み
ハイツ一〇二号室。
部屋にこもっていた住人の梶友暁は夜十時頃、異変に気づいた。
焦げ臭い。それに煙たい。
「なんだ?」
一人呟き、ベランダを開ける。
上からふわりと舞い降りてくる灰色の煙。
上?
焦げ臭いのも上の方から。そうちょうど、二〇一号室のおばあさんが住む部屋の方から……
ぱちんっ
「っつ……!?」
熱い物が落ちてきて弾ける。それを見て梶は悟った。
火事!?
梶は慌てて玄関から外に脱出する。見ると二〇一号室からめらめらと火の手が上がっていた。
現在時刻は夜十時。二〇三号室の事件を捜査している警察はもう引き上げていた。でなければこんなことは起こるまい。起きてもここまで広がる前に対応するだろう。
小一時間ほど前に他の住人たちが帰ってきたのは外からの物音や会話で梶も把握していた。
まさかまだ気づいていないということはないよな?
梶はその可能性を捨て去ることができず、隣人たちの部屋を訪ねる。
一〇一の細軒宅の呼び鈴を鳴らす。返事はない。
「おい、細軒! ……責さん! いるのか? いるなら返事を!」
がらっと上から何かが落ちてくる。慌てて梶は避けた。見るとそれは燃え朽ちた木材だった。
一〇一は二〇一の真下だ。崩落する危険が高い。
梶は軽く舌打ちをしつつ、反対側の隣人──半村家の扉を叩く。
「半村さん! 半村さんいるか? 由行くん、紗菜絵さん、灯くん、誰でもいい! 返事を」
がらがらがらっ
また何かが落ちてきた。どうにか梶は避けるが、これはおかしい。落ちてきたのは先程と同じく燃え朽ちた建材。だが、二〇一とは反対側のこちらにはまだ火の手が回っていないはず。それなのに何故、燃え朽ちたものが落ちてきたのか。
恐ろしい推測が脳裏をよぎり、梶は恐る恐る真上──二〇三の方を見上げる。
そこには。
「おじさんだけ逃げるなんてずるいよ」
紗菜絵に抱えられ、焼け爛れた手で手すりにすがる灯の姿。痛みなど感じていないような無邪気な笑顔に梶は表情を凍りつかせる。
そんな灯を抱える紗菜絵は、背に赤々とした炎を負っていた。
「そうですよ。あなただけ逃げるなんて、ずるいです、梶さん」
斜め上から若い男性の声。見ると燃え立つ何かを手にした半村だった。
半村は手の中で燃えるそれをふわりと空に放った。まるで、紙ひこうきでも飛ばすように……
それは風の具合でか、梶の肩めがけて飛来した。ぶわりと肩にその炎が燃え移る。
びりびりとした痛みに梶は慌てて上着を脱ぎ捨て、火を踏んで消す。
「だめですよ、梶さん。私たちは一蓮托生じゃないですか。ねぇ?」
穏やかな口調でそう言い放ったのは細軒の声だ。姿は見えない。……いや、炎に包まれた二〇一号室の中にぼんやりと佇む黒い影がそうなのだろうか。
何にせよ、異様な行為だった。まるで梶にここで死ねとでも言いたげな。
「一緒に死んでおくれよ、友暁くん」
自分の下の名を呼ぶ声に梶は若干の敵意を含ませた目線を声のした方に向ける。
一人、燃えていない人物が建物の中央……二〇二号室の扉の前に立っていた。
「秋子さん……!」
それは二〇二号室に住まい、二〇三号室で異様な死を遂げた梶の友人・曽根崎竜胆の大伯母にあたる二〇一号室の主・叶李秋子だった。
「何をしているんですか、あなたは!?」
こちらを悠然と見下ろし、迫り来る火の手から逃げようともしない叶李に梶が叫ぶ。
早く逃げましょう、と言いかけて、梶は気づく。
悠然と佇む叶李は、愉しげに笑みを浮かべていたのだ。
「一緒に、死んでおくれよ、友暁くん」
今一度、叶李が繰り返す。
「あたしたちゃ、一蓮托生だろう? 友暁くん。だから、さあ! さあ!」
一蓮托生──先程、細軒も言っていた。ここで、梶はその意味を察する。
叶李はこのハイツに集う"共犯者"たちの首領格なのだ。
このハイツに住む者たちの罪は梶も知っていた。春加コンサートホールで起こった調律師の殺人、警備員の偽装自殺、近いところでは子どもの不審死。それらは全てハイツの人間が関わり、もしくは自ら手を下したものだ。
梶も、クリスマス事件と称される不審死事件に関わりがあった。それは彼が直接手を下したものというわけではないのだが、自分に原因があると梶は二十三年前の事件を悔やみ続けてきた。
けれど己の罪を認めない者たちからの圧迫──竜胆を人質にとられたこと──により、外出もままならなくなっていた梶。
このハイツの諸悪の根源は三十年前の事件を起こしたという叶李だった。
竜胆を人質にとり、梶も含めてハイツの全員を一蓮托生の共犯者に仕立て上げた本人。その口振りから察すると、叶李は自ら火を放ったということか。
「秋子さん、何故こんなことを?」
「あたしらは、あたしらはねぇ、今晩、あのコンサートホールのピアノを聴いたんだ。聴いてしまったんだよ。だから、だからね、都市伝説のとおりに死ななきゃ、死ななきゃならないんだよ」
ひひひっとひきつった声で笑う叶李。
「あたしらはねぇ、そうあたしらは、"都市伝説"のおかげで罪が暴かれずに済んだんだ。"コンサートホールのピアノ"っていう都市伝説のおかげでねぇ。だから、それが信じられなくなったら終わりさ、終わりさよ! だから、あたしらが、あたしら自身で"都市伝説"を守らにゃならんのよ!!」
コンサートホールの"都市伝説"。"曽根崎春加の幽霊"やら、"ピアノに憑いた幽霊"やら、様々なものがある。その中には"夜にホールのピアノを聴くと死ぬ"というものも。
その噂が生んだ都市伝説によって、あのコンサートホールで起きた事件はごまかされてきた。その恩恵を誰よりも受けてきたのは叶李たち、ハイツの住人である。
梶もそこから漏れることはない。叶李はそう言いたいのだろう。
"都市伝説"の信憑性を守るために、共に死ね、と。
「そんな馬鹿なことができるか!」
梶は迷いなく叫んだ。
「おれはもうこりごりだ。ちゃんと警察に全てを話す。死んでまで罪から逃れる理由なんかない!」
梶は二階に立ち尽くす叶李たちから引き剥がすように視線を外し、急いで消防車を呼んだ。
木造のハイツはよく燃えていた。
豆知識
この作品での一〇二号室の住人・梶友暁は四十代半ばです。
他の住人との関係を書いておきます。
一〇一細軒とは実は案外年が近いです。細軒は五十代前半なので。
で、実は細軒は梶の後輩社員だったりします。たまにありますよね。年齢と先輩後輩関係が逆転すること。
梶はある理由からその仕事を続ける必要がなくなり、辞めましたが、仕事のとき自分の立場を強める意味で"細軒"と呼んでおり、感情が昂ると今でもその呼び方が出ます。
普段は名前呼びです。
一〇三半村一家はみんな"半村"なので、名前呼びです。
二〇一叶李は友人の大伯母ということで以前から知り合いのため名前呼びです。
よかったね、梶さん。出番あったよ。




