逃亡ー迷いの森六
思わず後ろを振り返ると、笑顔の奥の瞳はひどく真摯な光があり、見とれてしまうほどだった。
お互いに具体的な話は一切しない。だが、それでも、この時は、通じ合っている、と、なぜか実感できた。
だからこそ、その場で少し足を止め、後ろを振り返りながら、シリウスの耳元に口を近づける。
そして、ビックフットから刈り取った毛皮をかぶり、シリウスにもそうするように目で合図する。
そして、その毛皮を頭からかぶり、ゆっくりと囁くように告げる。
「これから東に舵を取って向かう」
「うん」
異様な雰囲気を感じ取ったのだろう、シリウスも、風に掻き消されてしまうのではないかと思うほどに小さな声で返答する。
「初めて暗黒森林に入った時の事、覚えているか?」
「それこそ忘れるはずがないよ」
「よかった・・・。似ている、と思わないか?・・・今度は誰も死なないから安心しろ」
あの時死んだ仲間であるモーリスのことは今でも心の中で棘となって突き刺さっている。
―――あの無謀な若者は己の過信で命を落としたんだ。
―――しょうがなかった。いや、むしろ、あの時モーリス以外誰も死ななかったことを幸運に思うべきだ。
そう思う俺と、同時に、どうして助けてやれなかった、助けることができたんじゃないか?と思い続ける自分がいる。
あの時あいつに投げかけた言葉は、俺の偽らざる本音だ。それでも、まだ幼かったシリウスが泣く姿を見て何も感じなかったはずはない。
それはシリウスの心にも、大きな影を落としていたようで、得心いった表情を浮かべている。
「行くぞ」
頭からかぶっていて毛皮を肩にかけ直し、ゆっくりと歩き出す。
ここからは今まで以上に警戒が必要だ。
風向きは、今、右手側からの横風となっているが、できれば今日中に尾行者と決着をつけたい。
そのためにはどうしてもファントムをおびき出す必要がある。
しかし、それは同時に危険な賭けでもある。なぜなら、一歩間違えば、俺たちも襲われるからである。
だが、ここで、俺には全く勝算が無いわけではない。ファントムの生態、そして、実際に見た奴らの姿から、いくつかの推測を立てている。もしそれが俺の思ったとおりであれば、今回の作戦はうまくいくだろう。
―――もしうまくいかなければ・・・・。
不安が頭をよぎるが、ここまできて引き返すことはできない。
何より、後ろの尾行者がいくら幻覚のせいで能力が落ちていると言っても、正面切って闘って勝てる見込みは薄いだろう。
ゆっくりと今まで以上に時間をかけて進む。それこそ足音をできるだけ消して、歩いている。
恐らくファントムには視覚も聴覚も、そして嗅覚もない。
初めて見た時に確信した。
であれば、一体どうやって獲物を見つけているのか?奴らと実際に戦ってその答えをある程度推測することができた。
それは、風だ。
奴らは風を操る。魔力を使って風を操り、速度を増したり、気配を消したりしている。
そして、恐らく風の流れを全身で感じているのだろう。己の領域に入ってきた獲物が起こす気流の流れ、風の流れを敏感に感じ取り、方角、大きさ、そして姿形さえ特定しているのだろう。それがいったいどれだけの精度、範囲なのかはっきりとは分からない。だが、精度は高く、そして範囲もある程度広いのではないかと思う。
俺も風の魔法を使うことができるからこそ分かる。
ゆっくりと目を閉じ、自分の呼吸を、そして風の音を全身で感じる。
広く、広く、己の体を中心として、魔力を乗せた風を薄く、薄く円状に広げるように伸ばしていく。
すると、数十メートル先に、奇妙な風の揺らぎを感じた。
それは、向こうからも広がる波のように風が凪いできて、ちょうど向こうと俺の中間でぶつかり、かき消された。
瞬間、ものすごい速度で、何かがその地点に飛び込んできた。
―――まずい!!!
焦りとは裏腹に、体はすぐに動き出す。
「来い!!」
シリウスの腕をつかみ、くるりと身を翻すと、必死で左手に回り込み、その後すぐに今来た道を戻るように逆走する。
そして、視界にとらえていた追跡者たちを横から追い抜くと、そのまま、全力で前方に、魔法で風を送り込んだ。
ごおおお!!!!
耳元を、うなりをあげながら吹き抜けていく風に、何が起こったのか分からなかったのだろう、追跡者たちの動きが一瞬止まる。
俺が送り込んだ強風は、横からの風とぶつかり、相殺されるどころか、より一層勢いを増して吹き抜けていく。
「これを飲め!!」
放り投げるように丸薬をシリウスに押し付け、俺も一粒飲み込んだ。
途端に体が硬直していくような違和感を感じる。
「頭から毛皮をかぶって動くな!!!」
腕が動かなくなる前に、急いでビックフットの毛皮をかぶると、そのまま膝をつき、しゃがみ込み、息を殺してその時を待つ。
「ちっ!!」
舌打ちが聞こえ、慌てた追跡者の男二人が、急いで木々の間に身を隠そうとするが、遅かったようだ。
どん!!!
近くにあった木が、大きな音を立てて揺れる。
「カアアアアアアアア!!!!!!」
逃げ切れなかったようだ。
そして、俺には、どんどん魔物が集まってくるのが手に取るように分かった。
いくら手練れの追跡者たちだとしても、奴らから逃げきることはできないだろう。
「くそ!!」
どん!!!!どん!!!!
地面が何度か大きく揺れ、それと同時に、追跡者たちの口から短く怨嗟の言葉が吐き出される。
「カアアアアアア!!!!」
辺り一面にファントムの威嚇が響く。今聞いても、神経を逆なでする甲高い、かすれたような不快な声に、背筋がざわざわする。
恐らく聴覚と、声帯が退化してしまっているために、うまく発声することができないのだろう。
耳障りな不協和音があちこちから聞こえてくる。
たちまち五、六匹ほどのファントムに囲まれてしまった。
そして、狙い通り、俺たちの位置は全く気付かれていない。
微動だにしないことで、位置を特定できないと思ったからこそ、「硬化薬」と呼ばれる全身を石のように固くしてしまう丸薬まで準備し、身を潜めているのだ。そうでなければ困る。
風を頼りに何が起こっているのかを感じ取ろうとしているが、ひどく動きが速すぎてなかなかに難しい。
それでも驚きだったのは、数の上ではファントムが圧倒的に有利だ。
にも拘らず!闘い始めてからすでに数分経っているというのに、まだ男たちは生きている!!ひらり、ひらり、と風に舞う落ち葉のように両手をはためかせ、逆手に持った身幅のある片手剣を二本振るい、飛びかかってくるファントムの攻撃をいなしている。
「カアアアアアアアアアア!!!!!」
苛立ったようにファントムが一斉に咆哮をあげるが、それでもなおその動きに乱れはない。
まるで四方に目がついているかのように、後ろからも、そして上空からの攻撃も、すべて紙一重で躱し、すれ違いざまに一太刀浴びせている。
―――恐ろしい腕前だ・・・。
思わず戦慄してしまうほどに、憧憬してしまうほどに腕が立つ。あのまま正面切って闘っていれば、恐らく死ぬのは俺たちのほうだっただろう。
今、これほどの数のファントムを相手にしても、余裕があるようにすら感じてしまう。
少し、いや、随分焦りの感覚が芽生えてきた。
―――もし、奴らがファントムに勝ってしまったら・・・。
その時はどうなるのだろう?消耗した状態とはいえ、ファントム五匹以上を相手取り打ち勝ってしまうような強者に俺たちは果たして勝つことができるだろうか?
その時、俺の不安を裏付けるかのように、一匹のファントムの首が飛んだ。
くるくると、いっそ時が止まってしまったかと思うほどゆっくりと空中に停滞する首はきれいに数メートルも吹き飛び、泣き別れた体が、ずずん!と音を立てて地面に横たわる。
―――くそ!!
俺が舌打ちを突きたい気持ちだった。
―――いったいどれだけ強い奴らを尾行に付けたんだ!!
この時俺が失念していたのは、帝国が、俺たち奴隷の反乱をそれほど重要視していないだろう、という安易な思い込みだった。
そして、それ以上に、この迷いの森を抜けることが帝国にとっていったいどれだけの悲願だったか、という認識不足だった。
後悔しても遅い。
今は祈るしかない。
その時、祈りが通じたのか分からないが、さらに追加で二匹、ファントムが飛び込んできた!!
そしてそのまま、その場はさらに混戦を極める。
上空から襲い掛かってきたファントムの攻撃を後ろに飛ぶことで躱し、その躱した先に待ち受けるようにいたファントムの爪による攻撃をくるりと回転を乗せた剣による斬撃で弾き、そのまま反対の手に持った剣を凪ぐように振りぬき、毛皮に一筋の傷を入れる。
横から飛びかかってきたファントムの噛みつきをその鼻先を殴り飛ばすように剣の峰で叩き、すれ違いざまにもう一方の剣から斬撃を浴びせる。
一瞬の遅滞もなく、舞うように優雅に、華麗に斬撃を放つ男たちは、永遠にそのまま動き続けていられるように思えた。
そんなこと、どう考えても不可能だと言うのに、まるで底なしともいえる体力に支えられ、男たちは剣を振るい続ける。
―――化け物か!!?
先ほどから一匹減り、二匹増え、差し引き一匹増えているというのに、いったいこれはどういうことなのか?
危地に立つどころか、先ほどよりも精細さが増していると思うのは俺だけなのか?
―――どうする?援護として風の斬撃を送り込むか?
―――いや、そうしてしまえばファントムに俺たちの居場所が分かってしまう。目の前の敵にいら立ち、まず奴らから排除しようと思ってくれればいいが、もし、敵わない強敵と認め、俺たちに狙いを向けられてしまえば、俺たちの実力では勝ちきることは難しいだろう。
ぐるぐると思考を巡らせているうちに、一匹のファントムの片眼が抉られ、さらにもう一匹の右前脚が半ばまで切り離されてしまう。
重傷を負った二匹は、闘いの周辺をくるくると回り、奇妙な唸り声をあげながら、警戒しているようで一切攻撃に参加しなくなってしまった。
―――これはもう、援護の攻撃を放つしかないか・・・。




