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 ロビーに行き、そこかしこに貼られている演奏会の日付を追った。今週のものだけで他に五回。なかなか忙しい。

 不意にかしゃーんという何かの割れる音が受付の向こうからした。加瀬谷はぼんやりと四四七ヘルツの(デー)と五五八ヘルツの(ハー)? など呑気思考をかましつつ、何事かと中を覗く。すると、ぎゃんぎゃんと喚き声がした。

 五月蝿くて耳栓するがそれでも尚漏れ聞こえる声に仕方なく耳を傾けた。

「何をやっているんだ笹木クン! 新調したばかりのスーツだぞ!?」

「すみません! 申し訳ございません!」

「どうしてくれるんだね、全く!」

 怒鳴っているのは富貴屋館長、基礎音程は四〇四の(フー)(ファ)。相手は柚花梨で基礎音程四七〇のCis(ツィス)(ド♯)。

 基礎音程は置いておくとして、受付の方はかなりの緊迫感。会話から察するに柚花梨が富貴屋にぶつかり、スーツを汚してしまったらしい。

 スーツなど心底どうでもいい。加瀬谷としては足をじたばたとしながら怒鳴り散らす音がただただ不快。注意が無駄にそちらに向いてしまって、集中力散漫だ。

 加瀬谷は加瀬谷で自己都合だったが、そっと受付窓口に顔を出す。

「あの」

「何だね、君は!?」

 富貴屋は闖入してきた加瀬谷を見るなり怒鳴る。富貴屋以外の事務方一同が気まずい表情になった。加瀬谷は周囲の光景、部屋の中の配置に目を配りつつ、続けた。

「あれ? お忘れですか? 昨日からこちらのピアノを診させていただいている調律師の加瀬谷縁と申します。大きな物音がしたので何事かと」

「あ……ああっ、加瀬谷クンか。いや何でもないよ。それよりピアノの方は」

「今日はとってもご機嫌麗しく、奏者の方を待ちかねております」

 加瀬谷のおどけた口調に何人かが笑みをこぼす。館長は拍子を抜かれて、そうかと生返事をした。

「できれば、今週の他の予定を窺いたいのですが、お時間よろしいですか?」

「ああ」

 富貴屋が場を去ると、空気が緩む。ぺこりと頭を下げた柚花梨に、加瀬谷は軽くウインクを返しておいた。


「毎月こんなに公演が……大変ですね」

 一月分の予定を教えてもらった加瀬谷が言うと、富貴屋は大仰に頷く。

「そうなんですよ。いや、建った当初から何かと話題が絶えず、妙な噂まで立っているので、ここまで人が殺到するとは思いませんでしたからねぇ。噂はご存知で?」

「ええと、"夜にこのコンサートホールのピアノを聴くと死ぬ"でしたか」

 富貴屋は溜め息を吐く。

「怪談好きな馬鹿な若者が広めた話ですよ。困ったもんだ」

「そうですか? 公演が多く、集客力も上がっているとお聞きしましたが」

「そう。全く、世の中わからんもんですよ。物好きが多いのかね」

 そんな物好きたちのおかげで仕事が成り立っているのだろうに、と思いつつ、事務室の中を見回す。館長の部屋と聞いたので、色々ごたごたと飾られているのかと思ったが、予想に反して物が少ない、殺風景とも言える部屋だ。小さなテーブルと向かい合ったソファが二つ。棚が一つ。調度品はない。

 意外だな、と思いながら止まらない富貴屋の弁舌を聞き流す。

「"幽霊がいる"だの"呪われている"だの、悪評が集まり客が減るどころか面白半分で訪れる輩が年々増えている。世の中には暇人が多いな!」

 そういうあんたがもっと働け、と言いたいところだ。この言い分だと、もっと客が少なく、楽な仕事だと想像していたように聞こえる。ふんぞり反っているだけだから今でも充分楽だろうに。

 しかし……加瀬谷の思考は横道に逸れる。

 "幽霊"はいるんだけどなぁ……

 というか、このコンサートホールは事件が結構多発している。人の怨念とか、そういうものが溜まっていても何らおかしいことはない。

 この人みたいなのが普通はそういうものの的になるのだろう、とか考えつつ、自分がいる間は何事もなければいいな、と加瀬谷は祈るのだった。


 公演が終わり、日が暮れる。

 奏者は大変加瀬谷に感謝していた。"一音もむず痒いところがなく完璧"と大絶賛。奏者が気持ちよく弾けたのなら何よりだが、あまりの過剰な握手に加瀬谷は引いてしまった。

 ともあれ、今日の仕事は終了。劇場スタッフが後片付けを終えると、加瀬谷は一人、ホールに様子見と言って入った。

 由依がピアノの前に佇んでいた。椅子の高さを調整し、おもむろに弾き始める。

 曲はベートーベン"月光"。昨日加瀬谷がリクエストしたのと同じ曲だ。

 加瀬谷は音を立てないよう、静かにゆっくりと近づいていった。人のいた熱気が抜けて、涼しくなったホールの中に一音一音が落ちていく。

 ステージ以外は小さい照明しか点いていない薄暗いホールの中で悲しみを湛えた短調が何かを求めさまよう。

 昨日と雰囲気の違う"月光"だと加瀬谷は感じた。昨日の由依の演奏はただただ静謐な夜を表していた。そこには感情というものはなく、どこまでも客観的な夜を描いているように見えた。

 一体どうしたのだろうか? 今日は何故、悲しげ? ……近づいて見れば、由依の表情は苦しげで今にも涙が零れそうな顔をしていた。

「由依さん?」

 少し躊躇ったのち、加瀬谷は思いきって声をかけた。由依がはっとして手を止める。演奏がぴたりと止んだ。

「あ、貴方でしたか。そろそろ来る頃だと思っていました」

 微笑む由依に何を言ったらいいか戸惑う加瀬谷。由依は小首を傾げて尋ねる。

「今の演奏、どうだったかしら? 昨日の演奏は蒼くて、ちょっと"月光"らしくなかったから気にいらなかったの。それで練習してたんだけど」

「ご機嫌斜めですね」

 加瀬谷の返答に由依の頭には疑問符が浮かぶ。

 加瀬谷が慌てて捕捉した。

「いえ、あの、由依さんの指が、というか、弾き方(スタイル)が今日のピアノの機嫌(コンディション)に合っていないということで」

「あら、では聞き苦しいものを」

「いえ、そういうことではなく」

 語彙が上手く出て来ず、歯痒くなる。加瀬谷は「今日の奏者(ピアニスト)の演奏に合わせて調整したから由依の弾き方と噛み合わないのだ」と言いたいのだが。

「さっきの"月光"は素敵でしたよ。昨日のものとはだいぶ雰囲気が違うようですが……」

「うーん、今日のはなんだか真っ黒な夜になっちゃったから、月が見えなかったかな? って、それじゃ月光じゃないですよね」

 由依は苦笑する。

「貴方の病気、確か"並列回路性思考乖離症候群"だったわよね?」

「覚えていたんですか」

「記憶力には自信があるの。──私にもね、病気……というか、人とのずれが大きい感覚がある」

 由依は不意に黒鍵を一つ叩いた。

「これは見てのとおり(ハー)、シの♭ね。これが私には緑色に見える。次は(エー)。これはオレンジね。こういうのを何て言うか知ってる?」

 音(他にも文字など)が色に見えたりすること。

「共感覚っていうのよ。こと音楽に関してはこの症状、というか能力? が大きく出たわ」

「面白い能力ですね」

「貴方だって面白いわよ?」

 加瀬谷の感嘆に由依は強く迫る。

「一度に複数のことができる。これは誰もが憧れる才能だわ」

「でも、僕は気味悪がられて」

「私もそうだったよ」

 加瀬谷は目を見開く。

「あまり知られていないの。共感覚って。だから、"七がピンクに見える"とか"この曲は黄色だね"とか言うと変な目で見られたわ。普通の人からすると異端なのよ……って、一体何の話してるんだか」

 一息吐くと、由依は加瀬谷を見上げた。

「でも異端同士、貴方とならわかり合えるかなって、ちょっと思っちゃって。ごめんなさい、変な話して」

 そう言った由依の瞳は満ちては欠ける不安定な月のようだった。




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