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英雄伝説ー奴隷シリウスの冒険ー  作者: 高橋はるか
奴隷時代
34/681

魔法二

翌日、闘技場には多くの観客が押し寄せてきていた。

すでに、始まる前から、コロシアムの外には、今か今かと入場を待ちわびる人々の、ため息が聞こえる。

観客席を埋め尽くすほどに、下から見上げても満員ではないかと見まがうばかりの人々の多さに、思わず圧倒されてしまう。

初戦を闘う剣闘士たちが入場してきた。

この控室横に設けられた剣闘士用の観覧席から試合を眺めるのはいつ以来だろう。兄さんと闘った日以来、決して近づかなかった僕は、久方ぶりのコロシアムの熱気に打たれ思い出したくもない過去を思い出し、気が滅入ってきていた。

うつむく僕の肩にすっ、と大きな手が置かれる。

リックが、心配そうに僕の様子をうかがっている。

リックだけでなく、アイクや、ローグ、そしてセルバやほかにも多くの奴隷たちが僕の様子を心配そうに見つめてくれていた。

目頭が熱くなってきた。思わず涙が零れ落ちそうになったが、ぐっとこらえると、ぎこちなく笑みを浮かべ、「大丈夫」と伝え、前を向く。

コロシアムに入場した五人の剣闘士は、余裕の表情を浮かべ、観衆に手を振っている。

その対面から、台車に乗せられた鋼鉄の檻が運ばれてきた。

歓声が爆発する。

「さあやってきた!その姿を見せてくれ!」

その言葉を待ちかねたかのように檻の周囲を固める兵士たちがその覆いを剥ぎ取る。

中にいたのは、あまりにも白い、純白の毛皮を持った大きな狼の姿だった。

その瞳は灰褐色に染まり、鋭く目の前に立つ五人の剣闘士を睥睨している。

純白の毛皮には汚れ一つなく、汚れきったこのコロシアムに似つかわしくないほどに、きれいで、清純で、冬晴れの陽ざしを浴び、輝きすら放つように見える。

あまりにも優雅に、そして泰然と構えるその姿は神秘的な神々しさすら感じられる。

一匹の孤高の魔獣は、しかし、この場に連れてこられたこと自体が気に食わないのか、覆いを外し、逃げるように退場していく帝国兵士たちの姿をその目に宿し、一つ唸り声をあげている。

ガシャン、と、魔力によって繋ぎ止められていた鎖が落ち、その縛めが解かれた。

「さあ!始まるぞ!注目の一戦!」

鉄格子の鍵は外れている。そこからゆっくりと窮屈そうに身をかがめたまま、その魔獣が出てきた。

遠く離れたここからでもわかる。―――強い。

「がああああああ!!!」

響き渡る咆哮は見るものすべてを威圧する。

コロシアム中に轟き渡るその咆哮はすり鉢状の闘技場内に木霊し、一瞬割れんばかりの歓声をかき消す。

遅れて、再び観客席が歓声に包まれる。それは、安全地帯にいるからこその歓び。闘技場内に対面する五人の剣闘士の面からはっきりと血の気が失せていた。

「ああ、あれはまずいな」

肩に置かれた手が我知らずぎゅっと握りしめられた。

「知ってるの?あの魔獣のことを」

思わず振り仰ぎながら、リックの表情を確認すると、平素では珍しく強張っている。

「ああ・・・。あれは・・・「ブリザード」の二つ名を持つ魔獣。「雪狼」だ・・・」

「「雪狼」ってあまり強くなさそうだけど・・・。強いの?」

「強いな・・・。そして厄介だ。」

そこに静かな声が割り込んでくる。

「「雪狼」と言うのは原住民が名付けた名前で、大陸北部の一年中雪が解けることのない地域に生息する魔獣だ」

大きな影が差したと思ったらローグだった。

「そうか。ローグは北部の出身だったんだ。闘ったことがあるの?」

「ある。奴らは普段、レッドストーン山脈の向こうに、さらに北の地域に生息しているが、時たま、冬場になると、餌を求めて「暗黒森林」奥地を経由してこちらに出没することがあった。奴らは群れで生活することはない。しかし、それでも一匹だけで、人里に壊滅的な被害が出る。そのため、軍をあげて討伐作戦が組まれたりもした」

「ローグは・・・勝てる?」

「ここが、雪の降る北国なら今の俺では死んでいたかもしれないな。だが、ここは大陸南西部の街。勝てるだろう」

佇むその姿に気負いはなく。ただ事実のみを述べているのだろう。あまりにも圧倒的で、あまりにも強いその姿に、在りし日の兄を重ね、どうしようもなくあこがれている自分がいた。

「でも、どうして北国だったら勝てないの?」

「それはな・・・。奴らは魔法を使うからだ」

そのとき、ぐんとコロシアムの温度が下がった気がした。

そこに見えたものに僕らはその目を疑う。

雪狼の背後に、ふわふわと大質量の氷の槍が浮かんでいた。それも一本だけではなく十本近い数浮かんでいる。

先端は鋭くとがっており、氷とはいえ、触れたものを貫くだけの固さは有しているだろう。

ゆっくりと回転しだした。それを見て、五人の剣闘士は、あれを撃ち込まれてはたまったものではないと思ったのか、走り出し、一瞬で距離を詰め、闘いを終わらせようと動き出した。

しかし、彼らの行く手を遮るように、足下から、氷の壁が立ち上がる。

一瞬で行く手を遮られ、迂回しながら、必死で距離を詰めようとする。

しかし、無情にも、高速で回転する氷の槍が一斉に飛来した。

それを、盾で必死に弾きながら、時には目の前に佇む氷の壁を障害物とし、撃ち落としていく。

槍が一つ、二つと地面や、氷の壁と激突するごとに爆発的な破砕音が響き渡る。

それは遠く控室にまで響き、地面が揺れるような錯覚を覚えるほどだ。

濛々と立ち込める土煙が、コロシアムの様子を隠していく。

全ての槍が、撃ち込まれたとき、地面は抉れ、砕けた氷が周囲一帯を埋め尽くし、半壊した氷の壁が、冷え冷えと冷気を放っていた。

次の瞬間、氷の壁と、槍が一斉に砕け散り、きらきらと光を反射しながら空に昇っていく。

あまりにも幻想的なその光景に観客だけでなく、僕ら奴隷たちすらもまた、われを忘れて感嘆の声をあげてしまっていた。

 対照的に、コロシアムに坐する一匹と五人ははっきりと明暗が分かれた。

雪狼はゆっくりと、まるで何も意に介していないかのようにコロシアムの淵を歩き、五人を睥睨している。

対する五人の剣闘士は、緊張からか、焦りからか、肩で大きく息をしている。

一人は、恐らく氷の槍を受けそこなったのだろう、肩口からずたずたに切り裂かれ、盾を持つ手がだらりと垂れさがっている。

弱った一人の剣闘士にゆっくりと雪狼が近づいていった。

焦ったように、その歩みを見つめる彼の瞳は恐怖のためかぐるぐるとあたりを見回すようにせわしなく動いている。

その距離が一足の間合いに、もはや剣を構えて飛び込んでしまえば届く間合いまで迫ったとき、彼は、仲間の剣闘士を、絶望に震えた表情で見まわす。

「逃げろ!」

誰かが叫んだ。

弑逆の歓びに震える観客の声に掻き消されるように、眼前に雪狼を見据える男が仲間に対して、言葉を発する。

「駄目だ・・・。動けない・・・。」

その言葉が終わるや否や、雪狼は大口を開け、最後まで抵抗することなく、だらりと手足を下げていた男の喉元にかみつき、ぶちり、とあまりにも生々しい咀嚼音を響かせながらあっけなく殺してしまった。

ぐるりと、口元を、垂れる鮮血で真っ赤に染めながら闘技場に佇む残りの四人を見据える。

「うわああああーーー!!!」

残された四人のうち二人の剣闘士が、剣を掲げ、無謀にも思える特攻を始めた。

「やめろ!止まれ!」

制止の声も耳に届かず、必死に駆け出す二人の表情は恐怖に彩られており、だからこそそこには必死の速さがあった。そして、その速さは後を追うように次々と生成される氷の壁の速度を凌駕し、雪狼に肉薄せんとする。

魔法の行使に集中しているのか、雪狼は、その四肢を地面から離すことなく、正面に二人を捉えたまま、佇んでいる。

その剣先が、純白に煌く毛先に叩き付けられる。

―――やったか!

我知らず、拳をぎゅっと握りこんでいた。

しかし、雪狼はびくともせず、その場に佇んでいる。振りぬいた剣閃は過たずその毛皮を切りつけたにもかかわらず、その毛皮は純白のまま、決して曇ることなく冷たい風にそよめいている。

一太刀浴びせた二人は、その事実に恐れをなしたのか、狂ったように何度もその手に握る剣をふるい続けた。

その剣が、二度、三度、閃いたとき、ぴたりと毛皮に吸い付いたまま、びくとも動かなくなってしまった。

二人の剣闘士は、顔を真っ赤に染め、必死に剣を引き戻そうとするが、その剣が動くことはない。

 瞬間、二人が吹き飛ばされた。

何が起こったか分からなかったが、吹き飛ばされた二人の眉間に、鳩尾に、拳大の氷の礫が何個も撃ち込まれていた。

雪狼が動き出す。ばきん、と何かが割れる音がし、剣が落ちる。そこには氷がうっすらと張り付いている。

「くそ!」

残った二人が、ゆっくりと距離を図りながら、ぐるりとコロシアム外縁を回る。

二人の視線の先には、雪狼の姿しか映っていない。しかし、それは当然のことだろう。その動き一つに致命の速度、威力、強さがある。

だからこそ、コロシアムにいるすべての人間の中で、誰よりも恐怖を目の前にしていたからこそ、発見が遅れた。

ひゅう、と空気を割くような音が、空から聞こえる。

見上げる空には、大きな、氷の槍が一つ、二つ・・・。数えるのもばからしいほどの量で飛来した。

必死で躱す二人は、土煙に隠れ、一瞬で見えなくなった。

濛々と立ち込める土煙が晴れると、そこに立つ者は誰もいない。倒れ伏す五人は皆血だらけで、誰も息をしている者はいない。

あまりにもあっけなく、そしてあまりにも一方的に、試合が終わってしまった。

それは、圧倒的な力の差を見せつけ、静かに佇む雪狼に恐れをなしたかのように、時間すらも止まってしまったように感じるほどの静寂の中、次第に時間が動き出したかのようにゆっくりと、だがついには、歓声が爆発した。

盛り上がる観客席とは打って変わって、僕たち奴隷たちが待機している控室には重苦しい沈黙が立ち込めている。


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