さ
叶李が告げた名に、加瀬谷は目を細めた。舞台袖で見守る由依に目をやる。由依はやるせない表情で視線をそらしていた。
──由依は最初から知っていたのだ。
叶李は叫び続ける。
「由依は溢れんばかりの才能を秘めていた子だった。弱冠二十歳にして、"曽根崎春加の再来"という名を戴いたのだから。それは目の前で演奏を聴いたあたしが……嫌というくらいわかってるよ! 彼女はとてもいい子で、謙虚で、あたしの演奏を褒めてくれた。"叶李さんならきっと大丈夫ですよ"なんて励ましてくれたよ。でもねぇ……でもねぇ! それで、あの演奏なんて……勝てないじゃないか。何が"叶李さんならきっと大丈夫です"だ! あんな結果になるくらいなら、そんな気休めなんて欲しくなかった。それくらい、あの子はあたしに残酷な仕打ちをしたんだよ」
だから殺した、殺したんだよ。
叶李はいつものように二回、繰り返した。
ハイツの共犯者たちは憐れみの視線を送る。それは叶李の傷口を抉る効果しかないのだが、罪を犯し、隠した欠陥者たちがそれに気づくはずもなく。
加瀬谷は人知れず短い溜め息を吐き、静かに口を開く。
「貴女がしたのは、それだけじゃないでしょう?」
その言葉に、叶李は反応しない。
加瀬谷からすれば、ここからが本題だった。
「紫埜浦先生の日記によれば、ピアノ線は二本切られていたそうです。一本は半村さんが犯行に使ったもの。もう一本は叶李さん。貴女が由依さんを嵌めるために切った一本ですね?」
「……本当に名推理だよ、加瀬谷さん」
叶李はもう激情を吐露したからか、隠すつもりはないようだ。
ゆったりとした口調で語る。
「そうだよ。よりにもよってあの子につけられた渾名が"曽根崎春加の再来"だ。あたしは妬まずにはいられなかった。その名だけは失墜させてやろうと、ピアノ線を切ったのさ。あんたの言ったとおり、ピアノは繊細で、一音おかしくなるだけで他全部が吊られておかしくなる。そうすれば、演奏会は台無しになる。それを見て、溜飲を下げようと思っていたさ。思っていたとも」
「それって」
思わずといった感じで声を上げた紗菜絵を叶李は一睨みで黙らせる。
「逆恨み? 恥の上塗り? 何とでも言うといいさ。あたしは、あたしはね、そうでもしないと生きている心地がしなかったんだよ」
「貴女の心情なんか知りませんよ」
冷たい声がホールに響く。叶李の激情に染まりつつあった場が一瞬にして冷え渡る。
加瀬谷が声に違わぬ温度のない目を叶李に向けていた。
「貴女がしてはいけないことをしたというのはわざわざ言うまでもありません。そうせずにはいられなかった? そんなの貴女の勝手です。けれど、貴女のしたことが取り返しのつかないことであることだけは断言できます」
「人を殺したことかえ?」
「いいえ、違います」
加瀬谷ははっきりと宣告する。
「ピアノ線を切ったその瞬間に、貴女はピアニストとしての自分を殺してしまったのです」
叶李のみならず、その場の全員が息を飲む。
それは確かに、そのとおりだった。
個々の考え方に違いはあるだろうが、少なくとも、加瀬谷の考え方ならそういう結論になる。
ピアノを愛すべき職の人間が、ピアノを傷つけるなど。
「貴女にとって本当に重要だったのは罪を隠すことではなく、夢を抱いて努力していた過去の自分への贖罪です」
「……はははっ」
叶李は乾いた笑いをこぼす。やがてそれはホール中に轟く笑声となった。
乾いた笑みを貼りつけたままの顔で、加瀬谷を見る叶李。その表情には蔑みの色が含まれていたが、果たしてそれは本当に加瀬谷に向けられたものだったのだろうか。
「忌々しいよ」
呟くような声が言った。
「まさかここまでしっかり暴かれて、断罪されるとはねぇ。三十年間を、こうもあっさり無に帰してくれるとは。まあ、新しい都市伝説になってしまうような人だ。仕方ないのかねぇ」
叶李の言葉に誰も答えない。答える言葉を持ち合わせていなかった。
「まあ、それはそれでいいさね」
そんなことを呟いて、叶李はピアノに向き直る。
ゆっくりと鍵盤蓋を閉じた。これで演奏はおしまい、というように、とんとんと蓋を軽く叩く。
ざしゅ
それは、一瞬の出来事だった。叶李以外の全員に衝撃が走る。
今回ばかりは加瀬谷も例に漏れなかった。
何故ならその音で刺されたのは、彼だったのだから。
胸に刺さったナイフ。じわりと服に滲む赤。
何よりも加瀬谷が驚愕したのは、そのナイフの柄を握る人物だった。
「ゆ、かり……さん?」
震える手でナイフを握りしめていたのはショートカットの受付嬢・笹木柚花梨──
呆気に取られる加瀬谷に、柚花梨の向こう側で叶李がにぃっと口元を歪めた。
「謎を解かれようと、別にかまやしないよ。"死人に口無し"だからねぇ」




