066.手合せ
太陽が沈み、黄昏も終わり、薄闇に飲まれつつある宿屋の裏手。
紫が支配する空間は不気味でもあり、どこか神秘的な刹那の光景だ。
静寂が世界を支配するこの時を待ちかねていたかのように2人の人物が佇んでいた。
片方は少々大柄な男性。筋肉で引き締まった腕や胴回りは常日頃から彼が絶えず努力を続けてきたことを意味している。
対するは小柄な少年。今は小さくとも、今後彼は思いもよらぬ成長を遂げ大人になるだろう。そう身長も…胸も…。
クロロは緊張をほぐそうと、一人ナレーションをしていた。
ダメだった。シリアスっぽい単語を並べてはみたが、どうにも自分の紹介になると私情がはさまってしまう…。
彼女が一人ムムムと唸っていると、前方を歩いていたクラッチが立ち止まり、振り返ってクロロに話しかける。
「手合せは素手で行う。もし、途中で敵わないと思ったら遠慮なく降参と言え。俺は弱者をいたぶる趣味はないんでね。…まあ、もっとも…」
そこまで言うと、クラッチは悪そうな笑みを浮かべた。
「思い上がっているガキをこっぴどく叱る趣味はあるかもしれねぇがな」
そう言うやいなや、彼は握った拳でクロロに殴りかかってきた。
ビックリしたクロロだが、咄嗟に身体を捻ってそれを躱した。
「へぇ。不意打ちだったのによく避けたじゃねぇか」
「わわわ!うそ!」
「いいか、坊や。戦いってのはいつでも平等なルールがあるわけじゃねぇ。突然の奇襲、予期せぬ裏切り、罠…。ありとあらゆる事が起こる。始めの合図があるまで、待ってる良い子ちゃんじゃ、護衛なんて仕事はまず無理だと頭に刻んでおくんだな!」
クラッチは語りながらも、今度はクロロの足元に蹴りを入れてきた。
これも飛びのくことで避けるクロロ。
「ちょ…ちょっと待って!」
「言っただろ?待ってる良い子ちゃんじゃ、護衛なんて仕事は無理だと」
そう言いながらどんどん攻撃をしかけてくるクラッチ。
殴ると見せかけて、足元を狙った蹴り。
それを飛んで躱すと、目の前には拳。
クロロはそれも避ける。
「へぇ…。その見た目からスピード重視の戦い方かと思っていたが、まさにその通りだな。まるで猿みたいに避けやがる」
一旦攻撃をやめてクラッチが一人でブツブツと喋り出す。
その隙にクロロは頭を整理することにした。
クラッチは手合せと言いながら突然戦いを始めた。
クロロの知っている正規の手合せというのは、ちゃんとお互い向き合って礼をして、初めの合図があるものだ。
それはどーやら良い子ちゃんの方法らしい。
なんだよぉ…。村で聞いてたのと違う。
かつて、酒に酔いながらアスリーは言った。
「いいかクロロ!もし誰かに『手合せ』をしようと言われたら、ちゃんと礼をして開始の合図があるまで手を出しちゃなんねぇぜ!礼の仕方はこう、開始の合図は…なんだったっけな、忘れちまったな。いやぁ、ありゃあ面倒臭かったぜ。そんなん適当でいいってのに、体裁にばっか拘ってよ。んで俺がちょぉーっと早く動いただけでも、ルール違反で失格になるってくどくどくどくど…」
そこからは、かつてのアスリーが旅で経験したことに対する愚痴ばっかりだったが…。
アスリーお兄ちゃんの嘘つき…。
全然、礼も開始の合図もないじゃんかよ…。
礼のやり方だって、必死に練習してたのに…今まさに使うときだって思って緊張してたのに…。
僕の緊張を返せ。
クロロは内心プクーっと頬を膨らませていた。
しかし気付けば、またクラッチから怒涛の攻撃が始まっていた。
上から下から、あるいは正面から、拳や蹴りが飛んでくる。
クロロはそれをことごとく避けていく。
そもそも、クロロは彼の言うとおりスピードが最大の武器なのだ。それ故攻撃を避ける腕前だけは村一番である。
あの村の者でさえ、クロロに攻撃を当てるのには一苦労していた。
つまること、クロロはクラッチ程度の攻撃なら目を瞑っていても避けられるのだ。
「おらおら、どうした!護衛ってのは、依頼主を守れなきゃ何の意味もないぞ!避けているだけじゃ、なんの意味もない!たまには攻撃してきたらどうだ!それとも、避けるので精一杯で手も足もでないか!」
クラッチは攻撃を繰り出しながら、クロロを挑発する。案外器用だ。
クロロはせっかくなので、その挑発に乗ることにした。
…とはいえ、クロロの力で彼を殴ってしまってはおそらく大ダメージを負わせることになろう。
彼らは明日にでもナカー村に出発する予定のようだし、あまり手荒なことはしたくない。
クロロはお得意の技をしかけることにした。
クラッチが拳を突き出した瞬間、クロロはくるりと反転して、彼と同じ方向に身体を向けたかと思うと、彼の腕を両手で掴みそのまま下に落とした。
体重を乗せていた拳を急に下に引っ張られたため、その反動でクラッチの身体は自然と前に投げ出されることになった。
勢いがあったため、捕まれていない方の手を地面に付きだす暇なく、彼の身体はそのまま宙返りの要領で背中から地面に投げ出されてしまった。
つまるところ、クロロに投げ飛ばされた形になったのだ。
クロロは本来こういった、相手の力を利用して戦う戦法を得意としているのだ。
元々彼女の村で女性はこういった戦い方を中心に学ぶ。
男性陣に比べると、生物的にどう頑張っても純粋な腕力では敵わないため、編み出された戦い方だ。
クロロも例にもれず、この戦い方だけは徹底して教え込まれた。
…ただ、いざ旅に出てみると驚くほどみんな力がなく、クロロでさえ力技でどうにかなることが多かったが…。
「ってー。畜生、油断したつもりはなかったんだけどな…」
投げ飛ばされたクラッチが、地面でちょっと打ったと思われる肩を押さえながら立ち上がった。
「あんた珍しい戦い方をするんだな。…とはいえ、マグレって可能性もある。…もう一勝負いくぞ!」
なんと、まだこの手合せは続くらしい。
せっかく相手に大した怪我をさせずに勝利できたと思ったのに…。
よし…こうなれば、アスリーお兄ちゃんに何度もやられたあれをすることにしよう…。
クロロはクラッチの隙をついて彼の両手をそれぞれ、左右の手で捕まえた。
そして…
「ぎぃやあぁぁぁぁ!やめてくれー!!」
彼女はクラッチの両手を掴んだままその場でぐるぐると回り始めた。
最初の数歩はそれについて行っていたクラッチだったが、スピードが上がるにつれて足がもつれてこけてしまった。
だがしかし、クロロは止まらない。
足を地面に引きずられながら、クラッチはクロロに振り回される。
やがて、さらにスピードアップした時には完全にクラッチの身体は地面から外れて、遠心力でぶんぶん振り回されるだけになった。
「目…目が回る!手、手が伸びるぅぅ!!」
ぐるんぐるん回されているクラッチが現状を叫ぶ。
(むむむ。案外冷静だな。まだ正気を保ってる。もういっちょいくか!)
クロロはぐるぐる回るだけの動作に、さらに上下運動を加えた。
「あああああぁぁぁぁぁ!」
とうとう叫び声のみで、言葉をしゃべらなくなったクラッチ。
ちょっとの間その状況が続いていたが、やがてクロロも目が回ってきたため、スピードを落とし、ぐるぐる攻撃を停止した。
クラッチはちょっとぶりに地面と再開する。
「うあぁ…回りすぎた…。僕も目が回るよぉ~」
ふらんふらんしながら、クロロはクラッチの手を放した。
彼の両手は重力に従ってパタリと地面に落ちる。クラッチ自身は力なく地面に横たわっている。
「…あれ…?」
よくよく見ると、クラッチはピクリとも動かない。
クロロは念のためつんつんと彼をつついてみた。
返事がない。動きもない。…どうやら気絶しているみたいだ。
「あーあ。この人、こんなんで気絶してて大丈夫なのかなぁ」
普通なら気絶くらい余裕でするだろうが、クロロの常識の中ではこの程度はじゃれ合いの延長線である。
気絶するほどのものではないのだ。
だが、このまま彼を放置しておくわけにもいかず、クロロは彼を背負って食堂に戻ることにした。
余談ではあるが、クロロの身長が足りないため、クラッチはつま先を地面に引きずられていた。




