魔導姉弟九
はっ、と勢いよく起きてみれば、ほとんど時間はたっていなかったのだろう、小屋の隙間から見える月の位置は変わっていない。そして、スバルは、まだ生きていて、それでも先ほどと変わらず苦しそうに呻いている。
「なんだったんだろう・・・・?」
嫌にはっきりと夢を思い出せる。どうしてあんな夢を見たのだろう?
なんだか、体を動かしたくなって、スバルには申し訳ないが、小屋を出てみた。
すると夜空には、見たこともないほど、紅い月が出ていて、驚いた。
ふと視線を向けると、一体どうしたと言うのか、ぽつんと波間に、夢で見た小舟が浮かんでいた。
しかし、夢とは違って、誰も乗ってはいない。
ゆっくりと近づいて行って、再び驚く。
海に映った月は、夜空に浮かぶ月とは全く違い、見たこともないほど美しい金色で、まるで道のように果てまで光が繋がっている。
どうしてだろう?
私は気付けば、小舟に乗っていた。
きい、と小さな音が聞こえたと思ったら、櫂も、帆も何もないのに、ゆっくりと小舟は浜辺を離れる。
小舟はそのまま、黄金に照らされた道を、ゆっくりと進んでいく。
はるか遠くに、ぽつんと一つ、島が浮かんでいる。
あんな島、今まであったっけ?今まで来たこともない島だったけれども、この時は不思議と、怖くはなかった。そして、この時は、スバルを残してきたことを、全く忘れてしまっていた。
遠くの浜辺で、誰かが何かを叫んでいる気がした。
それでも、私には、そんな声なんて一切届かなくて。ただ、ただ、小舟に揺られ、夜の海を進んでいく。
(街に暮らす漁師の男)
この街から見る海には、絶対に近づいてはいけない海域がある。特に漁師の家で生まれ、育った俺には、それは子供のころから刷り込まれてきたことだ。
俺たちが子供のころは、おばばが、母が、普段は口数の少ない厳格な父ですらも、口を揃えて話すのだ。
―――ホウライ島には決して近づくな、あそこは神の住まう島で、人の身では決して足を踏み入れてはいけない、いや、足を踏み入れることさえ敵わない島―――。
事実、俺が、立派に船乗りになってから、中堅と呼ばれる今の今まで、毎年誰か数人は、あの島目指して船を出すのだ。
時には、無謀な街の若者たちが、時には傲慢な貴族が、そして時には、馬鹿な傭兵達が、あの島目指して船を出す。
そして、霧の中に姿を消した彼らは、一月以上、長い時には二月以上延々とその中を彷徨い、ようやく姿を見せたと思ったときには、気が触れているか、死んでいるか、衰弱しているかのどれかの道をたどっている。
この街に住む漁師、船乗りにとっては、禁忌とされる島、それが、ホウライ島なのだ。
だが、そんな島にも、まことしやかに囁かれる伝説が一つある。
それは、数百年に一度、神が人を呼ぶ時があり、神に呼ばれた人間はその島に行くことができる、と言い伝えられている。
―――どうやったら神様に呼ばれるの?
幼い時分、何年生きているのかさえ判然としなかったおばばにそう聞いたときに、おばばはただ真面目な顔でぼそりと呟いていた。
―――祈りを捧げるのじゃ・・・・。神様に祈り続けるのじゃ・・・・・。しからば、望むものに、手を差し伸べてくれるじゃろう・・・・。
あれから、毎日、神々に感謝することを欠かさないようにしている。
それでも一向に祈りが届いたためしはない。
近年では、暮らし向きもだんだんと悪くなってきていて、嫁にもらった奥さんも、毎日嘆いている。
「ぎゃーーー、ぎゃーーーー・・・・!!」
最近生まれた子供が、泣き出してしまった。
「ああ・・・はいはい・・・・。どうしたの?」
あやすような女房の声と、赤子の甲高い泣き声に、微睡の淵からたたき起こされてしまった。
しかし、どうして、今、ホウライ島のことを考えていたのだろう?
眠い頭で考えてみたけれど、何だか落ち着かない気分になるだけで、一向に答えにはたどり着かない。
気付けば、赤子は泣き止んでいて、きゃっきゃっと嬉しそうに、はしゃいでいる。
―――夜空に月が紅く輝き、海に黄金の月が映り、その黄金の月が照らす道を進めば、ホウライ島にたどり着ける。それは、神様が、作ってくださった道だから―――。
どうして、今になって思いだしたのだろう?どうして、今の今まで忘れていたのだろう?
ふっ、とあの時おばばが話した伝承の続きが思い起こされた。
誰が言い出したのかもわからない。あの島に入島できた人間など未だかつて聞いたことが無い。だから、大きくなるにつれ、俺は、おばばが作り話をしていると思って、気付けば、記憶の奥底に押し込めてしまっていたのだ。
「どうしたんだろうねえ?この子がこんなにも簡単に泣き止んで・・・・・」
耳元で聞こえた女房のつぶやきに、もうしばらくは寝付けないと思ったので、問いかけることにした。
「どうしたんだ?」
すると、背中越しに慌てたような声が聞こえた。
「あら!あんたごめんなさい!!起こしてしまったかい?」
「いや、いいんだ。ところで、珍しいのか?」
「ああ。この子にしちゃ珍しいね・・・。夜泣きしたら、滅多に泣き止まなくて、いつも熟睡しているあんたに悪いと思って、外に出るんだよ」
そんなことまでしていてくれたのか・・・・。頭が下がる思いがする。俺が漁師で、朝が早いと言うのを理解しているのだろう。自分も、普段は子供の世話で忙しくて、おまけに夜泣きで起こされて、よく眠れもしないだろうに・・・。
「なんだか、今日は随分と機嫌がいいんだよねえ?何かあったのかしら?さっきから、ずうっ、と空を指さしているし・・・・」
空を指さしている・・・・?変な話もあるもんだ・・・・。空にいったい何があると言うのか?
気になったので、ゆっくりと起きだして、窓辺に近づいていき、なんだか、いつもとは違うような空を見上げる。
そこに浮かんでいたのは・・・・・。
―――血よりも紅い、真っ赤な月・・・・・。
平時であれば、薄い色味の青や、黄色、そして白であるはずなのに・・・・。そこに浮かんでいたのは、不気味に輝く真っ赤な月。
「なんだこれは・・・・!?」
呆然とつぶやいた俺の横に、女房は不思議に思ったのだろう、ゆっくりと赤子を抱きかかえて、近づいてきて、同じように空を見上げると、固まる。
「一体・・・・?これは・・・・?どうしたっていうんだい・・・!?」
煌々と、夜空を真っ赤に染め上げる月は、まさに、伝承通りで、思わず、外に走り出る。
赤子を抱えたままの女房も追ってきたが、そんなこと一切気にならない。
赤子は先ほどから、ひどく上機嫌で、空を見上げては楽しそうに声をあげて笑っている。
気付けば、海まで走り抜ける途中で、顔なじみの漁師や船乗りたちと合流し、数十人規模の塊となって、息を切らしながら海辺に駆け付けた。
空を映して海にぽっかりと浮かぶ月は、どうしてだろう?見たこともないほど光り輝いていて、なぜ、空を映しているだけの海に、色味が全く違う月が浮かんでいるのか?呆然と見つめるが、答えは見つからない。
まるで、それが当然とでもいうかのように、光り輝く月は、金色に海を照らし、そこには、細い、細い、一本の道ができていた。
それは、今にも波にさらわれて消えて無くなってしまうのではないか?と思うほどに細く、頼りなく、それでいて、ゆらゆら、ゆらゆらと、一向に途切れることなく島まで続いている。
そして、浜辺から、島までの途上を一艘の小舟、と呼んでも差し支えないほど小さな船が、とても顔立ちが整った若い女性を乗せたまま、ゆっくり、ゆっくりと進んでいく。
光り輝く月の道に照らされ、夢でも見るかのような表情で船に乗る彼女は、どこか神秘的で、神々しく、神の使い、と言われても納得してしまうほどの美貌を湛え、見とれるほどに美しく、遠ざかっていく。
「神様に・・・・呼ばれているんだ・・・・・。ホウライ島に・・・・行くんだ・・・・」
誰かがつぶやいた。その声がさざ波となって広がると、真っ先に飛び出したのは、年若い男。無謀で、そして何より、粗野なことで有名な、街一番の嫌われ者。乱暴者で、弱い者いじめが好きで、残忍で、強欲。
どうしてここにいるのか、分からなかったが、彼は手近にいた漁師に掴みかかると、吐き捨てるように叫ぶ。
「船を貸せよ!!」
「でも・・・・・」
余りの剣幕に怯える男をしり目に、きりきりと襟首をつかんで締め上げた男は、更に狂ったように叫ぶ。
「いいから早くしろ!!でねえと、道が無くなってしまうだろうがよ!!ホウライ島に行く滅多とない機会なんだぞ!!??怖気てんじゃねえよ!!馬鹿が!!それに、あの小娘には貸せて、俺様には船の一艘も貸せねえとはどういう料簡だこら!!?」
今にも殴りかからんばかりの勢いで詰め寄る男を、普段の態度もあるので、懲らしめる意味もかねて、ここにいる漁師、船乗り、皆で殴り倒してやろうか、とも思ったが、止めた。
視線を合わせれば分かる。皆が何を考えているのかを・・・・・。
激昂する男の肩に、ポンと手を置いたのは、街でも一番熟練の船乗りだった。
「おい、兄ちゃん。そこまでにしときな。船は貸してやる。あそこにある櫂式の小舟を使え。俺の船だが、兄ちゃんにくれてやるよ」
男はすぐさま目の前に締め上げていた漁師を離すと、指示された小舟まで駆け出す。
「おっさんありがとうな!!後で返せって言われても返さねえからよ!!」
その言葉を捨て台詞に、必死に月の照らす道へと漕ぎ出した男を俺たちは黙って見送る。
女房が恐る恐る口を開いた。
「あんたは行かなくていいのかい・・・・?」
聞けば、そこかしこにいた女たちが、同じように亭主をせっついていたが、それでも俺たちの答えは決まっている。
「行っても死ぬだけだ・・・・」
それで俺の女房は納得してくれたのか、それ以上は何も言わなかったが、うちの気立てのいい女房とは違って、気の強い女なんかは、そんな旦那を弱腰だと詰って言い募ろうとしたが、それを、さきほど船を貸した熟練の船乗りが押しとどめる。
「止めろ!!女には分からんだろうがな、俺たち船乗りってのは、言い伝えだったり、自分の直感だったり、何より禁忌を人一倍気にするんだ・・・・。海ってのは、陸と違って、一瞬で命を落とす危険な場所・・・・。すべてに意味があるんだよ・・・」
俺が言いたいことは、いや、俺たちが言いたいことは全て彼が代弁してくれた。彼に言われては、女たちもすごすごと引き下がるしかない・・・・。
神に呼ばれなければ、決して近づくことすらできない未知の島。それが、今、その全容を隠すようにかかっていた霧が晴れて、姿を現しているが、だからと言って、俺たちが行けるはずなどないのだ・・・・。
そして、それは、やはり、正しくて・・・。
「おい!!なんだよこれ!?誰か!!誰か助けてくれ!!!」
先を先をと必死に櫂を漕いでいた先ほどの男は、月が照らす道に乗ったとたんに、焦ったような叫び声をあげる。
何も起こっていないように見える。
ようく目を凝らしても、一見して、その男には何も異変は無いように見受けられる。
でも、違った。よくよく見ていて気付いた。異変に。
絶対にありえない。見たこともない異変に。皆が気付く。
「なんだよ・・・・あれ・・・・?」
「う・・・・そ・・・・でしょう・・・・?」
船の底、まるで奈落の底のように黒々と渦巻く海底から、何本もの、真っ黒い手が、伸びてきて、男の足を、腕を、全身を、つかんで離さない。
それは、まるで死の淵に誘う死神の手のようで。細く、あまりにも細いその腕は、女子供の手のように見えて。いや、何本も伸びるその手は、いっそ、烏賊や蛸の触手のように見えて・・・。
ただ、ただ、不気味だった。
そして、男は、必死に船底にしがみついていたが、ついに船ごとひっくり返って昏い海の底に引きずり込まれていく。
いつまでたっても上がってこない。
あれはもう・・・・生きてはいないだろう・・・・・。
ざばあ、と音を立て、転覆したはずの小舟が、元通りにひっくり返る。
その上には、何の姿もなく。まるで、悪夢のように、昏い波間にただ、一艘の船が、ぽつんと、漂う。
視線を転じれば、その先にいた女の子は、すでに点のようにしか見えず。それでも、これだけの光景を見せられれば厭が応にも理解してしまう。
―――神に誘われし娘・・・・か・・・・。
それ以上は、見届ける必要が無い。そう思った俺たちは、誰が言い出すでもなく、自然と示し合わせたように帰路に着く。
終始無言で、夢の続きを見ているみたいで、後にして思えば、何かに操られていたのかもしれない、と思わなくもない。




