替わるようにダイヤは後退した。それが修める流派の形なのか、ゆっくりと納刀するような仕草で、定規を左脇に構えてみせる。
ヒカルも遊んでいるだけでなく、ベストの裾へ隠したラックから装填済みのマガジンを取り出して素早く交換した。
マガジンストッパーに親指をかけ、後退していたスライドを前進させる。
「いいぞ」
ヒカルの言葉に、ダイヤは頷いてこたえた。
「アスカさがって」
クロガラスの声に、素直に下がるおねえさん。クロガラスも給弾の時間だ。
「キャハ」
今までの激しさの余韻が、かすかに雑木林に残る。その空間で、あいかわらずの笑顔のまま、キューピットは見比べるようにダイヤとおねえさんへ視線を走らせた。
少しでも隙が出来るように、二人は相手から見て六〇度の角度を持って武器を構えていた。
「キャハー」
やっと自分の不利を自覚したのか、キューピットは二人とは違う方向へ飛んだ。
「わわ。こっち来るな」
キューピットが選んだ先には、先程のんびりした会話をしたアキラを含む男性三人が立っていた。
「ふ」
声になるかならないかの勢いで、黒スーツが息を吐いた。何らかの格闘技らしい構えを取って、高校生二人の前に出た。
「キャハーッ」
「うっ」
キューピットが声をあげて黒スーツを指差すと、一瞬だけたじろいだように身を振るわせた後に、男の体が硬直した。
「うう」
明実の呻き声にアキラが振り返った。彼もまた逃げ腰の体勢のまま硬直して棒立ちになっている。ただ血走った眼球だけがアキラの方を向いた。
「アキザネ!」
友人の名前を呼んでも、なにも変わらなかった。
まわりの木々と同じように二人が立ちすくむ中で、戸惑っているアキラへキューピットが迫った。
「マヌケが!」
その突進してくる線上に、ヒカルが走り込んできた。
「キャハ!」
銃を使うには近すぎる距離でヒカルはトリガーを絞った。それを赤い刀身で弾いたキューピットが、二人纏めて串刺しにするかのように、剣を突き出してきた。
轟という音がした。
キューピットの背後から、駆け寄ったダイヤが定規を抜き打ちにした音だ。『生命の水』で強化されている彼女の抜き打ちは、ただの枝で竹刀の頭を落とす程なのだ。それが鉄製の定規で放たれたのだから、何かしらのダメージを与えることが可能であろう。
キューピットは振り返りもせずに高度を下げた。イコノスタシスの効果か、定規の軌道が不自然に曲がり、その攻撃は頭の上を通過した。
「クソ!」
自称美少女にあるまじき悪態をつきながら、ヒカルは右腿の銀色の銃へ手にかけた。しかし一直線で飛んできたキューピットの方が遥かに早い。赤い刀身が小柄な体に突き立つ寸前に、ヒカルは横へ突き飛ばされた。
「?!」
呻き声のような物を上げながら、無理やり首を捩じって後方を確認する。そこではアキラが困ったような顔をして、ヒカルを突き飛ばした手を、そのまま前に出していた。
「キャハ!」
キューピットが気合の入った笑い声を上げて、アキラへ赤い剣を突き立てた…、ように見えた。
しかし実際は、ダイヤの攻撃を避けたために切っ先がわずかにずれ、アキラの脇を掠めていただけだった。逆にアキラが前に両手を突き出していたため、キューピットは顔面をまともにその掌に突っ込んで、弾き返されてしまった。
「え?」
自分の両手を信じられないように見るアキラ。
「キャハ?」
正面からの張り手にたじろぐキューピット。
敵味方同士ながら顔を見合わせてしまう二人。
その時、アキラの顔にビンタされたような衝撃が襲った。右脇の辺りから、火焔がキューピットを焼き尽くすかのように伸びた。
アキラに突き飛ばされていた尻もちをついたヒカルが、そこから銀色の銃を放ったのだ。このリボルバーに使用される弾丸は、ライフル弾をボトルネックのところで切って自作しなければならない。そのおかげで大量生産品には真似ができない程の火薬を詰めることが出来る。引き換えに発射した衝撃波だけでも相当な被害を与える程の威力があった。
しかし、アキラの顔面を叩いた音の津波も、まるで火焔放射器のような発砲炎も、そしてフルメタルジャケットの鈍い色をした弾丸自体も、やはりキューピットの眼前で止まっていた。
そこへ、外された一撃の勢いをそのままに、その場で一周回っていたダイヤの二撃目が襲った。
ダイヤは、まるで小さな竜巻が発生したかのような豪風を起こし、ヒカルの銃から吐き出された発砲炎を取り込み、火柱と化した。
「ぎゃん!」
まるで蹴られた子犬の悲鳴のような音が森に響いた。
湿度の高い梅雨の空気に火はすぐに収まり、なにが起きたのかがすぐに分かった。
あれだけの風を起こすダイヤの斬撃を、やはりキューピットは立てた剣で受け止めていた。
「ダメか」
地面に座ったままで銀色のハンマーをコックしてヒカルが唇を噛んだ。
その音波のせいとは言わないが、ヒカルの声がみんなの耳に届くと同時に、キューピットのもみ上げから、ハラリと一房の巻き毛が落ちた。
「キャ、キャハー」
悲鳴のような笑い声を上げるキューピット。
追撃しようと刀身を返すように構え直したダイヤから飛んで離れると、背中を丸見せのまま逃走に入った。
「やろう、逃げるってか!」
その背中にヒカルが発砲するが、てんで当たらなかった。
白い天使の肌が、暗い雑木林で見えなくなるのはすぐだった。