勉学一
翌日の朝、僕は日も昇りきっていない早い時間に起こされ、屋敷から海まで走って行き、そして同じように走って戻ってきている。
先頭を走っているのはアベルだ。
どうやらいつも朝早くから起きだしてこうして訓練の一環として走ることが習いとなっているようで、その足取りに不安は一切なく、確かなものだった。
アイクは少し眠いのだろう、息が上がっているようだったが、走り出してしばらくたつと、どんどんと足取りが軽くなっていく。
何より一番驚いたのはフレイアが一緒に走っていることだった。
それも彼女は一切遅れることなく僕らに付いてきており、今も、遅れるような様子もなければ、無理をしている様子もない。息は少し上がっているようだったが、その軽やかな足取りにはまだまだ余裕がありそうだった。
ようやく屋敷が見えてきた。
瞬間、アベルが加速する。
そしてそれに続けとばかりにアイクとフレイアが勢いよく走り出した。
反応が遅れてしまった。
―――くそ!
どうしてだろうか?普通であればそのまま走っていたかもしれないが、三人の必死の形相を見ていたら、僕まで全力で走らなければいけない気持ちになって、息が乱れるのも抑え込んで、一瞬で加速していく。
僕が加速した時には、すでに三人から大分差がついていたというのもあるのだろう、一番に屋敷に駆け込んだのは―――アイクだった。
そうして次に着いたのは僕だ。後ろにアベル、フレイアと続き、アイクが庭に倒れ込むように横たわり、僕らも息を整えるように体をかがめ、膝に手を突きながらぜえ、ぜえ、と呼吸する。
アベルは天を仰いでいる。
「流石に速いな」
「父さん・・・・。もう歳なんだから・・・・子供っぽいことするなよ・・・」
「いやいや・・・さすがに・・・・速いな・・・」
二人とも息も切れ切れだ。
「シリウス一番反応遅れてたのに、なんでそんなに速いの?」
悔しかったのだろう、フレイアが顔をしかめている。息を切らしているが、上気した頬、額に張り付いた髪の毛、そして上目遣いに見上げてくる表情に我知らず、どきりとしてしまう。
「いや・・・・。その・・・・」
なんで?と言われても答えられないし何と答えればいいのか分からない。
しかし、よかった。これで朝の訓練が終わる・・・。
そう思って屋敷の中に戻ろうとしたら、にっこりと笑顔のアベルとフレイアに止められてしまった。
「今から四人で模擬戦をしよう」
「え!?」
げんなりした表情のアイクとぽかんとした僕。対照的な二人とは別に、アベルとフレイアは嬉々として木剣を準備し始める。
「え?え?」
流されるまま手渡された木剣を手にしながらたじたじとしてしまう。え?四人・・・?フレイアも参加するのかな・・・?
僕の懸念をよそに、フレイアは木剣を二振り、両手に構えて準備は万端のようだ。
「では、久方ぶりに私はアイクの実力を確かめたい。アイク、私と闘うぞ」
「ええー・・・」
「ええーーー!?」
嫌そうな声をあげるアイクと、不満そうなフレイア、そして、何とも言えない表情を浮かべる僕にアベルは問答無用とばかりにアイクと相対する。
その構えはとても堂に入っていて、一部の隙も無い。
顔からは笑顔が消え、真剣な鋭い視線を向けられる。
アイクは渋々剣を構える。僕はどうすればいいのだろうか?と思っていると、フレイアに声をかけられた。
「じゃあ、私たちも闘いましょうか?」
「え!?」
驚く僕に不満そうな表情を向けるフレイア。
「なに?私じゃ嫌なの?」
「えっと・・・。そういうわけではなく・・・・」
女と闘ったことなどないから、どうすればいいのか分からない。正直闘いたくないと言うのが本音だった。何より、確かに鍛えているようには見えるが、それでも僕ら男とは体のつくりがはっきりと異なっているのはパッと目にもわかる。
僕が本気で殴りかかったら壊れてしまうのではないかと心配になるほど繊細に見えるのだから躊躇うのも道理だろう。
そんな僕の弱気を見抜き、頭に来たのかわからないが、「行くわよ!」と一声かけると、未だ心の準備ができていない僕めがけて一瞬で間合いを詰めてきた。
―――速い!
気付けば、懐近くまで踏み込まれ、剣を振りぬかれていた。
斜め上段から降りぬかれた剣は、鋭く、その太刀筋は躱すことが難しい物だった。
僕は慌てて構えていた剣先をぶつけ、弾く。
かん!と乾いた音をあたりに響かせ、フレイアが降りぬいた剣は、大きく弾かれてしまった。
―――軽い・・・。
体重があまり重くないからだろう。剣先に乗っている重さが無い。はた目に見ればその剣は速く、鋭く見えるが、僕からしてみれば、重くない剣、攻撃など、いくら受けても脅威はない。
しかし、それを見越していたかのように、今度は左手に持つ剣を僕の胴体めがけて横薙ぎに振りぬいてきた。
すぐに剣を引き戻し、振りぬかれた剣に這わせるようにぶつけ、思い切り力で弾く。
フレイアが仰け反った。体勢が崩れる。
好機!とばかりに、ぐんと一歩強く踏み込むと、その剣先を思いきり彼女の喉元めがけて突き放つ。
勿論、当てるつもりはない。
ぴたりとその喉元近くで止めるつもりだった。
―――これで終わりだ。
そう確信した僕だったが、次の瞬間我が目を疑う。
ぐにゃり、とフレイアが体をのけぞらせたまま倒していき、あり得ない角度まで反らした体の上を、僕の剣が通り抜ける。
そして、その体勢のまま、さらに上段から剣を振り上げ追撃しようとした僕の手首めがけて、足を振り上げ、蹴り上げを放ってきた。
がつん!と手首を蹴られ、衝撃で思わず剣を手放しそうになってしまうが、何とか剣を必死で持ち直し、距離を離す僕と、上体を思いきりのけぞらせた体勢から蹴りを放ち、片足立ちとなっているにもかかわらず、まるでバランスを崩さないフレイア。
そのままの体勢からゆっくりと上体を戻し、そして振り上げていた足を地面に下す。
思わず目を奪われた。
その美しい動きに、ぶれることのない体のしなりに。
そして見つめ合うことしばし。相手が動き出す予兆が見えた。撓めた枝が手を離した瞬間に勢いよく戻るように、ぐっ、と力を入れられた全身から力が解き放たれる。
―――消えた!!
不意にフレイアの姿が視界から消えて、僕は、焦りに思わず頭が真っ白になってしまう。
それでも痛烈に感じる危機感から、必死で後ろに飛び下がると、ようやく視界に収めることができた。
地面すれすれまで上体を倒し、まるで這うような姿勢から、一気に間合いを詰めてくるフレイアの姿が。
―――まずい!
思う前には体が動いていた。地面すれすれから僕の胴体めがけて横薙ぎに振るわれる左右の剣を、何とか弾く。
かん!かん!と立て続けに乾いた音が鳴り、それが耳に届いたときには、フレイアの姿は僕の懐、それこそ手を伸ばさなくても届いてしまう距離にあった。
だがそれでも、両の手に構えた剣は弾かれた衝撃で体の後ろに流れ、ずい、と目の前に迫ってきた顔には楽しそうな笑顔が張り付いている。
―――次は何で来る・・・?蹴りか・・・?それとも膝か・・・?
この時僕は、地面すれすれから急に浮かび上がってきた上体に目を眩ませられ、全く気付かなかったが、フレイアの軸足が僕の軸足と交差するように踏み込まれていた。
僕は、必死で体を後ろに倒し逃げようとしていたせいで、重心が後ろに流れてしまっている。
そこに、軸足を刈り取るように足をかけられ、「うわ!」という情けない声を出しながら、無様に地面に引き倒されてしまった。
馬乗りにまたがるように乗りかかってきたフレイアに、最後の抵抗とばかりに右手から離さなかった木剣をその懐に当てる。
それとほぼ同時に、フレイアの拳が、僕の顔面めがけて打ち下ろされた。
―――やられる・・・!
目を瞑って衝撃に備えた僕の耳に、「引き分けね・・・」と残念そうなつぶやきが聞こえ、恐る恐る目を開くと、目の前で寸止めされた拳と、僕の上に跨り、息を少し切らしながら悔しそうに懐に当てられた剣先を指でなぞるフレイアの姿があった。
「はは・・・。強いんだね・・・」
情けない声しか出せない。もしこれが本当の闘いだったら、僕は死んでいたかもしれないのだ。
「女だからって油断していたでしょう?」
痛いところを突かれた。確かに力は僕のほうが強い。それでも柔軟な体と、どこから攻撃を放ってくるのかわからない軌道の読めない攻め。どれ一つとっても、強敵だった。
「おっしゃる通りで・・・」
何も言えなかった。女だからと油断して、そして無様に倒されてしまったのだから・・・。
フレイアは起き上がると、僕に手を差し伸べてきた。
「シリウスは強いわね。だから、できれば手を抜かないでほしいのよ」
「いいの・・・?」
もはや侮る気持ちはない。それでも、女だからこそ、強く打ち込むことにはいまだにためらいが残っている。
「そりゃあ、少しは力を抜いてくれるとありがたいけど・・・」
冗談めかして笑うフレイアに、僕もつられて笑ってしまう。
「だって、あなた見かけによらず力が強いんだもの・・・。手が痺れてしまったわ!」
「いや・・・。焦って思わず思い切り弾いちゃったんだよ・・・」
見かけによらず・・・。確かに僕はまだ成長しきっていない。どころかフレイアと並んで立っても、ほとんど身長は変わらない。勿論僕のほうが少し身長は高いけれども・・・。
でも、それはフレイアの身長が女性にしては高いだけで、特別僕の身長が低いわけではない・・・、と思いたい。
くよくよする僕に、フレイアが声をかけてくる。
「ほら!もう一度やるわよ!」
すでに剣を構え相対するフレイアに、僕は慌てて剣を構え直した。
四半刻(三十分)後、僕らはエダに呼ばれ屋敷の中に戻る。どうやら朝食ができたようだ。
気付けば太陽は地平の果てからその全身をのぞかせ、煌々と世界を照らしている。
夕焼けの朱とは異なる、黄金色の優しい光だ。
全身汗びっしょりで、屋敷に戻る道すがら、フレイアが悔しそうに顔を歪めている。
「くそー・・・。最初の一戦以降、ほとんど攻撃が当たらなかったわ・・・」
余りにも悔しかったのだろう、何度も挑まれて、ついにはフレイアと闘いっぱなしだった。思わず苦笑してしまう。
「そりゃそうだよ。何度も闘っていれば、動きとか癖もわかってきて、ある程度攻めの予測ができるからね」
最初は、その、手足を武器にする独特な闘い方と、柔軟な体を使った攻防一体の動きから、ついつい幻惑させられてしまったが、慣れてしまえば、スピードも際立って速いわけでもなく、力も僕より弱いフレイアの攻撃はそれほど脅威ではなかった。
ただ、それを言ってしまうと、また悔しがるだろうな、と思ったから、それ以上は何も言わないでおくことにする。
「うー・・・。強いってわかってはいたんだけど・・・。それでも悔しい・・・」
そんなふうに言葉を交わし合う僕らとは対照的に、アベルとアイクは、ぜえ、ぜえ、と息を切らしながら、互いににこやかにほほ笑みあっている。それが逆に怖い。
「はあ・・・はあ・・・、なかなか・・・、お前も・・・・できるようになったな・・・・。腕は・・・・鈍っていないようだ・・・」
「父さんこそ・・・・、はあ・・・、随分と・・・、はあ・・・、年の割に・・・・動くじゃないか・・・」
「どう・・・した・・・?はあ・・・、随分と・・・息が・・・、はあ・・・、乱れているじゃないか・・・?」
「はあ・・・、父さんこそ・・・・、はあ・・・、辛そうだな・・・。はあ・・・、やせ我慢・・・・、ん・・・、しなくてもいいんじゃないか・・・?」
「ばっか・・・!お前・・・!誰が・・・・はあ・・・、やせ我慢なんて・・・ごほ!ごほ!・・・・するかよ・・・!」
「どう・・・した・・・?咳き込んで・・・?苦しいなら・・・。ゆっくり・・・休んだほうが・・・いいんじゃないか・・・?」
どうしてあんなに余裕がありますよ、と言う表情を無理に作っているのだろうか?お互いに歩くのさえ辛そうだ。その証拠に腕と足がプルプルと震えている。
ただ、何となく怖かったので何も聞かなかったことにして僕とフレイアはずんずんと屋敷に中に歩いて入って行った。




