試合一
大人が十人は入れるほど大きな鋼鉄の檻がその日、コロシアムに運ばれてきた。
周りを固めるのは物々しい鎧に身を固める帝国兵士。
彼らはその檻に忌々しい目線を向けながらも、一糸乱れぬ歩みでコロシアムの中を進んでいく。
時折、その中から、縛めを破壊し、飛び出さんとする鋼と鋼がぶつかるような固く鋭い音が聞こえてくる。
檻は二つ、どちらも同じ大きさの檻だが、外から黒い布がかぶせられており。中に「何」がいるのかうかがい知ることはできない。
「ガアアアア!!!」
それを目にした剣闘奴隷たちは、しかし、口々に噂する。
「また魔獣が運び込まれてきたな」
「ああ、しかも二体同時とは恐れ入る」
「今回は誰が挑まされることやら・・・」
「ああ、俺でないことを祈るしかないぜ」
「一対一か、それとも二対一か、誰か賭けてみないか?」
「やめろよ縁起でもない・・・。せめて人間側が二人の二対一であることを祈っていろよ」
「そして、それが自分じゃないことを・・・な」
それは、コロシアムの地下に消えていく。多くの帝国兵に伴われ消えていったその魔獣のうわさは、その日のうちに全奴隷たちに広がり、その場にはいなかったシリウスもまた、兄とリックからその噂を聞かされた。
「今度は何の魔獣と剣闘試合させられるんだろうな?」
時たまレイモンドが、いや、帝国貴族たちが面白がる興行の一つとして、魔獣と人との命がけの試合がある。
普段は人と人が、相手を気絶させるか、殺すか、もしくは降参するまで戦いあうという剣闘試合が主な興行だが、それだけでは観客に飽きられてしまうため、強い剣闘士一人対数人の剣闘士、もしくは精強な「帝国兵士」対「剣闘士」といった試合が組まれ、観客を飽きさせない工夫がされているが、中でも一番人気のある試合は、「魔獣」対「人」である。
それはもはや悪夢といっていいものである。
魔獣と正面切って一対一で戦える人間などほとんどいない。
ましてや、それが「暗黒森林」のように深い木々の中で行われる「狩り」ならいざ知らず、丸く縁どられ、魔獣や猛獣が暴れてもいいようにかなり広く作られていると言っても、限定されたフィールドの中で、何も障害物がない開けた視界の中で、只人が、魔獣に敵うわけがない。
「『ファントム』ほど強くないのはせめてもの救いだな」
アイクが放った言葉は皆の胸に重く突き刺さる。
あの時からすでに二年がたち、時の流れの中で多くの奴隷たちは忘れてしまっているとはいっても、僕らにとってはやはり苦い思い出でしかない。
二年たち、十歳となり、あの時から身体も大きく成長した僕も例外ではない。
「あんなに強い魔物がそうそう捕まってたまるかよ」
ふんっと鼻を鳴らしながら強がる兄はいまだ僕よりも強く、僕よりも大きく、その背中はあのころから何も変わらず、どれだけ追いかけてもなお遠いままだ。
「リオンの言う通りだな。しかし、まだ何も決まっていないんだから今から戦々恐々としても始まらない。俺たちにできることは、訓練を積むこと、ただそれだけだ」
皆に平等に、その「理不尽」は牙をむく。
「魔獣」対「人」、この興行は魔獣が息絶えるまで行われる。そして「人」側に敵うすべはなく、一種の勝ち抜き戦のように行われるその試合は、挑んだ剣闘奴隷たちはほとんど死んでしまう。そして何人もその命を散らし、流れた血、積みあがった死体の先、魔獣が疲弊したとき、ようやく勝つことができる。
誰もが一番手を嫌がる。だからこそ、無情に、無慈悲にその試合が行われる直前に指名がなされる。未だそれを知るすべはないが、誰もが一番手を嫌がり、戦々恐々とした夜が明ける。
翌日、コロシアム観客席を掃除していた僕と兄さんはこの剣闘場の主であり、帝国でも限られた「隷属魔法」使いのレイモンドに呼ばれ、彼の執務室まで連れられて行くことになる。
僕と兄の横を屈強な兵士が固め、「付いてこい」とぶっきらぼうに呼びかけられて時はいったい何があったのかと思ったが、コロシアムを中心に位置するその血なまぐさいこの場には不釣り合いなほど豪奢な扉を見たとき、僕は最悪の予想が的中しないように心の中で必死に祈っていた。
隣に立つ兄も余裕がないのだろう、わずかに青ざめている。
「レイモンド様、お連れしました」
僕の隣に立つ兵士が扉をノックしながら告げる。
「入れ」
低く腹の底に響くような声に扉を開けると、一面に広がる、等間隔に鉄格子がたてられた大きな窓を背景に、机に向かって何やら書類を書き留めている男がこちらを向く。
瞬き一つしない無機質な大きな瞳に、蛇のように細い鼻孔、大きく横に広がった口元は一文字に引き結べられ、およそ表情という表情が欠落している。
目線を合わせた瞬間、背筋がぞわりと粟立つ気がした。思わずぶるりと身震いしてしまう。
こちらをまっすぐに見つめるレイモンドは、まるで表情を変えずに用件だけを伝える。
「貴様らには、明日、剣闘試合をしてもらう。相手は「暗黒森林」で捕らえた魔獣二匹だ」
そう言うともう用は済んだとばかりに先ほど書き付けていた書類に目を落とす。
「え?」
呆けたように立ち竦む僕と兄は思わず問い返してしまった。
ゆっくりと目をあげるレイモンドは一瞬非常に不愉快そうな表情をするも、僕が瞬きする間に無表情に戻ると、有無を言わさぬ口調で告げる。
「二度は言わせるな」
「でも・・・」
言い募ろうとする兄に、「黙れ」と無情な言葉をかける。
「弟の・・・シリウスは・・・まだ試合に・・・」
その「命令」に反抗した兄は今、おそらく激痛に苦しんでいるのだろう、顔をゆがめ、脂汗を額に書きながらも懸命に言葉を紡ぐ。
「分かったならさっさと消えろ」
しかし、その言葉を負えないうちに、横にいた案内の兵士たちに手を振ると、彼らは力づくで僕らを退却させようとする。
「レイモンド様の手を煩わせるな!早く出ていけ!」
そう言って無理やり腕を取られ室内から退室させられる僕らは無力だった。
無理やり掃除に戻らされた僕らを待っていたかのように剣闘奴隷たちがいったい何があったのかと聞いてくる。
「おい、お前ら何の用件で呼ばれたんだ?」
「明日の剣闘試合のことだよ」
明らかにいらだった様子の兄に皆まさかという表情をし、恐る恐る尋ねる。
「まさかお前ら・・・選ばれたのか?」
何に、とは聞かない。誰もがみな知っているからだ。
「ああ、そうだ。俺とシリウスは明日、魔獣と戦う」
その言葉に飛び交うのは悲鳴か、怒号か、はたまた歓喜の声か。
「はあ?なんだと!お前らはまだ成人していない子供じゃあないかよ!」
「お前らはまだ剣闘試合に出場したこともないだろう!なんで初めての試合が対人でなく対魔獣なんだよ!おかしいだろう!」
「いったい何を考えているんだよ!」
僕らの代わりに怒ってくれる人たちがいる。しかしそれとは逆に、喜んでいる人たちもいる。
「ああ、よかった。これで、俺が一番手に戦うことはなくなった」
「お前ら頼んだぞ!」
「できるだけ手傷を負わせてくれよ!」
「死んでしまったとしても後に戦う人間のために相手を消耗させるんだぞ!」
様々な思惑が交錯する中、人波をかき分けるようにリックとアイクが近づいてきた。
今まで騒がしかったあたりが一瞬で静かになる。騒ぎの真ん中にいる僕らは、ただ二人が目の前に来るのを見ていた。
「どうした?」
リックが口を開く。
「俺とシリウスが明日剣闘試合に出場する」
「相手は?」
「運ばれてきた魔獣二匹だ」
その言葉に一瞬押し黙ると、「そうか」とだけ言い残してその場を去ろうとする。
僕らはそのリックとアイクの姿に思わず呆けてしまうが、兄が、引き留めるように言葉を発する。
「そうか、ってそれだけかよ!それ以外何も言ってくれないのかよ!」
その言葉にリックの歩みが止まった。
「冷たすぎるだろう!俺も、シリウスももしかしたら明日死んでしまうかもしれない!俺にはどうしていいか分からない!教えてくれよ!俺とシリウスはどうすれば生き残れるんだよ!」
普段は冷静な兄がこんなにも声を荒げている、という事実に驚いてしまうが、それよりもなお、こんなにも弱気な兄を見るのは初めてかもしれない。声が震えている。くしゃくしゃにゆがんだ顔からは、泣き出しそうな幼ささえうかがえる。
兄の言葉にくるりと振り向いたリックの表情は、怒っていた。ほとんど無表情に近いが、それでもなお、これまで五年近くも身近で一緒に過ごしてきたのだ、だからこそ、わかってしまった。今、リックは怒っている、もはや激怒していると言ってもいいくらいに怒っている。
「泣いて懇願すれば何とかできるのか?」
無情にもかけられた言葉にではない、そのあまりの声の冷たさに、僕も兄も思わずびくりと体を硬直させる。
「レイモンドに泣きながら懇願すれば試合がなくなるのか?ここにいる誰かに泣いてお願いすれば代わってもらえるのか?」
そんなことは分かっている。これは僕らの癇癪だ。どうしようもないとあきらめることができないから周りに当たり散らしているだけの、只のわがままだ。
「俺に泣きながら怒鳴り散らしたら何とかしてくれると思ったのか?俺たちは奴隷だ!見ろ!この首にかけられた従属の証を!これは俺たちが人ではなく、物だということの証だ!立ち向かえ!もうすでに引き返すことができないなら、押し通るしかないんだよ!」
「俺は・・・そんなに強くないから・・・。弟を、いや、自分の命すらもなくしてしまうかもしれない。怖いよ・・・。どうしたらそんなに強くなれるんだよ?」
兄のその言葉に今までこらえていたものがあふれ出してしまう。隣を見るとふるふると震える兄の瞳からも大粒の涙が零れ落ちていた。
「今日の午後の訓練で教えてやる」
そうつぶやくとリックとアイクはもう何も言わずにその場を後にした。
周りに集まっていた剣闘士たちはいっせいにさあっと解散し、僕らは二人だだっ広い観客席に取り残されてしまった。
今はただ、何もないこのスタンドが明日になれば多くの人で埋め尽くされる。
明日、僕らはこの一段高いスタンドから見下ろされながら生死をかけた剣闘試合をするかと思うと、不安と緊張に押しつぶされそうだった。




