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「そういえば、由依さんはこのホールの変な噂とか聞いたことあります?」

 黒鍵の調整を終えた加瀬谷は、今度は屋根をとんとん叩きながら尋ねる。

 由依はこてんと首を傾げた。

「変な噂?」

「はい。ここに来る途中、バスでちらりと"呪われたコンサートホール"だとか"幽霊がいる"だとか」

 加瀬谷はバスで耳にしたことを気にしていた。賃貸での挨拶回りでも、半村夫妻に妙な反応をされていたこともある。それにここは今日から毎日通う、自分の職場なのだ。

 わりと真剣なのだが、加瀬谷の言葉に由依が噴き出す。

「え? え? 由依さん、今笑う要素ありました?」

 戸惑う加瀬谷に由依は口元を押さえながら途切れ途切れに言う。

「だって、"幽霊"……って、今私、目の前……っ!」

 堪えきれず、声を立てて笑う。幽霊だからか、大声な気がするのに、あまりホールに響かなかった。

 と。

「あ、由依さんって幽霊でしたね。忘れてました」

 ぽんと手をつく加瀬に由依は笑いが止まらない。「素!?」と先程とは全く別の意味で衝撃を受けていた。

「でも、由依さんは人を呪うようにはとても見えませんね」

 加瀬谷のその一言でようやく笑いを収めた由依が「何故?」と聞き返す。

「"幻想即興曲"、弾いてくれたじゃありませんか。あれを聞いたら、とても怨みつらみを抱えているようには思えなくて」

 加瀬谷は語る。

「負の感情を抱えた人はどんな曲を弾いても、毒が混ざります。ベートーベンの交響曲第五番とかはいいかもしれませんけど。でも、曲目を選ぶ弾き手でしょう。けれど貴女の演奏は激しさを孕む曲であるはずの"幻想即興曲"が細波のように優しく鼓膜を震わせた……心の柔らかい人でなければできない演奏ですよ」

 その説明に由依はしばしぽーっとしていた。暖房も入っていなければ冷房も入っていないはずのホールの中でぽやんと温かいものが込み上げ、空気が少しひんやりと感じた。

「お世辞言っても、何も出ませんよ?」

 冗談混じりで由依が返す。別にいいですよ、と言いながら、加瀬谷は突き上げ棒を立てて屋根の高さを固定した。

「では、由依さん。これでベートーベンの"月光"を弾いてください」

「あら」

「一区切りついたので、ご褒美コンサートってことで、どうですか?」

「嬉しいですこと」

 ピアノ椅子を移動して、演奏を始める由依。その音色に耳を澄まして、自分の仕事の出来を確認する。

 このあと、いくつか微調整をしたが、ひとまず加瀬谷の一日目の仕事は終わった。


 加瀬谷は帰り道の途中、ちょっと寄り道をした。加瀬谷の住む賃貸と春加コンサートホールのちょうど中間地点に図書館がある。そこで調べ物をした。

 春加記念コンサートホールについてだ。

 かなり有名で人気のコンサートホールだが、加瀬谷は今日、あのピアノをいじっていて違和感を持った。

 何故あそこまでずれていたのか。

 調律師の作業は弾き心地を整える整調、音程を整える調律、全体の音のバランスを整える整音の三つがある。

 普通、ピアノの調律は年に二回もすれば充分だ。それが何故毎日狂うのか、紫埜浦が来なくなってから僅か一週間であそこまで酷くなるのか、さっぱりわからない。

 ピアノを酷使するような何かがあるのだろうか、と考え、あのコンサートホールの歴史でも掘ってみようと来たのである。何かと有名で話題のあるホールだ。新聞記事などに載っているかもしれない。

 けれど慣れない土地の図書館。何がどこにあるのかわからず、加瀬谷はすぐに迷子になってしまった。

 近くで本棚の整理をしていた女性職員に声をかける。

「すみません、ちょっといいですか?」

「はい、どうなさいました?」

 脚立に上っているため、女性は一旦下を振り向き加瀬谷を確認、それからすたすたと降りて脚立を畳んだ。

「と、お待たせいたしました。どうなさいました?」

「あの、僕、ここが初めてで、新聞を探しているのですが、迷子になってしまったようで」

「新聞、でございますか」

 その職員のポニーテールがゆらゆら揺れる。不思議そうな目で加瀬谷を見つめた。

「いつ頃の新聞をお探しですか?」

「いつと言われると、特に年代は考えていなかったのですが、そうですね。元々、春加記念コンサートホールについて調べに来たものですので、その関係の資料を教えていただけると助かります」

「春加記念コンサートホール……」

 職員は顎に手を当て、考え込む。

 しばらくそうしてから、こちらへどうぞ、と案内を始めた。

「春加記念コンサートホールは我が市のシンボルということで、通常とは別にブースが作られています。こちらです」

 数々の書棚を抜けて、隣の部屋へ。部屋の入口には扉がなく、ペールカラーのカーテンがさらりと引かれているのみだった。

 中に入ると四方の壁には春加記念コンサートホールに関する写真や記事がずらり。"春加記念コンサートホールの歴史"と題されている。中央の机には"天才ピアニスト曽根崎春加"というタイトルの伝記、"クラシック入門""楽問書"などの音楽関係の本もあった。

 雑誌もかなり古いものから置いてあり、ぱらぱらと見ると"春加記念コンサートホール、建設決定""春加記念コンサートホール完成記念公演"といったコンサートホール関連の記事が多い。当時からかなり注目されていたらしい。

 それに伴い、コンサートホール周辺の整備も行ったらしく、古い記事たちの中に加瀬谷が入居した賃貸の入居者募集の広告が紛れていた。どうやらコンサートホールと同じ頃に建ったようだ。

 ぱらぱらとやるだけで加瀬谷は充分に情報を取得していくのだが、案内してくれた女性職員はそれを不思議そうに見つめる。

「どうかしました?」

 視線が気になって、手にした新しい雑誌をめくりながら声をかける。女性は「あ、すみません、不躾に」と軽く謝った。

「いや、読むのが早いんですね」

 感心した様子で言う。

「まあ」

「春加記念コンサートホールに興味があるんですか? あまりお見かけしない顔ですので……市外の方?」

 加瀬谷は話し相手がいた方が頭に入るので、応じた。

「はい。今日越してきたばかりで。調律師なんですよ。新しい職場が春加記念コンサートホールでして」

「まあ。でも、あそこの調律師さんってサングラスのおじさんだったはず……」

 由依と同じ表現をする女性に加瀬谷はくすりと笑う。

「紫埜浦先生ですね。その方、先日逝去しまして」

「……! 御愁傷様です」

「ありがとうございます。それにしても、師匠は随分と有名だったんですね。図書館職員の方にも顔を覚えられているなんて」

「師匠?」

「ああ、紫埜浦夜嘉多先生は僕の調律師としての師匠なんです。師匠の後任として、春加コンサートホールに行くことになりました」

「あそこに、ですか。大変ですね」

 労いにしては意味深長な苦笑いを女性は浮かべた。

「わたしは笹木と申します。姉があそこに勤めているもので」

 名乗る女性に加瀬谷の記憶が反応する。笹木、笹木……つい最近聞いた名前だ。

「もしかして、ショートカットの受付嬢さん?」

「そうです! 会ったんですね。姉は笹木柚花梨(ゆかり)、わたしは柄仁枝(えにし)と言います。姉はあそこに勤めて十年くらいになりますかね。わたしも同じくらいここに勤めてて、サングラスの調律師さんには結構お世話になりました。新人で上司に怒られてばかりだった姉も慰めてもらっていたようですし、この図書館にも結構な頻度でいらして、応対した職員を必ず何かしら一ヵ所誉めてくれました。だからサングラスのおじさんは人気でしたよ。子どもにも優しかったし」

 第三者から見た師匠の印象に加瀬谷はなんだかほっとした。少々暴走する傾向があり、独特な考え方を持つ師匠が悪く思われていないようでよかった。

 しかし、気になることが一つ。

「師匠も図書館によく来ていたんですか?」

 加瀬谷にとっては意外な事実だった。紫埜浦は本嫌いではないが、図書館に通うほど好きなわけでもなかったはず。自分に調律について教えるときも、教本を渡したりせず、仕事に付き添わせ、現場で覚えさせる手法を好んでいた。

 読者する時間があるくらいなら現場で一つでも多くの美人(ピアノ)を仕上げる、が信条だったくらいだ。そんな紫埜浦が何故?

「春加コンサートホールの帰りによく。しかもこのコーナーをじっくり見て回っていましたねぇ。どうしてですか? て訊いたら、"別嬪さんを口説くためにゃ、相手のことをよく知っとかんといけねぇだろう?"なんて言ってましたっけ。本当、面白い人でした」

 師匠らしい物言いに柄仁枝と二人で笑いつつ、一方で加瀬谷は思っていた。

 もしかしたら師匠も、あのピアノが毎日狂う原因を探っていたのでは……?

 やはり、何かあるのだろうか。そう思いながら様々な記事を読んでいくが、あっという間に閉館時間が訪れる。

 明日は午後に演奏会があり、その後にもピアノを診てほしいと頼まれている。来られない、と悩んでいると、柄仁枝が「貸し出しましょうか?」と提案した。

「普通、雑誌は貸し出さないんですが、あのコンサートホールの調律師さんなら話は別です。サングラスのおじさんも借りてましたし。その代わり、綺麗に返してくださいね?」

 柄仁枝の好意に甘え、雑誌を二冊、借りていった。




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