逃亡―暗黒森林九
ああ―――・・・。ここまでか・・・。短い時間だったな・・・。
ごめん・・・リック・・・。
ごめん・・・兄さん・・・。
涙が一つ零れ落ちた。どうしようもなく不甲斐なく、そして、弱い自分が情けない。
その時だった。
僕の後ろで、「こら!暴れるな!」と怒鳴り声が聞こえたかと思うと、夜の冷たい空気を切り裂くような咆哮が、僕の意識を、すっ、と現実に引き戻した。
「うおおおおおおおおおおおお!!!!!!」
「なんだ!?」
皆が後方を見やると、そこには拘束を振りほどき、兵士を吹き飛ばしながら、ニコライに向かって必死の形相で突進するローグの姿があった。
「ふん!下らん!馬鹿の一つ覚えだな!」
吐き捨てるように槍を構えたニコライは、先ほど同様に紫電を纏わせたまま、神速の槍を一突き。
ごう!とうなりをあげて振るわれた槍は、ローグの体を強かに打ち付けた。
だが、先ほどとは違い、ほんの寸でのところで鳩尾への直撃を免れるが、それでもなお、右肩を打ち据えられた。
ずどおおん!岩石を砕いたのかと思うほどの硬質な音を響かせながらもローグは足を止めない。
その姿を目の前に捉え、ようやくニコライの表情に少し、変化が訪れる。
「む!」
その表情が一瞬強張り、引き戻した槍が、ローグの鳩尾に向かって再び突き出され、そして、今度は命中する。
ああ・・・、駄目だったか・・・。僕らは皆、落胆し、帝国兵は皆、ほっ、と安堵の息を吐こうとしたが、思わず我が目を疑ってしまった。
ローグは吹き飛ばなかった。
その身に槍の直撃を受け、それでもなお、ニコライの至近に佇む。
その顔には、してやったり、と言う笑みを浮かべ、対するニコライは少し、焦ったように槍の手元を見つめる。
ニコライの突き出した槍の穂先は、二人の間でまるで時が止まったかのように静止している。
ニコライの槍に添えられた左手を、ローグの右手ががっちりと覆っている。
「くそ!離せ!」
ぐいっ、と力強くニコライがローグに引き寄せられた。
ローグが、ニコライの背中を両腕で抱きしめ、拘束しながら、ゆっくりと持ち上げた。
「貴様!どうするつもりだ!?」
「地獄への道行、付き合ってもらうぞ!」
そのまま、ゆっくりと後退する。崖に向かって・・・。
「ニコライ様を救出しろ!!!」
帝国兵が口々に叫び、ローグに詰め寄ろうとするが、それを阻むように、必死にアイクとセルバとガルフが剣を振るう。
僕とネルとカイトは帝国兵に捕縛され、身動きできないでいた。ただ、成り行きを見つめることしかできな。
「貴様!その肩で・・・」
悪鬼のような形相を浮かべるローグとの気迫に押されるように、少し青ざめた表情のニコライがその右肩を見つめている。
先ほど槍の直撃を受けた右肩はぼっこりと青くはれ上がっている。もしかしたら、骨が折れているのかもしれない・・・!
それでも、ローグは笑っている。悪鬼のように恐ろしい憤怒の形相を浮かべながら、今夜の月のように、口の端を吊り上げて、にやりと笑みを浮かべている。
「はなせえええええ!!!!」
ニコライの体が急激に膨張するように膨らんだかと思うと、暗雲を切り裂く雷のように、ほの白く、蒼い紫電をその身に走らせ、ばちばち、と音がするほどに強い光があたりを覆った。
「ぐうううううう!!!!!」
歯をくいしばって耐えるローグの足が、止まる。
「くそおおおおおおお!!!!!」
永遠に続くのではないかと思われる放電が、ぴたりと止まり、ぜえ、ぜえ、と喘ぎながら、それでも、必死で拘束を振りほどこうとニコライが腕の中で暴れる。
それでもなお、ローグの腕は振りほどけない。
もはや、半ば意識を失っているのではないかと思うほど、ピクリともしないにもかかわらず、ローグは、その腕を緩めることはしない。
そして、ゆっくりと後退が始まる。
ずり、ずりと足を引きずるようにして、それでもなお、歩みを止めない。
焦ったような顔をし、盛んに何かを喚くニコライと、必死で助けようとする帝国兵士。
アイクとセルバとガルフが、三人で、身を挺してローグに近づかせない。
ローグの歩みが止まった。
その背には、もうすでにぽっかりと口を開けたように広がる暗い谷底が見下ろせる。
あと半歩、後ろに足を踏み入れるだけで、深く、暗い谷底に落ちていくだろう。
「突き落とせ!」
僕の叫びが届いたのか、ローグが、ふっ、と優しい笑みを浮かべながら、僕のほうに視線を向ける。
「シリウス。世界を見て来い!そして・・・・・、達者で暮らせよ・・・」
その瞳には、ぽつりと一粒の涙が浮かんでいた。
「え・・・・・・・?何を・・・、言ってるの・・・?」
一瞬何を言われたか理解できなかった。
だから、答えを求めるように視線を向けるが、ふっ、とその瞳を背けられる。
その視線の先には、今もその背中を預けながら闘うアイクとセルバの姿がある。
「アイク、セルバ!シリウスを頼む!そして・・・。自由に生きろ」
「待て!」
背中越しに、アイクが振り向きとめようとするが、何もかも悟りきったような、諦めたようなそんな表情を一瞬浮かべる。
そして、そのまま、背中から、谷底に向かってゆっくりと傾く。
「やめろおおおおお!!!!」
その場にいた全員の絶叫が重なり、夜の闇の中を木霊する。
全身が痛んだ・・・。そんなことどうでもいい!!
強く拘束された腕が軋む・・・。そんなことどうでもいい!
両脇を挟み込むように拘束する帝国兵が邪魔だった!思い通りに動かない自分の体が邪魔だった!
早く!速く!
もう間に合わないことなど、心の片隅では理解していた。
それでもなお、体が、心が否定するように僕自身をせかす。
「はなせええええええええええええ!!!!!!」
ゆっくりと傾いた体は、そのまま支えが効かなくなり、ニコライの叫びをその場に残しながら、谷底に消えていく。
「ニコライ様!!!!!!!!!」
「ローーーーーーーーーーーーグ!!!!!」
腕の拘束がほどけた。
必死に駆け出し、二人が落ちていった谷底にへばりつくように下を見下ろす。
そこには・・・、すでに、もう何もなかった・・・・・・。
その場にいたすべての人間が、深く、暗い谷底を見下ろしながら、呆然自失となり、ただ、立ち尽くす。
時が止まったような錯覚を覚える。
全身の力が抜け落ち、もはや、立っていることもでず、へたり込んでしまった。ぺたんと崩れたことすら僕は気付かなかった。
ふと、隣で何かが動いた気がした。
ゆっくりとそちらに視線を向けると、セルバが、背負っていた袋から、頑丈な縄を取り出し、近くの木に縛り付け、自分の腰に巻き始めた。
「何を・・・・してるの・・・?」
皆の視線が集まる。
問われたセルバは、しかし、何も答えない。こちらに視線も向けない。
「待て!どうするつもりだ!?」
そのとき、セルバの前に、アイクが両手を広げてその進路を邪魔するように塞がる。
「行くよ」
一言。あまりのも簡潔に、あまりにもあっけなく、つぶやかれた言葉は、一瞬何を言っているのか理解できなかった。
「なぜ?」
こちらも簡潔に問われた質問に、ただセルバは自嘲気味に笑う。
「リオンは・・・、シリウス、お前の兄ちゃんはすごい奴だった・・・」
不意に投げかけられた言葉に僕は思わず、ぽかんとする。
「あいつは、あの戦争で、誰よりも先頭に立ち、俺たち剣闘士を鼓舞し続けた。たった十五歳の子供が!そして、その剣で、皆を助けた!すごいよなあ!震えたよ!」
「それが一体・・・?」
アイクが思わず怪訝な声で問うが、その先を言い終わらぬうちに話し出す。
「リックはすごい奴だった!あいつは、誰よりも強く、そして誰よりも優しくて・・・。あいつに助けられた奴隷は多かったんじゃないか?俺ももちろんその一人だ!何より、自由をくれた!その命を犠牲にして!すごいやつだったなあ・・・。ローグも、アイクも、そしてシリウスもすごい奴らだ!俺は、もし、家族が生きていたのなら、真っ先に故郷に帰って、お前らのことを自慢してやりたい!」
瞳を輝かせ、興奮したようにまくしたてるセルバに、口をさしはさむことなど誰もできない。
そして、一転、セルバの表情が曇った。
「だが、俺はどうだ・・・?俺に何ができる・・・?俺が何をしてきた・・・?アイクは森のことを誰よりも深く知り、そして、生きるすべを知っている。何より、危険を避ける力がすごい!ローグは強い!誰よりも強い!あいつがいれば、どんな魔物だって怖くはなかったし、昔から恐れてやまなかったこの森だってへっちゃらだった!そして、シリウス!お前は強くなったなあ・・・。あのニコライに、あそこまで健闘するとは!俺も驚きだ!道中だって、お前がいなければ、あのビックフットとかいう魔物に殺されていたさ!」
そこで言葉を切ると、今まで伏せていた視線を、きっ、と上げる。
「だから、行かせてくれ!」
「なぜ!?」
「ローグは生きている」
確信を持った力強い言葉は、彼の生を信じて疑っていないことの表れだ。
僕ですら諦めかけたのに・・・。強いな・・・。
「今ここで、お前らと一緒に逃げたら、ただの卑怯者だ!あの戦争でリオンに救われ、リックに自由を与えてもらい、アイクに目的を示され、そして、シリウスとローグに助けられ・・・。俺は、今ここで逃げたら、ただの卑怯者だ!だから、絶対にローグを助けて、もう一度二人でお前らに会いに行くよ!そうしなければ、俺は後悔する!」
「だが・・・」
アイクはそれでもまだ納得していない。
「それに、死んだとき、リオンと、リックに顔向けできないだろう?」
冗談めかして、困惑するアイクの肩をポン、と叩くと、止める間もあればこそ。
一瞬で走り出し、深い谷底に身を躍らせる。
「セルバーーーーーー!!!!」
しゅるしゅるしゅる、と勢いよく木に結ばれた縄が谷底に引っ張られ、落ちていく。
縄が空気を切り裂く音を聞きながら、呆然とセルバが身を躍らせた谷底を見つめていると、数秒で、縄が限界まで引っ張られたのだろう、ピンと伸びきり、そして、撓む。
その縄に、アイクが飛びつくと、両手で持ち、急いで引っ張り上げようとする。
しかし、途中で何かに気付いたのだろう、落胆の表情に変わった。
力を入れていた腕から、一瞬で緊張が抜ける。
「ああ・・・、もう駄目だ・・・。間に合わなかった」
そのつぶやきとともに一瞬で巻き上げられた縄は、その先端が、鋭利な刃物できれいに切り取られたように無くなっていた。
「くそ!!」
アイクが思い切り縄を地面に叩き付けた。
そのとき、僕の中でぷつりと緊張の糸が途切れた。
目の前がぼんやりとかすむ。瞼が、体が、腕が、足が重くて、重くて・・・。
ああ、駄目だ・・・。今意識を失うのはまだ・・・・。そう思ってはいるけれども、どうにも抗いきれなくて、そのまま僕は、糸が切れるようにことりと動かなくなり、意識は無明の闇に落ちていく。




