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 鍵盤の蓋を開け、早速驚愕する。

 鍵盤を保護する布がないのだ。

 フェルトのあの布は鍵盤に埃をつけないというのと傷をつけないという目的でつけられている。それがないとはどういうことか。それだけでも随分と弾き心地が変わる。

 鍵盤の隙間にごみが溜まれば押しにくくなるし、あまりいないだろうが、鍵盤の蓋を誤って勢いよく閉めたときに傷がつかないとも限らない。

 鍵盤の動きは実は音程と同じくらい演奏者にとっては重要なのだ。ピアノは元々"ピアノフォルテ"という名で、一つの楽器で"柔らかく優しい音色(ピアノ)"から"激しくよく響く音色(フォルテ)"まで表現できるものとして広まったのだ。その音色の表現の豊かさには音程(ピッチ)よりも弾き心地(タッチ)が重要なのである。

 鍵盤の掃除は柔らかい布で表面を拭くだけでも充分で、一般家庭でもできる手入れだ。このピアノはそれすらされていない。

「それで"親切なご指摘"を"文句"とは、よく言えたものです」

 加瀬谷は鞄から取り出したピアノ用の布で表面を拭きながら、館長の富貴屋を思い浮かべる。自分はずぼらなくせに文句だけは一人前に吐く。

「そんな人が管理の最高責任者だなんて、ピアノが泣いてる」

 ぽーん……

 一音弾く。ビブラートのかかったB(シ)。

 他に誰もいないコンサートホールにはよく響いた。

「その(ベー)、ずれてるよ」

 ピアノの余韻のような柔らかな声音が告げた。加瀬谷はえ? と辺りを見回しながら、今度は和音を弾く。音は三音、G(ソ)B(シ)()のGメイジャー。

「あ、本当だ。ついでにに言うと(デー)が低くて(ジー)がちょっと高い。むず痒い音程(ピッチ)です」

「って、ええ?」

 続いた加瀬谷の一言に驚く声。加瀬谷が見つけた声の主は黒のシックなワンピースを着た女性だった。

「本当ですってば。貴女が絶対音感をお持ちなのであれば、単音で弾きますからよく聴いてみてください。まずは(デー)……続いて(ジー)……どうです?」

 僅かに耳の上にかかる髪をのけて聴いていた女性はじっくり吟味し、うんうんと頷いた。

「確かに、貴方の言ったとおりにずれているわ。それにしてもすごいわね。和音で音のずれに気づくなんて」

 女性の素直な称賛に加瀬谷は表情を変えずに応じる。

「和音じゃないと僕にはわかりませんがね。単音でわかる貴女のような絶対音感の持ち主が羨ましいですよ」

「ええ?」

 女性が胡乱げな目で加瀬谷を覗き込む。加瀬谷は女性の方を見ずに熱心に鍵盤を叩き始めた。

 奏でられるのはショパンの"幻想即興曲"。

 印象的な最初の二音を弾き、加瀬谷は顔をしかめ、早口で女性に言った。

「耳を塞いでください」

 女性はわけもわからず従う。

 そこから滑らかに鍵盤を滑っていく加瀬谷の指。女性は激しく行き交う彼の指に思わず見とれる。見とれたために、少し離してしまった手の合間から聞こえた音に彼女は固まった。

 ぐわーん。金盥を頭に落とされたような錯覚。見た限り、加瀬谷の指の動きには一寸たりともミスはない。しかし、ものすごい音の外れように頭がおかしくなりそう。女性は視界が濁った灰色に染まっていくように感じた。はっと思い出し、耳を手で塞ぐ。今度は先程より強く。

 加瀬谷はフルで演奏するわけではなく、一分ほどで手を止めた。

「もういいですよ」

 彼の唇がそう紡ぐのを確認し、女性は手を外した。

「酷い演奏でした。僕の演奏技術は抜きにしても酷い。こんな幻想即興曲はCDでも聴きたくありません」

 言いながら、加瀬谷は鞄をがさごそ。木の柄がついたハンマーというにはヘッドが不思議な形をしたものが取り出される。

「チューニングハンマー?」

「よくご存知ですね。もしかして、同業者の方ですか?」

 加瀬谷が尋ねると、女性は首をふるふると横に振った。

「私はピアニスト。何度か調律師さんの仕事を間近で見たことがあっただけ」

 加瀬谷はおや? となる。

「ピアニストさんが何故ここへ? 同業者にしては礼装なので納得はいきますが……演奏会は明日ですよ?」

 加瀬谷の問いに女性はくすくすと笑う。ごめんなさい、と一言置いて、彼女は続けた。

「私は由依(ゆい)結生(ゆうき)。かつてここで死んだピアニストです」

「そうですか」

 加瀬谷はなんとなく相槌を打って沈黙。チューニングハンマーの先に一緒に取り出した短い筒状の"チップ"をはめる。

 チップをはめたチューニングハンマーをピアノ内部のチューニングピンに当て、くるくるくる。いくつか回して。

「……死んだ、ピアニスト? 死、ん、だ……死んだ!?」

「反応遅っ!!」

 あまりもの時差に女性──由依が噴き出す。

「いや、今、ピンを回しながら言葉を咀嚼していたんですよ? 僕、何か一つだけに集中することができないんで、考え事と作業を同時に。あんまり笑わないでください! 僕のこれはそういう病気なんですっ!!」

 加瀬谷は恥ずかしくなって頬を赤らめる。由依がごめんごめんと口元を押さえて笑いを収めた。

「それで、死んでるって、幽霊なんですか? 貴女」

「そういうことになるわね。でなきゃ、裸足でステージになんて立たない」

 確かに、彼女は素足を晒していた。黒いワンピースと艶やかな黒髪のせいか、手足が白磁のように映え、モノトーンに見える。

 麗人。そんな言葉が加瀬谷の脳裏に浮かんだ。

「裸足でフットペダルを踏むのは、なかなかにきついものがありますからね」

 言葉は思考とは違うものを紡ぐ。だからなのか先程を除き、加瀬谷の台詞は一定して淡々と述べられている。

 加瀬谷の返答に由依は満足げにふふふっと笑った。

「貴方こそ、同業者じゃないのね。さっきの"幻想即興曲"、一音も間違えなかった」

「聞き苦しくありませんでした?」

 言いながら、手元はチューニングピンを回す作業を進める。

「あー……音はともかく、譜面なしで一音も間違えないのはかなり難しいと思うわ。あれ、ピアニストの登竜門みたいなところがあるけれど。そうじゃない人の前で弾くと尊敬されること間違いなし」

「へぇ、そうなんですか」

「興味なさそうね」

「いえいえ、そんなことは。ただ、自分は人に尊敬されたいとは思っていませんので」

 加瀬谷は続けて取り出したレンチをチップに当て、調整する。

「自分が人から尊敬されるような部類の人間でないことは重々承知していますから。蝋の羽根で太陽に飛ぶような真似はしません」

「イカロスね」

 寂しげに由依は加瀬谷の比喩のオリジナルを呟いた。

「私は、飛び立つのも勇気だと思うけれど。勇気はあるだけで立派だと思うわ」

「僕にはないから言うんです」

「悲しいことを言わないで」

 調整したチップで再びチューニングピンを回す加瀬谷は、泣きそうな声の由依に捕捉する。

「別に僕は、人生を悲観しているわけでも、自分を卑下しているわけでもありません。実際に僕が尊敬されたことがないから言うんです」

 並列回路性思考乖離症候群って聞いたことありますか? と加瀬谷は尋ねた。由依は首を傾げる。

 聞いたことありませんよね、と加瀬谷は軽く笑った。

「だって、それは世界で初めて、僕がかかった病気ですもの」

「病気?」

「そうです。僕は先程一つのことに集中することができないと言いました。それは気が散りやすいとか、集中力に欠けているとかそういう問題ではなく──頭の要領が大きすぎて、小さすぎる"たった一つの行動"をデータとして感知してくれないんですよ」

「何、それ」

「例えばですね……人の目を見て話を聞きなさい。子どもの頃によく親に言われましたよね。お説教のときとか。それは目と目を合わせて話を聞くことで相手がどれだけ真剣に話しているかを感じ取り、その話にのみ集中させたいという思いが込められた言葉です。残念ながら、僕にはそれができません」

 一通りの調整が終わったのか、チップを外し、チューニングハンマーをしまいながら加瀬谷は続ける。

「他にも、由依さんは音感持ちのようですからこの方がわかりますかね。僕は和音でしか音のずれを感知できない。単音でピッチをはかれる貴女が羨ましい、と。……単音だと、脳が判断を、処理をしてくれない。僕はそんなヘンテコな回路の持ち主なんです。もちろん、全てが上手くいかないわけではありません。証拠として、由依さん。このピアノで"幻想即興曲"のお手本、弾いてくれませんか?」

「いいけど、幽霊の私が物に触れられないとは思わないの?」

「ピアニストがピアノを弾けなければ、この世の終わりです」

 なかなか言ってくれる、と思いながら、由依はピアノ椅子を引き、高さを合わせて座った。試しに一音。ぽーん……とホール内に響いた。

 その反響が止むなり、由依は手を滑らす。激しくも滑らかに、静かながらも鋭く。由依の"幻想即興曲"が空気を震えさせる。

 先の加瀬谷に倣い、短くきりのいいところで終わらせた。余韻がすっとホールのいずこかに消えていくと、ぱちぱちぱち、と加瀬谷が手を叩いた。

「さすが本職。僕など足元にも及びません」

「冗談を。ピアノのピッチが完璧に戻っているからよ」

 由依の言葉に加瀬谷は満足げに微笑む。

「おかしいとは、思いませんか?」

「何が?」

「僕は調律中、一度も音の確認をしていないんですよ」

 はっと息を飲む。振り返ると、確かに彼はチューニングピンを回していただけ。

 金盥の落ちる灰色の曲が、それだけで一変した。荒れ狂う青嵐のように。激しい嵐だけれど、掴んだものを離さない。そんな吸引力を持つ音色に。

 それを、確認なしでというのがあり得ない事態だった。普通、調律師が音の精度を求めるなら、弾きながら調整するのだ。聴いて違和感があれば意味がないのだから。

 けれど加瀬谷はそれなしで、成し遂げた。

「僕の脳は情報量が多ければ多いほど作業効率が上がります。演奏しながら、どの音がずれているか、どのピンをどれくらい回せばピッチが合うか、チップをどれくらいに調整したらいいかまで同時進行で考えます。これが並列回路というやつです。演奏の出来を気にしているのに、演奏中はそんなことちっとも考えていない。それが思考乖離。ちぐはぐなのにちぐはぐなほど精度が高くなる。それが並列回路性思考乖離症候群です」

「素晴らしい才能じゃない」

 長い説明に対し、彼を称えた由依の言葉に加瀬谷はほろ苦く笑う。

「そう言ってくださると嬉しいです。けれど、世間一般が由依さんのような意見を持ってくれるわけではありません。……むしろ不気味がられた」

 由依は目を見開く。

「だから、貴女が"才能"と言ってくれる僕のこれは端から見れば、不気味な力……尊敬には繋がらないんですよ」

 かける言葉を見つけられずにいる由依の傍らに立ち、加瀬谷は整調を始める。鞄からただただ直線の棒を取り出して鍵盤に当てていく。

 何を考えているのだろうか。

 そうもやもやした思いを抱えながら、由依は加瀬谷の調律作業を見つめていた。




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