試合三
始まってしまった。ついに幕が上がり、その全容が明らかになったが、「バーサクベアー」と「フォレストパンサー」だ。
「大丈夫か?」
隣に立つ兄が、こちらに気を使い問いかけてくる。
「うん」
「そうか。お前は「フォレストパンサー」の相手をしてくれ。俺が「バーサクベアー」の相手をする」
「え?でも・・・」
「来るぞ」
それ以上は何も伝えられない。もうすでに魔獣が数メートル先まで迫っている。
兄はまっすぐこちらからバーサクベアーに立ち向かうと、タックルをひょいと躱し、次いで襲い掛かってきたフォレストパンサーすらも軽々躱したのち、バーサクベアーに振り向きざま一太刀浴びせる。
もちろんその斬撃は浅く、分厚い毛皮に阻まれ傷つけることすらできないが、注目を向けさせることには成功し、そのすぐ後に続く僕が、フォレストパンサーに近づきざま正面から一太刀浴びせ、すぐに兄とは引き離すように側面に離脱する。
もとよりこの作戦は決めていたことだ。
お互いに間合いが被らないように距離を離し、魔物の注意を向けさせ一対一の状況を作ったら、兄が相対する魔獣を倒している間、僕が深追いしないように回避と受けに徹し、二対一の状況になるまで粘る。
ここまでは昨日話した作戦通りうまく運んでいる。
しかし、僕にとって唯一の想定外だったのは、兄がバーサクベアーのほうに向かっていったことだ。
「フォレストパンサー」は森林で生存することに特化した、いわば隠密性の高い魔獣である。その体毛が暗緑色と黒と焦げ茶色の混ざり合った色彩であり、それほど俊敏性はなく、単純に一撃で相手をしとめることができるように腕力は強いと言われている。しかし、ここは得意とする森林ではなくコロシアムの闘技場のため、その最たるアドバンテージは優位に働かない。唯一警戒するとすれば、その爪や牙から獲物を弱らせる神経毒を生成することができるそうだが、先ほどの突進を見た限りでは決して避けられないほどの速さではないため、持ちこたえることはできるだろう。
「バーサクベアー」は俊敏な魔獣で、かつ、腕力も強い。それだけにとどまらず、この魔獣の最も警戒する点は、「身体能力強化」魔法である。普段はその身に魔力を流し、身体能力を強化しながら獲物を追い詰めるが、「バーサク」の名を冠するように、己が追い詰められたとき、まるでその命を削るように魔力を過剰に流し身体能力の強化を倍加させていくと言われ、手負いの「バーサクベアー」程怖い魔獣はいないとされている。よって、この魔獣は、一撃で、もしくはできるだけ素早く討伐することが望ましい魔獣であると言われている。
このことから考えても、危険度はバーサクベアーのほうが圧倒的に上であるので、僕ができるだけバーサクベアーを傷つけないように、刺激しないように引き付けるのかと思っていた。
しかし、今となってはすべてが始まってしまったことだ。後悔することはもうすでにできない。
であるとするならば、僕ができることは兄を信じて、目の前の魔獣、フォレストパンサーを全力で引き付けることである。
こうして、僕らの生死をかけた死闘の火蓋が切って落とされた。
フォレストパンサーが僕に向かってその右腕をふるう。ぶんっ、と空気を割くようにうなりをあげるその右腕を、余裕を持って回避する、いや、したつもりだった。
しかし、その爪先が僕のこめかみ近くを通り、危うくかすめそうになった。
ぶわっ、と爪が通ったこめかみ近くから嫌な汗が噴き出した。
ずいぶん余裕をもって避けたつもりだったが、攻撃が思いのほか「伸びて」きた。
僕は魔獣や猛獣との戦闘経験が少ないため、その間合い取りが難しい。
人と戦う時とは違い、その体格差が大きいため、少し魔獣が踏み込みを深くするだけで、もしくはその右腕の振り下ろしに肩を入れるだけで、たやすく開いたはずの間合いがつぶれる。
今の初撃はかなり危なかった。今度からはできるだけ後ろにではなく、横に間合いを取るようにすることと、できるだけ盾で受け流しをすること、それを徹底しよう。
まだ始まったばかりだ。決して避けられない速さの攻撃ではない。むしろ、リックや兄の剣撃のほうが圧倒的に速い。
「さあ、来い!」
気合い一声、すでに僕の意識の中には目の前の魔獣と僕以外見えなくなっていった。
噛みつきをひらり、と左にステップすることで回避した僕に、左の後ろ脚で強烈なけりが放たれたが、蹴り足の進む軌道を先んじて踏むことでその射程から逃れる。
闘技場の地面を割るほどの叩き付けが猛烈な速度で襲ってきたが、横飛びに回避する。
右腕の切り払い、左腕の切り払い、噛みつき、突進、蹴り、およそ想定される攻撃をすべて回避して見せる。
おそらくいら立ちを募らせたのだろう、幾重にもつなげる攻撃の嵐を、回避と、盾による受け流しで、防いで見せる。
こちらを叩きつぶさん、とする全力の一撃を、必死になって飛びのくことで何とか凌いで見せる。
何度その身を引き裂かんとする爪を受け流しただろう、何度その身を食らわんとする、噛みつきを避けただろう、その一撃一撃が、ひどく重く、こちらの命など一瞬で掻き消えてしまう鋭さを、強さを持っている。
だからだろう、必死でしのいで見せる僕も、全く攻めに転じていないにもかかわらず、どんどんと消耗していく。
今となってはその額に大粒の汗をかき、零れ落ち、瞳に入る汗は視界を悪化させひたすらにうっとうしい。
纏っている粗末な服が汗を吸いひたすらに重く、いやに肌にまとわりつく感触がする。
手に持つ剣と盾が汗で滑る。
いや、汗だけのせいではない。ぎゅっと強く握りしめすぎていたためか、握力が抜けてきて、手に力が入らない。
どれだけの攻撃を防いだのだろうか?間断なく振るわれるその四肢が、まるで無尽のように疲労を見せない。
いら立ちを浮かべる魔獣の表情に、怒りや憤りといった感情は存在するようだが、焦りや不安、そして消耗の様子はまるでない。
ただ傲慢に、ただ尊大に、目の前にいる矮小な存在を叩きつぶす。そのために振るわれる腕が、足が、頭が、体が、時間をかけるほどに鋭く、早くなっていくように感じられる。
いや!相手が鋭くなっているのではなく、自分が遅くなっているのか!
ここに来て初めて僕に焦りの感情が芽生えてきた。
「まだか・・・」
ちらりと視線を向けると、兄と対峙するバーサクベアーは全身にかすり傷を負っているが、まだぴんぴんとしており、その鋭さは、強さはみじんも衰えていない。
兄はいったいどうなった?焦りに突き動かされるように視線を転じたその先には、バーサクベアーの苛烈な攻めをひらり、ひらりと躱しながら、的確に攻撃を当てている兄の姿が映る。
実のところ、まだ始まって十分と経っていない。
ただ、初めて生死をかけた剣闘試合を行った二人は、その極度の緊張から、普段であればたいしたことないわずか十分にも満たない時が、永遠に感じられた。
そして、その一瞬の隙を見逃してくれる程魔獣は優しくはない。
僕が目を離した一瞬で背を向けていた魔獣が、僕の目前にまで迫っていた。
あっ、と思って盾を構えた時にはすでに遅く、放たれた右腕が強かに直撃すると、そのあまりの衝撃に左腕がしびれてしまい、僕は手に持っていた盾を思わず取り落としてしまった。
右手に剣を一本構えたまま、後ずさりするように身を引きながら、その後の左腕による切り裂き、噛みつき、突進を必死に避ける。
そのとき、僕は誰かの叫び声を聞いた気がした。
ふと気が付けば、間近に獣の唸り声が聞こえる。
はっ、となった僕の耳に兄の叫びが飛び込んできた。
「おい!早く離れろ!」
その声に目を転じると、数メートル先で兄が、バーサクベアーと対峙している。
まずい・・・。そう思った僕はすぐにフォレストパンサーに向き直るが、その距離はすでに手を伸ばせば届く距離まで迫っていた。
ああ、死ぬのかなあ・・・。
こちらを飲み込まんと開いた口の中がはっきりと見える。
兄さんと一緒なら怖くはない・・・かな?
その諦めの思考が浮かんだ一瞬、僕の背後から大音声が響く。
「諦めるな!」
兄の言葉が耳に届き、その言葉を意識するかしないかのうちに、自然と右手が前に突き出た。
その手に握られていた剣はいったいなんの偶然か吸い込まれるようにフォレストパンサーの左目に突き刺さる。
「ガアアアアアア!」
フォレストパンサーの苦悶の叫びが僕の脳を揺らすほどにガンガンと近距離で響く中、ふっ、と体が持ち上がる浮遊感を感じるが、時すでに遅く。
左目に突き刺した剣を握りしめたまま僕は体を持ち上げられ、振り回される。
どんっ、と背中に何かがぶつかった。その衝撃に一瞬息が詰まり、思わず握りしめていた剣を手放してしまった
背中にぶつかった何かも一緒に吹き飛ばされ、僕は気付けば無手のまま闘技場の壁際に転がっていた。
その横には兄も同じような体勢のまま転がっている。
「ギャウン!」
肉と肉がぶつかるような大きな音が響き、何かと思って目を向けると、対峙していた兄を仕留めようと大きく振りかぶったバーサクベアーの一撃がフォレストパンサーの脇腹を抉り、吹き飛ばしている。
吹き飛ばされたフォレストパンサーは左の脇腹から大きく出血し、左目には剣を突きたてたまま、それでもなお立ち上がると、その目に憎悪をたたえたまま、目の前から消えた兄を捕捉しようとこちらを向いたバーサクベアーの側面めがけて噛みつき、その顔面めがけて爪を突き立てる。
「ガアアアアア!」
痛みに一瞬で振り向いたバーサクベアーは、食らいついているフォレストパンサーを力づくで振りほどくと、お互いに数メートルの間をおいてにらみ合いを続ける。
「やった・・・か?」
「もしかして・・・このまま殺しあってくれるのか?」
僕らはお互いに一瞬見つめあい、呆けてしまった。
そんな僕らに無慈悲な言葉がかけられる。
「貴様ら何をしている!敵は目の前の矮小な小僧二人だ!早く食い殺せ!」
それは僕と兄に向けられた声ではない。魔獣に向けられた言葉だ。
しかし、蜂の巣をつついたような騒ぎの闘技場に確かにその声は届いた。
平素であれば、いや、どんな声であろうが、この観客席の喧騒にかき消されてしまうであろう声が、なぜか僕らには鮮明に聞き取れた。
その言葉は間違いない、レイモンドの声だ。
その声が闘技場内に聞こえた瞬間、今までにらみ合っていた二匹の魔獣がまるで嘘のように視線をそらし、こちらを振り向く。
「ああ・・・、どうして?」
「見てみろ!あの二匹の首に隷属の首輪がはめられている」
なんてことはない。この二匹の魔獣もようは同じだ。僕らと全く違わない。ただのレイモンドの奴隷だ。
そのことがひどく悲しい。ただし、今は魔獣に同情する暇はない。生死をかけた戦いが再び切って落とされた。




