逃亡ーウルの街十三
今は、雨が心地いい。
濡れるのだって都合がよかった。泣いていることを、そして、涙の痕を隠せるから。
それにこれだけバシャバシャと降っていれば、僕のかすれた泣き声だって気にならないだろう。
「この街は、実は雨が多いんです」
そう言えば、この街には、ほとんど滞在していない。
洞窟の中で過ごした日々が濃厚だったから、ずっといたように感じていただけだ。
「シエラは、あの子はあんなふうだから、皆彼女に恋するんです」
誰に言うともなく告げられたニールの言葉に、僕はどきりとした。気付かれていたようだ。
「僕も、昔はシエラのことが好きでした・・・」
恥ずかしそうに告げられた言葉に、思わず振り返ってしまった。
ひどく懐かしそうに笑うニールは、いたって真剣で、恐らく本当のことを言っているのだろう。
「これはアンネとシエラには内緒ですよ?」
悪戯っぽく笑いかけるニールに僕は胸が張り裂けそうになる。
「シエラはとても純粋な子なので、人の好意には、特に恋慕の情にはひどく鈍感なのですよ・・・。それでいて、自分の恋心は、実は隠すことなく、堂々としている。呆れるほど素直で、一途です。手に負えません」
その思いが僕に向けられていたら、どれだけよかっただろう。
「ずるいですよね?あんなに優れた容姿をしていて、それでいて気立てもいい・・・」
本当にずるいと、この時なぜか素直に納得できた。
「なので驚きですよ。アイクさんが、全く情を移していないのが・・・。僕は、シエラがアイクさんのことを好きになって、このまま街にとどまって、お二人で過ごしたらいい、と思っていたのですよ。そうしたらシリウス君、あなたもここに残るでしょ?」
そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。もしそうなっていたら僕はどうしていただろうか?考えようとしても、答えなんて出てこない。アイクのことは大切な仲間だと思っている。だからこれからもずっと一緒にいたい。そして、もしかしたらそれと同じだけシエラのことを好きになっていたのかもしれない。
だからこそ、耐えられなくなって、一人で旅に出ていたかもしれない。
「でも、アイクさんは、シエラにあそこまで迫られて、それでもまだ、故郷に帰ろうとしています」
それが、どうしようもなく胸を抉る。いっそ、シエラの思いを受け止めて、一緒になればと思う自分がいるのもまた確かだ。
ざあざあと降りしきる雨の中、僕らはそうして立ち尽くしたままぽつり、ぽつりと話を続ける。
そうしているうちに、なんだか少しだけ心が軽くなっていくようだった。
そのまま、僕は、ニールと並んで歩き、宿に戻った。
宿の女将さんが、最初は随分驚いていたが、僕とニールの表情を見て、何も言わずに湯を沸かし、盥にいっぱいに汲んだ湯を僕に渡してくれた。
僕は部屋に戻って、盥に張ったお湯で、ゆっくりと体をふく。
雨で冷え切った体に、じんわりと温かいお湯が心地よかった。
そのまま、朝まで泥のように眠りに落ちる。その日は、アイクが戻ってきたことすら気付かずに、一日中眠り続けた。
まるで、傷を癒そうと必死で休息をとる手負いの獣のように・・・。
そして二日後に、僕らは再び川に浮かぶ船の上に立っていた。
あの日に、あの後に、シエラとアイクの間に何があったのか僕は知らない。知りたくもなかったし、知らなくてもいいと思えた。
船には以前と同様にニールと、グラントのところから来た三人の男たちが乗り込んでいる。
岸辺には、多くの人々が駆けつけて見送りに来てくれていた。
このスラムで世話になった人たちがずらりと並んでいる。
グラントさんにアンネ、そして気難しいヘイルさんまで見送りに来てくれていた。
宿屋の女将さんが、布に包まれた何かを手渡してきた。中身は手作りの料理が入っていると言う。ありがたくそれを頂き、僕らは、皆に別れを告げる。
ルシカがアンネに後ろから抱かれたまま、泣きそうな顔で僕を見つめているのが胸に迫った。
「またぜったいにもどってきて!!」
泣きながら告げられた言葉に、僕は一瞬息が詰まる。約束はできないし、何があるかもわからないから、したくもなかった。嘘をつくようでひどく気が引ける。それでも「うん」とだけようやく返事することができた。
そして――――、シエラがいない――――。
岸辺のどこを探しても、シエラの姿はなかった。
誰も、そのことを恩知らずだとは咎めない。
何があったのかを彼らはぼんやりとだが知っているようだった。
ただ、アイクに、本当に行くのか?と問うことはするけれども、行くな、とは言わない。それがどれだけおこがましい願いであるかを知っているからだ。
そして、僕らは皆に見送られ、船は岸を離れる。
ゆっくりと進みだした船の帆は、風をはらんで膨らみ、船首に取り付けられた旗がばたばたと揺れる。
「アイクさん・・・・。申し訳ありませんでした・・・・」
「なぜおまえが謝る?」
アイクは、決してきょろきょろと視線を彷徨わせることなく、ただ、ただ、行く先を冷たく見つめている。
「いえ・・・。シエラは・・・・・本当は弱い子なんです」
「そうか・・・・」
その時だった。
風に乗って何か聞こえてきた。
僕らは思わず耳を澄ませる。
そして、それが歌だと気付いたとき、思わず、その歌の出どころを必死に探す。
姿は見えない、けれどもとても澄んだきれいな声は彼女に違いない。
耳に心地よいその声は、遠く千里の道すら届くかと思うほど凛と響き、それなのに哀愁漂う詞に、思わず胸が苦しくなる。
アイクをちらりと見たが、ただ行く先に目を向けるだけで、振り向きもしない。それでも僕には分かった。きちんと耳を澄ませて聞いている。
そしてその背中が、ひどく小さく見えたのは、僕の気のせいだろうか?
めぐる風よ この風に乗って
私の想いを 届けてください
めぐる風よ この風に乗って
あなたはどこへ 行こうというのでしょう?
冷たく凍えた私の手を
強く握ってくれたのはあなたの温かい手です
涙にぬれた私の頬を
優しく拭ってくれたのはあなたの大きな手です
優しい春の日差しのように
涙のあとにはいつもあなたが
生きる喜びを教えてくれました
ああ、だと言うのに あなたはもう行ってしまうのですか?
別れが来ることは知っていました
いっそ儚い夢と知っていました
それでも期待してしまった自分が恨めしい
私を置いて過ぎ去っていくあなたが恨めしい
届かないと知っていますが
せめて祈りを送ります
めぐる風よ この風に乗って
私の祈りを 届けてください
めぐる風よ この風に乗って
せめてどこまでも 旅してください
めぐる風よ この風に乗って
あなたの行く先に 幸せがありますことを
「「旅人」と言う歌ですね」
ぽつりとニールがつぶやく。
得も言われぬほど悲しくも美しい旋律に、詞に、そして胸に迫るきれいな声に、思わず涙が零れ落ちた。
アイクの肩が小さく震えている。
その歌に送られ、僕らはゆっくりと進んでいく。




