ゑ
春加記念コンサートホール。
「ああ、なんか久しぶりだな」
そう呟いて加瀬谷は中に足を踏み入れた。
「こんにちは」
受付に顔を出す。中に柚花梨の姿はない。まだ入院しているらしい。
代わりに事務員たちがわらわらと寄ってきた。
「わあ、加瀬谷さん!」
「加瀬谷さんお久しぶりです」
「よかった」
図書館と大体同じ雰囲気の歓迎ムードだ。
「富貴屋館長は」
「やあ、加瀬谷クン。体調はもういいのかい?」
富貴屋が珍しく加瀬谷の名を呼んだ。結構な事件があったから、さすがに名前を覚えたのか。
加瀬谷が挨拶すると富貴屋は席を立ち、事務室の外に出てきた。
ホールまでの案内を自らかってでた富貴屋に加瀬谷も事務員も目を丸くする。その目が少々気にいらなかったのか、富貴屋はぶっきらぼうに加瀬谷を急かした。
事務室から少し歩いたところで、富貴屋が口を開く。
「きみとは少し話したいことがあった」
「なんでしょう?」
唐突な富貴屋の切り出しに加瀬谷は首を傾げる。富貴屋は何か気まずそうな表情で咳払いを一つ、続けた。
「先日の事件から、このコンサートホールで起こった全ての事件の真相が明るみに出る、ということで世間は軽く騒ぎになっているようだな」
「そのようですね」
「やはり、加瀬谷クンは知っていたのか? 全てを。前の紫埜浦先生もだが、このコンサートホールで起こった事件を色々と調べていたようじゃないか」
富貴屋の声に険しいものが混じる。加瀬谷は責められるか、と身構えた。
が。
「わけのわからん事件を解決してくれたようで。感謝している」
思いがけない一言に加瀬谷は狐につままれた。
「それでなんだがな」
富貴屋は悩ましげに眉根を寄せて告げる。
「ホールには新しいピアノを入れようと思うのだが、どうだろうか」
「えと……どう、と言いますと?」
新しいピアノ……あのピアノが使われなくなるのは惜しいことだが、弦は二本も切られ、屋根も傷ついている。そんじょそこらの調律師では調整し続けるのは難しい。替え時ではあるのかもしれない。
だが、雇われたただの調律師である加瀬谷に意見を求められても困る。
ああ、言葉が足りなかったな、と富貴屋が付け足す。
「実は、このホールを改築して、"展覧室"というのを作ろうという計画があってな。元々展覧室は美術館のような用途の扱いで提案されていたため、私は反対していたのだよ。"曽根崎春加"の名を持ちながら音楽に関係のない要素をここに取り入れるなど。巷で話題になっていた"都市伝説"とやらも、幽霊だ肝試しだとここの威厳を無視した輩が来るから腹立たしくて……とこほん。話がそれた」
加瀬谷が意外そうな眼差しを向けていると、富貴屋は咳払いをした。
「富貴屋さんはもしかして、曽根崎春加さんのファンなんですか?」
「おかしいか? 限定のレコード版も持っているぞ」
開き直った物言いに加瀬谷は思わずくすりと笑った。
「つまり、だ。今回私はその展覧室の増築案を受け入れることにした。ホールには新しいピアノを入れ、あのピアノは展覧室に置く」
「なるほど。素晴らしい考えだと思います」
三十年以上使われ続けたピアノ。いつ寿命が来てもおかしくはない。いや、そもそも、あれだけ傷つけられて、本当は演奏に耐えられるはずはなかったのだ。
もう充分すぎるほどあのピアノは役目を果たした。
「加瀬谷クンに賛成してもらえてよかった。そこで改めて頼みたい。この先もあのピアノの調律を続けてくれないか?」
「なっ……あのピアノをまだ使うと?」
加瀬谷が珍しく怒りを滲ませた語調で問う。富貴屋は首を横に振った。
「使わなくとも、定期的なメンテナンスは必要だろう。それをお願いしたい」
そういうことなら、願ってもない。加瀬谷は笑みを戻し、頷いた。
今後も他のピアノの調律も引き続き、とのことだった。
「では、今日もよろしく頼む」
富貴屋はホールの扉を開くと一礼して去っていった。




