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銀紙に包まれたキャラメルのような形のものを白鍵に当てて整調していく加瀬谷。しかしやはり黙々と作業することはなく、ピアノの脇でピアノ椅子に座る由依に話しかける。
「失礼ですが、由依さんはどうしてお亡くなりに?」
純粋な疑問だった。黒い質素なワンピースから伸びる四肢は白く、血の気がない。けれど自分には見える由依が幽霊であると加瀬谷は実感できずにいた。
由依は困ったようにはにかむ。その表情を見て、加瀬谷は慌てて言い募った。
「あ、あの、別に言いたくなければいいんです。ただの好奇心ですし。お気に障ったのなら謝り」
「いいのいいの。幽霊って名乗ったの、自分だし」
由依は続けた。
「私はね、このコンサートホールで死んだの。自殺」
気を悪くした風もなく、さらりと答えた由依に、加瀬谷は申し訳なく思い、それ以上は問わないことにした。
それに自殺の理由など、問えるはずもない。見た目どおりの年齢で死んだのかは定かでないが、先程の"幻想即興曲"からも窺えるように、由依はかなりの腕を持つピアニストだったはずだ。見た目年齢から考えても前途を期待されていたにちがいない。
恵まれた才を持つ彼女が何故死にたくなったのかなど、加瀬谷には想像もつかない。惜しい才能だとは思うが、会ったばかりでそんな心の中に踏み込むなど図々しいにもほどがある。
「貴方は、どこの調律事務所から来たの?」
沈黙になりかけたのを気にしてか、今度は由依が話題を振ってきた。
「僕は個人の調律師ですよ。調律事務所には所属していません。ただ、ここの前任だった紫埜浦先生を師事していましたが」
「前任って……黒眼鏡の人?」
「そうです」
サングラスを黒眼鏡と由依が呼ぶのは不思議な感覚だったが、加瀬谷は頷いた。
加瀬谷の師・紫埜浦夜嘉多は目が弱く、屋内でもよくサングラスをしていた。おかげで度々カタギではない者と勘違いされるのが悩みだったと生前よく話していた。
サングラスを取れば、穏和な優しいおじさんといった感じの人だ。
「由依さん、師匠を知ってるんですか?」
「だって私、このホールにかなり長い間いるよ? 黒眼鏡の人は面白い人だったし」
確かに、紫埜浦夜嘉多という人物は奇特な性格をしていた。調律中には一人でピアノと会話をしている。「よう。お前、今日の調子はどうだ?」「うんうん、そうかそうか。子どもが鍵盤がたがたさせよったか。最近は子どもの面倒もろくに見れねぇ親が多くて困る」「俺の愚痴もちょっくら聞いてくんねーか?」といった具合に。
加瀬谷はその光景を見て、「何故ピアノと会話するんですか?」と尋ねたことがある。すると紫埜浦は「患者と会話しねぇ医者はいねぇだろうが」と語った。
「へぇ、だからやたらと独り言が多かったんだね。最初、私が見えてるのかな? って思ったんだけど、全然そんな様子はないし」
「やっぱり、幽霊っていうのは人には見えないものなんですか」
加瀬谷がそう口にすると由依は心底おかしそうに笑う。
「普通に見えてる貴方に言われるとなんか不思議。そうよ。ずっとここに住んでるけど、警備員さんに見つかったこともないし、貴方以外は誰一人、私を見ることはなかったわ」
でも、黒眼鏡の人は……と由依は懐かしげに目を細めた。
「見ていて退屈しない人だった。それに、大好きだったよ。あの人の調律風景。ピアノを心の底から愛してるって伝わってきて、嬉しかったな」
白鍵の調整を終えた加瀬谷は今度は黒鍵の方に道具を当てる。黒鍵の形に合うようにぽこっと突き出た型。
一つ一つにそれを当てながら、加瀬谷も思い出し笑いをした。
「師匠、ピアノの調律から帰ってきて"今日のは今までで一番別嬪だったぜ"とか"俺は堂々と浮気ができて最高だ"なんて言って、奥さんに怒られてましたね」
「ええ? 浮気性なの?」
由依が眉をひそめるのに加瀬谷は違いますよ、と苦笑混じりで答えた。
「相手は全部ピアノです。僕には患者と教えたのに、どうしてか奥さんの前では女っていうんですよ? 奥さんが何度拗ねたことか。とりなすのが大変でしたよ」
「奥さんと仲悪かったの?」
「それが全然。大変な愛妻家でしたよ。奥さんも"しょうのない人"なんて言いながら温かい眼差しで師匠を見守っていました。……亡くなって、一番泣いたのは奥さんでしたね」
「え……? あの人、亡くなったの?」
由依の表情が衝撃で硬直する。加瀬谷は静かに頷いた。
「病気で。急逝でした。あまりにも急だったもので、ここ数日、人が来なかったのではありませんか?」
「確かに、でも、一週間前まで、元気で普通に」
ほろりと由依の白い頬を涙が伝う。加瀬谷は黒鍵の作業から離れ、ポケットからハンカチを出し、由依に差し出す。
「師匠の死を悼んでくださり、ありがとうございます」
「いいえ……惜しい方が逝かれましたね」
はい、と答えつつも加瀬谷は頭の片隅でそれは貴女もでしょう、と呟いた。口に出すわけにはいかない。ただでさえ今は泣いているのに、これ以上泣かせるのは。
「僕は師匠の後任で来ました。まだまだ腕は師匠の足元にも及びませんが、どうぞよろしくお願いいたします」
「いえ。こちらこそよろしく」
由依が白い手を差し出してきた。加瀬谷がその手を握るとひんやりと冷たかった。
脳裏に眠るように息を引き取った師の顔が浮かぶ。あのとき触れた師匠の手と同じ体温。
やはり彼女はこの世の人ではないのだと、加瀬谷は密かに実感した。