め
「あ、ああっ、なんで、なんでだい? なんで、ゆきが、ゆきの方が、ゆきばかり、こんな、こんな、ピアノを、ピアノ……!」
泣き叫ぶ叶李。悔しさと憎しみが入り交じった感情が拳を成して床を打つ。しかしそれが演奏を遮ることはない。
慟哭も、恐怖も、憎悪も──
全てを呑み込むこの演奏こそが由依結生の"緑色の月光"だった。
最後の音が凛と響く。余韻が屋内に射し込む月光を幻視させる。
そこで真っ先に異変に気づいたのは、紗菜絵にすがって震えていた灯だった。
「あ……れ? ピアノの幽霊が、消えてく……?」
はっとしたように加瀬谷以外の者たちがピアノ椅子を見る。するとそれまではっきり輪郭を持っていた"由依結生"という女性の姿はぼんやりとした薄い影になり、向こうの景色が透け始めていた。
ぞわり、と場の人間の皮膚が粟立つ。
この人物は本当に幽霊だったのだ。
皆、同じことを思った。
「あはは、はは」
突如笑い出す声があった。辺りの者がびくりとそちらに目を向ける。
「あはははは、はははっ!」
壊れたように笑うのはその場に崩れたままの叶李だった。
「はははははははははっ! ゆきは、ゆきはやっぱり死んでいた。あたしは、あたしはちゃんとゆきを、ゆきを、殺していたんだ!」
愉しげに笑うその姿は共犯であるはずのハイツの者たちすらもおののかせた。
「はははははっ、はははははっ! あはは、あは、はははははっ……──」
狂ったような笑い声は前触れもなく止む。打って変わって静まり返ったホール。その沈黙はどこか不気味な雰囲気を湛えていた。
すっと叶李が立ち上がる。
「……死なない調律師も、この血の量なら助からないだろうねぇ。助からないよ。うんうん」
血溜まりを作った加瀬谷を一瞥し、叶李はピアノに背を向けた。
「なら、帰るよ」
すたすたとステージから降り、出ていく。
他のハイツの面々もはっとしたようにその後に続いた。
最後に柚花梨が加瀬谷を痛ましげに見つめ、駆け去る。
ホールの扉がぱたりと閉められた。
「加瀬谷、加瀬谷!」
由依が加瀬谷の名を呼ぶ。他の者たちが見えなくなっただけで、由依は六人が去るまでずっとピアノ椅子に座っていた。
返事のない加瀬谷の肩を揺さぶる。加瀬谷に反応はない。顔色が蒼白になっていくだけ。
死んでしまうのでは……?
その可能性にぞわぞわと悪寒が背筋を駆け抜ける。助けを呼ばなくては、と立ち上がり、由依は自分の姿が他の者に見えないことに気づく。
どうすればいい? 考えを纏めようと由依は頭を抱える。
「由依さん……」
そのとき、小さく彼女の名を呼ぶ声がした。由依は加瀬谷を見る。その唇は微かに動いていた。
「由依さん……綺麗な、"月光"ですね。綺麗な……深い深い、緑色の……」
胸を衝かれ、顔をくしゃりと歪め、由依は微笑む。
「聴いていてくれたのね。ありがとう」
春加コンサートホール前に救急車が到着する。
ホールで胸部を刺された姿の調律師・加瀬谷縁が発見され、すぐさま病院に運ばれた。
加瀬谷は奇跡的に一命をとりとめる──
まだ終わっていませんよ。




