55話 ある日のノエルと亮介
彷徨いの森の少し冷んやりした空気の中、亮介は中国拳法の太極拳や蟷螂拳など、その流派の基本動作を淡々とこなしていた。
「ふー……」
息を整え静かに拳を下ろす。
「ノエルそろそろいいか?」
亮介は傍らで寝そべっていたインフェルノ・ルプスのノエルに声をかけた。
「いいよ! 今日からレベルを上げてくからね」
なぜかドヤ顔のノエル。
目が一瞬輝いたのは気のせいだと思いたい。
ノエルは伏せの姿勢から立ち上がると、後ろ足の片側だけピっと反らした後、大きく伸びをした。
うちにいたアイツも同じ事してたな……
今は亡き愛犬と似た仕草をする様子に亮介は目を細める。
お次は準備運動とばかりにノエルは軽快なステップを踏んで、左右に二、三度軽くジャンプを繰り返す。
はたと何かに気付いたのか、目の前まできたノエルがこちらを見上げてきた。
「どうしたノエル?」
「そう言えばさーいつまで内緒にしておくの?」
誤解が無いように言っとくが、中国拳法のことではない。
「そうだなー無意識にやれるようになるまでとは考えてるんだけどなぁ」
話しは数週間前に遡る……
久しぶりに妻の菜摘が会社へ出勤するようになった頃。
亮介は一人『彷徨いの森』に来ていた。
自宅には連れて行けないノエルとたまには遊んでやるかと、ワンコなら必ず飛びつくフリスビーを持ってきた。
案の上、フリスビーの魅力に取り憑かれたノエルは、それを咥えたまま中々離してくれなかった。
宥め賺して半日以上クタクタになるまで一緒に遊んだ。
時折休憩を挟んでノエルと亮介はたわいもない話をした。
すっかりノエルと会話が成立していることに驚くことはなくなったが、ルプスは人間の負の感情が分かるらしい。
妻がアイツの話をしてくるたびに、私が快く思っていないということをどうやら理解しているようだ。
「菜摘は鈍感だからね……」
獣にも心配されるうちの奥さん大丈夫だろうか……と、そんなたわいない事を考えていると、ノエルは俺に使わないのかと聞いてきた。
使うって何をと問えば、
「菜摘と同じように、亮介にも魔力があるよ」
「あいつにも対抗出来るかもしれないよ……」
まさかの言葉が返ってきた。
「私にもあるのか?」
「うん。亮介も菜摘と同じ位あるよー」
ノエルは骨っこを嚙りながら無邪気に答える。
菜摘は早い段階で魔力持ちなのが分かリ、魔道士のミザリー様に手ほどきを受けていた。
ポーション作りの話しを聞く限りでは、徐々に精度が高まっているそうだから、かなりいい線まで行っているのだろう。
正直羨ましいなと思いつつ、妻の話しを聞いては相槌をうち、自分には縁の無い話しだと思っていた。
だが目の前のノエルは私にもあると言っている……
この世界限定だが、せっかく使えるというのに活用しないというのは宝の持ち腐れだろう。
亮介に迷いはなかった。
魔法が使えるとはいえ、それを使いこなせるかは別問題だ。
素質があると言われただけに過ぎない。
この世界において黒髪の人間は魔力量が多いと言われている。
ノエルに言わせれば私も菜摘もかなりの魔力保持者らしいが実感が全くない。
菜摘が随分と気にいっているアイツは、黒髪で魔道士団団長という肩書きからも、かなりの実力者なのだろうと想像はつく。
「……アイツの名を口にするのはなんか癪だな」
若い上に男前で優秀な奴は嫌いなんだ私は……ついボヤキたくもなる。
「亮介なんか嫌そうだねー」
「まあな。やっかみ半分だけどなあ」
苦笑いしながらノエルに返す。
「そういや聞いた話しでは、ノエルは魔法が得意な種族だったな?」
「そうだよ! インフェルノ・ルプスは風魔法が得意だって言われてるよ」
「そうか……なあノエル。私に魔法を教えてくれないか」
待ってましたとばかりに尻尾をブンブンと振り回すノエルだったが、各種わんこ用おやつを定期的に贈呈する条件が付いてきた。
しかし、いかんせんこちとら魔法が無い世界で生まれ育って四半世紀のおっさんだ。
早速魔力を感じることから始める事になった。
魔力とは何ぞやから始めるのだから、魔力の流れを感じる為に、手取り早く学生の頃かじっていた中国拳法はどうだろうかと思い至る。
試してみれば気を流すイメージが魔力と通じるところがあり練習には丁度良かった。
こうして地味な下準備の訓練を続ける日々は一段落終え、次の段階へ進む。
「お手柔らかに頼むよノエル先生」




