#17 Stargaze On
夜道を歩きながら浅い哲学を語る似非詩人な僕は年齢確認もされずに済み、コンビニでつつがなく愛飲の煙草とホットの缶コーヒーを買い、真っ直ぐに家に帰った。
すみません。嘘です。
帰ればよかったのにそうしなかった。用だけ済ませて家に帰るという決心は崩れたのだ。
僕の家とコンビニとを繋ぐラインの途中には件の公園がある。夕方に「彼女」について考えていた僕は、そこに寄ってベンチに座った。ちょうど桜の木の真下にあるベンチに。
冷たいベンチに腰掛けて缶コーヒーのプルタブを開ける。少し温くなったかな。
買ったばかりの煙草に火をつけて、紫煙を吐く。煙草とライターを左胸のポケットに仕舞いながら、何の気なしに空を見上げる。
満天の星とまでは言えないけれど、ピンと張り詰めた空気に浮かぶ星々と少しばかり欠けた月が鮮明に見えた。
冬の夜空に輝く星と月と、それと花のない桜の木ってのも、なかなかオツで趣深いものがあると思う。いやあ悪くない。
「あれが冬の大三角ってやつかなぁ」
一際輝く星々を見つけた僕は思わず呟いた。
特に天文学に明るいわけではないので、全然違う星なのかも知れないが、それでもいい。とにかく綺麗だった。
僕が今見ている星と、僕が今座っている地球との距離を考えれば当たり前だけど、僕が今見ていると思っている星は残滓の光だけの存在で、その本体は既に宇宙には存在していないこともある。そう思うと何処か胸がきゅうっと強く詰まる感じがして、なんとなくセンチメンタルな気分にもなったりもする。
そう言えば、星繋がりで雑談を一つ。
登録されていない新星を見つけたらその発見者に命名権があるらしい。
なかなかに妄想がどうして、驚くほど膨らむ話だ。どんな名前がいいかな? やっぱり自分の名前を文字った感じかな? まさに歴史に名を刻むって感じでさ。
でもきっと、僕が仮に―――いざ付けることになったら、結構真剣に悩むだろうな。
だって、命名される方からしたら変な名前は可哀相だ。名は体を表すとも言うし、誇れるような是非とも素敵な名前を考えてやりたいものだ。
けれど実際問題、きっと星はそんなことは気にしないだろう。人間と同じ思考体系だとは思えないし、それに、名前が分からなくたって、空に浮かぶ星々はあんなにも綺麗だ。
「なんてね……」
実にくだらない妄想。これこそ何の益にもならない。
冬の寒さが身を包み我に返る。
すっかり冷え切ってしまったコーヒーを一気に飲み干して立ち上がった。さあ家に帰ろう。えーっと……ゴミ箱は何処だっけか。
そう―――立ち上がったはずだった。
にも関わらず、僕は未だにベンチに座っている。
否、他者の力で強引に押し戻された。どうして?
目の前に誰かいる。誰だ?
ってか、腹部に何か違和感がある。何だ?
先の尖った、そうナイフのような何か。
遅れて濡れる鮮血。認識の遅効。
「ぐああぁあぁあああぁぁあああああ――――――」
僕が声にならない声をあげたのと、誰かが何かを僕から抜いたのはほぼ同時だった。
月明かりの差す公園に真紅の花びらが舞う。他ならぬ僕から流れ出た血液の花弁。
何かは距離をとって凶器を構え直す。くっそ、暗くて―――顔がよく見えない。
「かっ…、はっ…あ…っあ?」
訳分かんねぇ。何だってんだよ。僕が何をしたって言うんだ。まさか色恋沙汰からの凶行じゃないよね? 灼熱の腹部を抑えた左手は既に真っ赤に染まっている。ぬるぬる生暖かい。私服を染めるのに使われた液体はトマトジュースやケチャップなどではなく、正真正銘僕の血。つまり―――
ジョークじゃない。
「はぁっ……う、がっ…つぁ」
息遣いが荒い。目も霞んできた。
身体から何%の血液が失くなったらヤバいんだっけ? たしか、体重の……ダメだ、わかんねぇ。回らない。
そして今僕からは何リットルぐらいの血が流出したのだろう。あれ?
貧弱な膝が今にも折れそうに震えている。いや、僕が僕の体重を支えられないのだ。
その膝小僧が地面に力無く接したのが分かった。
これは…さすがにさあ! 厄日過ぎんだろオイ。
思春期の亜季子にサイケな超常現象、んで締めがこれかよ。この世に奇跡はありませんってか?
なんだか寒さが一層厳しくなった気がする……あれ? こんなに気温低かった?
動脈と静脈のどっちが切れたら血が噴き出るのだっけ?
意味のない思考の繰り返し。彼が近づいてくるのにも気づかないほどに深い思索の底。
僕の人生はこんなところで終わるのか?
死ぬのか、僕は?
家族は悲しむだろうな。
「があぁああああああうああっ」
多分左胸を貫かれた。素人でも分かる人体の急所。
凄く不快な気分だ。僕の知らないだけで、世界には痛みと哀しみが溢れていたんだな。
当て所ない浅い思考。
これからはもっと優しくなろう―――もし、僕に『これから』があるのならば。
あ…空が、見える。地面が冷たい。僕は仰向けに倒れたのか?
どうやら思考力も奪われているみたいだ。考えがまとまらない。判断が遅い。
何かが僕を覗き込む。よく見えないけど、多分歯を出して笑っている。
右手をプラプラと揺らしている。次はどこにしよう?と、迷うみたいに。
まだ刺し足りないのか。かなり猟奇的だ。一九世紀のイギリスに存在したという異常性格者のシリアルキラーってやつですか?
「あ、がぁうあぁぁぐああああうっ…」
また心臓部分を異常に刃渡りの長い得物が貫き、違和感が広がる。激しく咳き込む。
口の中が鉄味を帯びた苦い味でいっぱいになる。意外と人間って死ねないんだな…
ごめん遥……僕の意思を継いで、色々と頑張ってくれ…。
「がっ! ぎはががっがああっあああずあうえ」
右手、左腕、右大腿部、右胸―――そして、何度目かの左胸。
身体の至る所を切り裂かれ、あらゆる所に突き刺さる。
これは無理だ。完全に助からない雰囲気だ。もう痛みもよく分からない。寒さすらも満足に感じることができない。
僕はまだ生きているのか? わからない。自信がない。
ここで命が尽きるのかな?
どうせ死ぬのなら。
「しぬ…には、いいひ、か……もな」
指一本動かせない状況でも口は動く。
一度言ってみたかった台詞だ。
本当に死ぬのだから笑えない。
でも、きっと。亜季子は泣いてくれるだろう。
他でもない、僕のために。
哀しみに暮れ、僕の死を悼むだろう。
本心から。心の底から。
それは、悪くない。
それは本当に、心の底から……僕にとって、悪くないことだと思ったんだ。