き
「加瀬谷!!」
舞台袖から由依が飛び出す。他の面々が気づいている様子はない。
来てはいけない、と名前を呼ぼうとしたけれど、声ではないものが零れる。
視界が霞む。柚花梨が震えながら加瀬谷を見上げていた。その向こうで叶李が不敵に笑っている。
「さあ、笹木さん。これであんたもあたしらの仲間だよ。新しい二〇三号室の住人さ」
そう言って柚花梨を労う叶李。事前に何か打ち合わせていたのだろう、と頭の隅で勘づく。
けれど何故、柚花梨が……? それにハイツの仲間とは。
加瀬谷の中でこれまでの柚花梨がフラッシュバックする。そして、すぐに思い至った。
「柚花梨さん、貴女……富貴屋さんを、殺すつもり、ですね」
加瀬谷の掠れた囁きに柚花梨の肩が過剰な反応を示す。
富貴屋の態度と柚花梨にあたるような暴言の数々を見ていれば、なんとなく想像はついた。どうやら図星だったようだ。
柚花梨は富貴屋を殺したいと考え、どうやってかは知らないが、それがハイツの人間に知れたのだろう。そこでハイツの人間は彼女に協力を申し出た。"富貴屋への殺意は周囲にばらさないし、もし実行に移すならやりやすいように協力しよう。代わりにこちらが困ったときには協力してほしい"──といったところにちがいない。
柚花梨は今日、叶李たちが加瀬谷を待ち伏せているのを知っていた。それで様子を見にこっそりやってきたのだろう。もしかしたら前もって加瀬谷を殺すよう指示されていたのかもしれない。
その部分の真相など、加瀬谷にとってはどうでもいい。
見たところ、まだ彼女は"本命"には何もしていないようだ。ならば、それを止めなければ。
加瀬谷は喉に込み上げてくるものを飲み込み、静かに息を吐く。穏やかな眼差しを柚花梨に向け、語りかけた。
「柚花梨さん、手を離してください」
「え」
「なんなら、ナイフも抜いちゃっていいですよ」
柚花梨が絶句するのをよそに、加瀬谷は彼女の手に自分の手を重ね、ずず、とナイフを引いていく。激痛により手の感覚が麻痺しそうになるが、ゆっくり、ゆっくり、抜いていく。
ぼたぼたと傷口から血が溢れ出した。
それを見た柚花梨がひっと小さな悲鳴をもらす。
「血を見るのも怖いような人が、人殺しなんて考えないでください」
柚花梨は、刺されたのにあまりにも穏やかな瞳で語る加瀬谷に言葉を失う。
「貴女は富貴屋さんにただ苛立っているだけです。できない自分を貶されるのが不快。そんなの誰でも同じです。怒りを感じるのは当たり前でしょう。けれど、本当にその怒りはその人に向けていいものですか。貴女が富貴屋さんに叱られているところは、僕も何度か見ました。富貴屋さんの言い方は、確かにきつかったです。けれど、貴女は自分に全く非はないと言い切れますか? それは違うと思いますよ」
「あ、あなたに何が」
「何がわかるのか? わかりませんよ。僕は客観的な意見を述べているだけです。主観だけではどうしても偏った考え方になってしまいますから」
必死に柚花梨が繰り出した反論を加瀬谷はいともたやすく論破する。柚花梨はせめてもの抵抗と重ねたままの加瀬谷の手を振り払おうとするが、ぴくりともしない。
加瀬谷はその静かな眼差しで柚花梨を射ながら続ける。
「さあ、僕という第三者からの意見を聞いて貴女はどう判断しますか? やはり富貴屋さんを殺しますか?」
「あ……あ」
「柚花梨さん?」
その瞳に宿るのはただ問いかけの意。怒りも蔑みも憐れみもない瞳に柚花梨は惑う。
ぽたり、と水滴が床に弾ける音がした。柚花梨の瞳が揺れる──
「加瀬谷さん、そこまでにしてくださいな。そこまでです」
わざわざ二回繰り返し、言い放ったのは叶李だった。人のよさそうな笑みを貼りつけて歩み寄ってくる。
「新しいハイツの住人を責め立てなさるな? それとも勝手に二〇三号室追い出されたって拗ねとるんかね? 拗ねとるんね」
愉しげに笑う叶李。状況は全く笑い事ではないのだが。
じっとりと顔に滲んでくる脂汗。少し息も荒くなってきた。頭も朦朧としていて、加瀬谷は立っているのがやっとだ。
しかし、ここで引くわけにはいかない、と加瀬谷は口を開く。
「拗ねているわけではありませんよ。何せ僕は"死なない調律師"ですからね。死ぬわけにはいかないんです」
「おやおや、都市伝説のためで死ねないのかい? 死ねないんだね。可哀想に可哀想に。でも"死なない調律師"はいらない都市伝説だから」
「死んでもらいましょう!」
声高らかに叶李の台詞を継いだのは細軒だった。
「がっ」
細軒の革靴が加瀬谷の背中を打ち付ける。成す術なく倒れた加瀬谷に追って蹴りが入る。
「そういうわけだ。悪く思うなよ、弟弟子よ」
形成逆転ですっかり調子を取り戻したらしい半村がもはや虚ろになってきた加瀬谷を見下ろす。
げしげし、がしがし。ほとんどチンピラの喧嘩と変わらない音がホールを賑わせる。加瀬谷は呻き、されるがままで転がるしかなかった。
もう、目を開けているのか閉じているのかさえわからない。曖昧な意識。……ああ、幻聴で、ピアノの音色が聞こえてきた。ベートーベンの"月光"──
"月光"?
その曲が加瀬谷の意識を呼び戻す。"月光"は先程推理を語りながら加瀬谷自らが弾いていた曲である。だが、それ以上に。
意識が薄れたために研ぎ澄まされたのか、耳が様々な音を捉える。耳だけではなく、他のあらゆる感覚器官もだったかもしれない。
静謐な音色を紡ぎ出す指さばき、鍵盤を叩くときの優しい指の置き方、曲の要所要所をきめるために吸う呼吸音。その弾き方をする人物を加瀬谷は知っていた。
名を呼ぼうとするが、ひゅうひゅうと呼気が零れるだけで声にならない。
「由依、結生……」
代わりに奏者の名を読んだのは七十代らしい嗄れた声の叶李だった。




