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 ぼんやりとだが、打撲音が止んでいることに気づく。うっすらと色づいた世界の中には、唖然と立ち尽くす六人の姿があった。

 何かを見ている……? その視線を追うと、六人に全てのそれがピアノの方に注がれていた。

 突然鳴り出したピアノに驚いたのかと思ったが。

「誰だ、この女」

「いつの間に?」

「うわぁん、ピアノの幽霊だ。怖いよぉ」

「そんな、まさか」

 半村、細軒、灯、紗菜絵のそれぞれが口にした言葉から考えるに、()()()()()

 彼女の名前を呟いた叶李ももちろん。

「由依結生」

 叶李がもう一度、奏者の名を呼ぶ。それに反応してか、彼女の指が止まった。

「お久しぶりです、あきさん」

「……ゆき」

 互いを渾名で呼ぶところが、旧知の間柄であることを漂わせる。

「また会えて嬉しいです、あきさん。さっきの"幻想即興曲"、素晴らしかったです。びりびりと肌を震わせるような鮮烈さ。今もまだ続けてらっしゃるんですか?」

「……い」

 朗らかに問いかける由依に叶李は拳を握りしめ、ぶるぶると震わせる。

「続けてらっしゃるのなら、もっと聴いてみたいです。さっき加瀬谷さんも弾いてらした"月光"なんてどうです? 素敵な曲ですよね」

 自分を殺した者に対しているとは思えないほど無邪気に由依は言葉を連ねる。

 他一同はきょとんとするばかりだ。加瀬谷の推理に叶李が白状した話では、由依結生という人物は叶李が毒を盛って殺害した人物のはずである。毒を盛られたことは当人も知っていて──

 そこで一同に理解が訪れる。よくよく考えれば、彼女は毒を盛った叶李を庇うため、完全な自殺を自ら演出したような人物だ。叶李がどれだけ憎んでいようと、彼女の中の叶李を慕う気持ちは変わってなどいないのかもしれない。

「私やっぱりムラがあるみたいで、安定していい演奏ができないんです。しばらく弾いてなかったら、随分腕が落ちちゃってたときは本当にどうしようかと思っていたんです。あきさんの腕は全然鈍っていないようで、何かしてるんですか?」

「うるさい!!」

 矢継ぎ早に放たれる由依の問いに叶李が怒鳴る。屈辱にまみれた憤怒の眼光が由依を射抜いた。

 由依ははっと口をつぐむ。目尻に滲むものがあるのを加瀬谷は捉えた。

 由依だって、わかってはいるのだ。これまでの話をずっと聞いていたのだから。叶李がどれほど自分を憎んでいたのか。

 それでも由依にとって叶李はよき友だったのだ。由依から叶李の話を聞いた加瀬谷は痛いほどその思いを感じ取っていた。

 けれど叶李にその思いが届く様子はない。

「うるさい、うるさい! 才能のある人間が、そんな風に下手に出るな! そんなだからあんたは嫌いだよ。大嫌いだよ。だから殺したんだ。あんたはあたしの計画をわざわざ自分で完成させてくれたじゃないか。そうとも、あんたは正真正銘"自殺"してくれた。それがあたしを恨むなんてこと、ありゃしないだろう? そう、あるわけがない。じゃあ、あんたはどうしてここにいるのさ!?」

 叫びきり、ぜいぜいと肩で息をする叶李。由依は言葉もなく、それを見つめた。

 叶李は黙って喋ろうとしない由依に苛立つ。

「何かお言いよ! 何か」

「言えるわけがないでしょう」

 口を挟んだのは、叶李よりも苦しげに肩で息をする加瀬谷だった。彼はよろよろと立ち上がりながら、叶李の正面に立ち、向き合う。

「貴女のせいだ、なんて。本当に、貴女を慕っている由依さんが、そんなことっ、口にできるわけ、ないでしょう」

「……何だって?」

 叶李の眉がぴくりと跳ねる。

「あたしのせい? 何がだい?」

「由依さんには心残りがあったんで、す……」

「加瀬谷!」

 ごほごほと咳き込んだ加瀬谷に由依は駆け寄る。ふわりと柚花梨や叶李をすり抜ける様に外野が一瞬どよめく。

 咳が落ち着くと、加瀬谷は由依でも叶李でもなく、ピアノを見た。

「コンサートは五日続く予定でした……けれど由依さんが死んだことによって、以降の予定は潰れたんです。叶李さん、貴女ならわかるでしょう? ピアニストがピアノを弾けなくなる苦しみが」

 加瀬谷の言葉に叶李は目を背け、黙り込む。

 加瀬谷は時折咳き込みながらもよたよたと歩を進める。ピアノの方へ。肩を貸してくれる由依を導くようにピアノの前へ送り、かたん、と倒れていた椅子を立て直す。

 肩にかけられた手をそっと払い、加瀬谷は由依にピアノを示した。由依はきょとんと加瀬谷を見つめ返し、小首を傾げる。

「由依さん、弾いてください」

 加瀬谷の提案に由依は一瞬目を見開き、それから静かに頷いた。

 椅子に腰掛け、位置を微調整しながら、「リクエストは?」と由依が問いかける。

「そうですね。もう"()"といってもいい時間ですから、ベートーベンの"月光"なんてどうでしょう?」

 "()"という部分を強調した加瀬谷にハイツの面々は顔を青くする。

「おい、加瀬谷、やめるんだ」

 震える声で半村が止めようとする。

 しかし、ピアノの周囲は既に二人だけの空間であるかのような雰囲気になっており、加瀬谷に応じた由依がしなやかな指を鍵盤の上に乗せる。

 慈雨を思わせるような、柔らかな調べがホールに染み渡る。淡く爽やかな色を灯した月光が、風のように頬を撫でていくような……そんな音色がホール全体を振動させた。

 加瀬谷はピアノの傍に崩れ、脚柱にもたれかかった。眩しすぎず、暗すぎず、ほどよい加減で紡がれる光の調べに耳を傾け、目を瞑る。

 他の面々はといえば、半村は絶望に染まりきった表情で、紗菜絵と灯は恐々とピアノを奏でる由依を見つめる。細軒は何を思ってか瞑目し、柚花梨は呆然とするあまり、ナイフを取り落としていた。からん、と地に落ちた音は演奏を妨げる雑音となることはなく、むしろ、演奏の一部として受け入れられるほどだった。

 普通ではあり得ないほどの包容力を持つ演奏。雑音すらも受け入れ、曲の一部としてしまう──それがピアニスト・由依結生の才。

 それを目の当たりにした叶李は。

 静かに崩れ、だん、と床を打つ。

 その音すら呑み込み、"月光"は流れ続けた。




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