戦争九
駄目だ、もう兄さんは―――。絶望が心の中に鎌首をもたげて襲い掛かってくる。ぼんやりと歪んだ視界の中で、すでに兄は事切れたように動かない。
「おい!」
誰かが叫んだ。
「あれ見ろ!」
兄を指さし驚愕の表情を浮かべる彼らに心が揺さぶられる。
「こいつは・・・」
「一体どうなってやがるんだ?」
しかし、それは直後の疑問の言葉で戸惑いに変わった。
「ああ・・・」
その呆然としたような声に、僕は不思議に思い目尻に溜まった涙をぬぐうと、目を凝らした。
そこには相変わらずピクリとも動かない兄が横たわっていたが、その身には―――一矢たりとて矢を受けていない!
まるでその身を避けるように降り注ぐ弓矢が、兄の周りの地面を埋め尽くしていくが、その体にはいまだに傷一つ付いていない。
「ああ・・・」
「こんなことが・・・あるのか・・・?」
「奇跡だ・・・」
「奇跡が・・・起きている・・・」
「奇跡が・・・彼を守っているんだ!」
おおおお!!!
と歓声が響き渡る。
それに呼応するかのように、歩哨の上からの弓矢による攻勢が激しくなった。
いくら射ても一矢すらその身に受けないリオンはまるで戦場においてそこだけ切り離されたように一際目立って見えた。
敵は怒号に包まれ、必死で狙いを定め、弓を射る。
味方は歓声に包まれ、その身を案じながらも、絶えぬ奇跡を祈り続ける。
この時、僕は全く失念していたが、兄に弓矢が当たらないことを理解している人間が二人、そして、推測ながらもその可能性に思い至った人間が一人、その様子を見つめていた。
(よかった。アイクが作ってくれた「ファントム」の首飾りの効果はしっかりと表れてくれている。守ってくれている!)
リックがほっ、と安堵の息を吐く。
(「ファントム」の首飾りの効果はおよそ頭から腰まですっぽり覆うように風の防御幕を張ること。であるとするならば、追撃で、急所の頭と胸を狙われているリオンは無事でいられる・・・。しかし、問題はそれがいつまで保つか・・・。早く助けに行かねば!)
アイクは必死で考えを巡らせる。
(ふむ。恐らくあの首から下げている首飾りの効果だろうか・・・。切り結んだ感触もおかしかった上に、何やら魔力を感じた・・・。幼いながらに・・・面白いな)
ゆっくりと視線を向ける歩哨の上の大男は口の端を歪ませる。
「ゆっくりと隊列を組んで盾を構えながら後退しろ!リオンを救出しろ!」
アイクが常とは異なり周囲に叫ぶ。
皆驚きで一瞬その身が固まったが、「早くしろ!」と言う一声で、はっ、と我に返ると、多くの剣闘奴隷たちが、言われた通り、盾を構えながらゆっくりと後退し、リオンのもとにたどり着く。
僕はその様子を、腕を掴まれたまま、はらはらと見つめていることしかできない。
「生きている!」
「気絶しているだけだ!」
その言葉に剣闘奴隷たちの間に流れていた緊張が一瞬で弛緩する。
僕も我知らず握っていた拳をゆっくりと開き、詰めていた息をふうっ、と吐き出した。
「油断するな!今から負傷者を伴って、あの後方に敷いた土嚢まで後退するぞ!」
リックの言葉に剣闘奴隷たちが一斉に気を入れなおすと、無傷の人たちが中心となって、倒れている怪我人を運びながら、盾を掲げ、ゆっくりと後退していく。
土嚢まで下がり一息ついた僕らは傷だらけの仲間を確認していく。
アイクがリックに近づくと、布切れを手渡し、それを噛むように告げる。それを噛んだことを確認すると、おもむろに左肩をごきり、と嫌な音が鳴るほど動かし、外れた肩をはめ直していた。痛みに思わず、リックの表情がゆがんだ。
すぐに懐から丸薬を取り出すと、飲ませる。
そして、腫れ上がった左肩と、脇腹につん、とする匂いの草の汁を塗り付け、その上から布を巻いていく。
僕はそれを見ながら、横たわる兄の様子をずっと見つめていた。
兄は、生きている。
ゆっくりと胸を上下しながら、息を吸ったり吐いたりしていて、まるで眠っているようにピクリとも動かない。
先ほど、心配になり、ゆすってしまったとき、アイクから、あまり揺らすな、と注意されているので、心配ではあるが、ただ黙って見つめていることしかできない。
「恐らく今日はこのまま撤退するしかないだろう」
苦し気な口調でリックが宣言する。
その視線の先を見やると、左舷も同じように大男に蹂躙され、帝国兵士たちは侵攻を断念せざる負えなくなってしまっている。
そこからは早かった。
潮が引いていくように一気に撤退戦が始まり、盾を構えたまま左右に展開していた兵士たちが引いていく。
中央にはまだ少数の奴隷たちが取り残されていた。
彼らは愚直に正面大門に突撃を繰り返す破城槌を守りながら、何度も何度も叩き付けている。
しかし、その突撃を受ける正面大門には目立った傷はなく、突撃を受けている一部の木肌がめくれ上がり、うっすらと向こうの様子が確認できるほど隙間が空いているが、後方から見えるほど大きな外傷はないため、僕には窺い知れない。
そのとき、後ろから首がチリチリするような感覚を感じた。
思わず振り向くと、僕と同じように後ろを振り返った人々の目に飛び込んできたのは、空中に浮かぶ大きな―――、あまりのも巨大な岩石だった。
対岸から見えるそれは、圧倒的質量を誇り、数多の視線を集めながらゆっくりと回転しだした。
どんどんと回転するそれに合わせて、赤熱し、しまいには火炎を帯びるように真っ赤に燃えだす。
「ああ、まずい!今までいったい何をしていたのかと思ったが、この時のために温存していたのか!」
それは帝国兵士の中でも魔法を使う魔法部隊による一点集中の極大複合魔法のようだ。
「逃げろ!今すぐ逃げろ!」
リックが必死に正面大門に突撃する奴隷たちに声をかけるが、それはほとんど届かない。
敵味方入り混じって、それを指さし、口々に何かを叫んでいる。
ようやく周囲の異変に気付いた奴隷たちが、後ろを振り返った。
宙に浮くそれを見つめ、驚いたように見つめた後、慌てたように破城槌すら放棄し、撤退を始める。
その背に弓を射掛ける敵兵は全くいなかった。
ゆっくりと動き出した燃え盛る巨岩は、周囲の温度を急激に上昇させながら、どんどん勢いを増して正面大門に飛来する。
ずどおおおおん!!!
地を揺るがし、空気を震わせ、爆発するように落ちたその巨岩は、幾百の小さな岩石に別れ、弾け飛びながら、一瞬で中央城壁を半壊させてしまった。
ばらばらになって飛来する炎をまとった岩石によって、歩哨の上に佇む敵兵たちも、無事では済まず、爆心地に近い程、轟轟と燃える火にまかれ、もしくは飛来した岩石に潰され、ほとんどの兵士が息絶え倒れ伏している。
必死で逃れた奴隷たちも、中には飛来した岩石に運悪く押しつぶされ死んでしまった者もいた。
その光景に皆が唖然とする中、帝国兵士たちから大きな歓声が上がった。
勇み足に再度、突撃を行おうとした帝国兵士に、鐘が打ち鳴らされた。
「鐘の音が五度、これは・・・撤退の合図か・・・」
誰とはなしに、一斉に対岸に引き上げる。僕らも兄とリックを抱えたまま必死で岸を渡り、対岸の天幕まで撤退する。
知らぬ間に、日はすでに傾き、血のように赤い夕陽が敵の城壁を、川原を、そして空さえも真っ赤に染め上げている。
天幕に着いたとき、兄がゆっくりと目を覚ました。
「う・・・ん」
薄眼をあけながら、ゆっくりと体を起こそうとする。
「兄さん!大丈夫?」
僕は思わず、詰め寄って肩を抱きあげた。
「おい、大丈夫か?」
「急に動くな!まだ寝てろ!」
リックとアイクの言葉に、兄はぼんやりとしながら、ゆっくりと問いかける。
「そうか・・・まだ生きていたんだ・・・」
「ああ、まだ生きているよ!兄さんはまだ生きているんだよ!」
感極まって思わず泣いてしまう僕に兄はゆっくりと手をあげると、頭を撫でてくれた。
「ああ・・泣くなよ・・・生きて帰るって約束したろ?」
兄の言葉に目頭が熱くなってきた。
「本当にあの場面から生き残るとはな・・・。神に祝福でもされているのか?」
不意に聞こえた声に後ろを向くと、セルバが立っている。その顔は安堵の色が窺え、喜色が浮かんでいる。
「おい!リオンが起きたってよ!」
「みんな!リオンが起きたぞ!」
「おお!無事か?」
「分からねえ!」
「なんだそれ!」
次々と天幕をのぞき込むように多くの仲間たちが押し寄せてきた。
彼らは皆不安そうな表情を浮かべ、口々に兄の心配をしている。
兄は心配そうに自分の顔をのぞき込む多くの人々に笑顔を浮かべながらゆっくりと口を開いた。
「足と・・・頭が痛い・・・」
その言葉に一瞬ざわざわとなったが、アイクがゆっくりと口を開く。
「足には目立った外傷はない。骨にも異常はないし、腫れもない。恐らく落下した衝撃を転がることで分散したんだろう・・・。頭も軽い脳震盪だ。安静にしていれば治るだろう」
皆がゆっくりと息を吐き出した。
「なんだよ驚かせやがって!」
「そりゃ十メートルも落ちたんだ!足が痛いで済んでいるだけましさ!」
「よかったな!死ななくて!」
「ああ!ゆっくり安静にしていろよ!」
「あんなに大口叩いていたやつに死なれたら寝覚めが悪かったことだ!」
悪態をつきながらもがやがやと騒ぐ彼らは、日が暮れるまでリオンの様子を心配そうに窺い、いつまでも賑やかなまま日が暮れていく。
こうして長かった僕らの一日が終わった。




