と
三十年前、春加記念コンサートホールは建造された。
そこから今までに、大きな三つの事件があった。
一つ目は開場記念公演に選ばれた名もなきピアニストの自殺。
深夜まで練習に励んでいたそのピアニストは公演初日のその夜、ピアノの前でその命を断った。
それゆえにその開場記念公演初日のコンサートは伝説と言われるほどになり、しかし、奏者の名は明かされることなく、次第に話題は消えていった。
その数年後、皆が話題を忘れた頃に今度は殺人事件が起こる。夜、ピアノの調律をしている際に撲殺されたものと思われる。
後頭部を鈍器で一撃。失血死である。
しかし凶器は見つからず、また容疑者も絞られず、事件は迷宮入り。法改正前に時効を迎えた。
更にその数年後、クリスマス公演が終わり、年末を迎えた頃に、その年最後の事件が起こった。
大晦日の朝、コンサートホールの外で倒れている男性が発見され、すぐに病院に搬送されたものの、ほどなくして死亡が確認された。
何故倒れていたのかは不明。死因も公開はされておらず、最初のピアニスト自殺事件と並んで謎多き事件と称されている。
事件と称されているが、果たして本当に事件性はあるのか? 何かしらの事故だったのではないか? 様々な可能性が囁かれたが、殺人だとしてもその事件も既に時効を迎えていた。
記事を読み終え、加瀬谷はぱたりと雑誌を閉じる。
「ふむ。なんとなく呪いの意味はわかりました。人間らしい噂ですね。他にも色々資料がありましたから、今度行ったときにまた資料をお借りしましょう。ピアノの不調を差し置いても、なかなかに面白い事件です。由依さんの影も形もないのがまたなんとも言えず」
言いながら加瀬谷は台所に向かう。
「さて、明日は朝から出ますから、とりあえず腹拵えをして、さっさと寝ましょう」
ぱたぱたと準備を始めながら加瀬谷は鼻歌でビバルディの"春"を歌い始めた。
翌朝、早くに家を出ると、一〇一号室の細軒がスーツ姿で出てきた。
「あ、おはようございます、細軒さん」
「おはようございます、加瀬谷さん」
にこやかに細軒は応じた。
「早いですね。出勤ですか?」
仕事鞄を提げた加瀬谷に細軒が問う。加瀬谷は首肯しつつ、細軒さんも? と問い返した。
「皆勤だけが取り柄でねぇ。駅も近いし、通勤が楽でいいですよね、ここ」
「確かに。僕も立地がよくてたまたま一部屋空いていたので、ここに」
「それは運がよかったですね。家賃がそこそこしますが。そういえば、加瀬谷さんは何のお仕事を?」
「僕、調律師なんです」
「……ほう」
加瀬谷の答えに細軒は何故か一瞬固まる。加瀬谷はちらりと不審に思ったが、直後には穏和な笑顔に戻っていたため、気にせず続けた。
「そんなに仕事は回ってこないんですが、この度春加記念コンサートホールの専属調律師になりまして。それでホールに近いここに引っ越してきたんですよ」
"春加記念コンサートホール"という言葉に、細軒はぴくりと眉を跳ね上げた。
「何か?」
昨日の半村といい、妙な反応をするなと思いつつ、加瀬谷は首を傾げる。少し躊躇ったのち、細軒は告げた。
「いやぁ、ね。あのコンサートホール、色々噂があるから」
「噂、ですか」
「そう。"曽根崎春加の幽霊が住んでいる"とか、"夜中に勝手にピアノが鳴る"とか、そういう感じのね」
なんだか、"学校の七不思議"みたいだな、と懐かしく思い微笑むと「物騒なのもありますよ?」と細軒は口にする。
「"夜にコンサートホールのピアノを聴くと、死ぬ"」
ざわりとした。胸が落ち着かないような感覚に囚われる。警鐘代わりか、頭の中でベートーベンの"月光"が流れ始める。静かに暗雲を感じさせるような音色が押し寄せてくる。
細軒はわざとなのか、俯き加減で語る。
「曽根崎春加の幽霊とか、あそこで死んだ人の怨霊とかが夜な夜な自分の身に降りかかった悲劇を嘆いて奏でるのだとか……そこに近づいた者は霊たちに引きずり込まれる──あれ? 意外と驚きませんね」
「あ、いえ」
細軒の語り口は真に迫っていて怖くはあったが、加瀬谷がその話だけに集中しているわけもなく。この程度で話の恐怖に飲み込まれるようなら、加瀬谷の病気は病気でない。
しかしそれを正直に言うのも気が引けるので、曖昧に頷く。
「僕はどちらかというと、そのピアニストさんの演奏を純粋に聴いてみたい気がするので。恐怖より興味の方が勝っちゃうみたいです」
まんざら嘘でもないことを言うと、細軒は苦笑を返してきた。
「まあ、お互い今日も一日頑張りましょう」
「はい」
そう交わして別れた。
「おはようございます」
昨日と同じように表玄関から入っていくと、同じ受付嬢に苦笑いされた。
「加瀬谷さんは専属の調律師さんですから、職員玄関からでいいんですよ?」
「そうなんですか?」
少し恥ずかしくなる。
明日からはそうしようと決めて、気分を改め、受付嬢に話しかける。
「笹木さんでしたよね? 下のお名前はもしかして」
「ゆかりです。"柚"に"花"に"梨"で柚花梨。字は違いますが、貴方と同じですね」
「そうですね。よろしければ、今日もホールまで案内してください」
「承りました」
受付窓口から柚花梨さんが出てくる。コツコツと二人分の足音が響いた。
「昨日、妹さんにお会いしましたよ」
「ああ、聞きました。柄仁枝ったら、イケメンって喜んでましたよ?」
「恐縮です」
加瀬谷の答えに柚花梨が笑う。
「昨日いらしたとき、ゆかりさんというお名前で聞いていたので、男の方で驚いたんです」
「ああ、女性の方が多いでしょうね。"ゆかりさん"」
お恥ずかしい話ですが、と加瀬谷は続けた。
「僕は生まれたとき、女の子と間違われたそうで。それがそのまま名前にも反映されてしまったとか」
「まあ」
くすくす笑う柚花梨に本気で恥ずかしくなりながら、そういえば、と話題を変える。
「富貴屋館長はまだいらしてないのですか?」
言うと、柚花梨が一瞬で顔を曇らせる。
「館長は、まだ。いつも九時頃に出勤されます」
加瀬谷は心中で嘘っ!? と叫んだ。今はまだ七時過ぎであるが、見たところ職員はほとんど揃って働き始めている。今日は午後から演奏会があるらしいが、楽屋の準備、各所の掃除、リハーサルは午前中からなので昼食の手配の確認……やることは山ほどある。
いつも九時とはどういうことだろう。午前の公演だってあるはずだ。その場合忙しさは今の比ではないし、演奏者への挨拶は館長の仕事のはず。
昨日見た感じがあれだから仕方ないのか、と割り切りつつも納得のいかない加瀬谷であった。
悶々と悩みながらもホールに着くとぱっと切り替え、ピアノと向き合う。柚花梨が側にいるからか、由依の姿はない。
鍵盤の蓋を開け、昨日帰る前にかけておいた布を畳み、脇に避ける。さらさらと指を撫で付け、音階を鳴らした。重なって響く音には異常はない。
加瀬谷は続いて屋根を持ち上げる。突き上げ棒で止め、再び音階。幾重にも重なった音がホールに反響する。
「今日の公演でどのようにピアノをセッティングするかわかりますか?」
「はい、えーと……今日はピアノソロなので、向きや位置はこのままです」
なるほど、と呟きながら突き上げ棒を調整し、一段高くする。
それから"幻想即興曲"の出だしを弾く。
「とりあえず、今はここまで。奏者さんが来たら教えてください。微調整します」
「はい」
柚花梨が去っていくと、ステージ袖からひょこっと由依が姿を現す。
「おはようございます、由依さん」
「おはよう。今日はご機嫌みたいだね」
「わかります?」
と、二人が話し始めたのは、このピアノのことである。
「黒眼鏡のおじさんが悪戦苦闘してるの、毎日見ていたから。こんなにご機嫌なんて、貴方を気に入ったのかしら?」
「そうだと嬉しいですね」
そう言って一息吐こうとする加瀬谷に由依がねだるような視線を送る。
「今日のご機嫌なお嬢様で、さっきの続き、弾いてほしいなあ」
「駄目です」
即答。ばっさり斬った。
「即答は酷いと思う」
「何を言われようと駄目です。奏者さんの演奏前にあまりべたべた触って、いざ本番のときに狂ったらどうします?」
「それは……確かに」
「だから、演奏会の前はあまり触るな、というのが師匠の教えです」
「なるほど。黒眼鏡のおじさんもだから触らなかったのか」
しかし残念、としょんぼりする由依を見て、「終わってからならいくらでも弾きますよ」と優しく微笑んだ。
由依が「本当!?」と目を輝かせる。その表情を眩しく思いながら、加瀬谷は一旦ホールを出た。