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 曽根崎春加。

 世紀のピアニストと謳われた彼女に姉がいたとは。

 細軒と半村一家の四人は驚きの視線を叶李に送る。

 叶李はにこにこと加瀬谷を見つめていた。にこにこにこにこ、いつもの人懐っこい笑みだが、その表情はどこか固い。

 けれど叶李は惚けたように加瀬谷に問う。

「加瀬谷さん? 加瀬谷さんは何故あたしを"曽根崎春加"さんの姉だなんて言うんでしょ。言うんでしょうねぇ?」

「役所に確認したんですよ。改名というのはなかなかできませんからね。あのハイツの二〇一号室に住んでいる人の苗字だけ教えてもらったんです。表札が出ていないのでね。"叶李さんという方のはずをが"と確認したら、首を傾げられました」

「よくよくまあまあ、そんなことまで調べるわね。でも、曽根崎なんてそんな珍しい苗字でもないでしょう?」

 叶李の指摘に加瀬谷は苦笑いする。

「そうなんですよね。こればっかりは僕の勘なんですが」

 苦笑いのまま、続ける。

「曽根崎"春"加さんと曽根崎"秋"子さん。わりと単純な言葉遊びだと思うんです。家族と決めつけるにはいまいち足りない根拠だと僕も考えています。

 けれど、貴女が曽根崎春加の姉であるなら、わざわざ苗字を変えて"叶李"などと名乗っていることに説明がつくんです」

「説明? 説明って、理由がわかるってのかえ? わかるのかえ?」

「ええ」

 しっかりと首肯し、加瀬谷はすっと手でピアノを示す。真っ直ぐ叶李を見据えた。

「叶李さん、ピアノを弾いてください」

「何を言うかえ? こんな七十のばあさんにこげなはいからなもん弾けるかね」

「あら、それは残念ですね」

 加瀬谷は軽く肩を竦める。

「貴女が望んでやまなかった"貴女のものになるはずだった"ピアノなのに」

 びくん、と叶李の肩が跳ねる。

「曽根崎春加の遺品とも言えるこの品。遺族は引き取らず、コンサートホール設立の際に寄贈されました。貴女がそれを知ったのは、寄贈されてから。このコンサートホールが建った直後、演奏会のピアニスト募集の告知に書いてあったのを見て、でしょう。事務の方に無理を言ってそのときの広告を見せてもらいましたから、間違いありません。"あの曽根崎春加のピアノに触れられる! この機会を逃すことなかれ"という文句が小さく書かれていました。

 家族である貴女が何故それを知らなかったのかは想像しかできませんが……貴女はある理由で家族から疎外されていた。おそらく、ピアノ絡みでしょう。貴女がピアニストを志して、名前を変えざるを得なかった理由もそこに含まれているんじゃないでしょうか。

 とにもかくにも、貴女は妹のピアノが勝手に寄贈されたことが許せなかった。妹のピアノがどうしても欲しかった。もしくは弾きたかった。となれば当然、貴女はオーディションに出るわけです」

 加瀬谷は叶李から視線を外し、ピアノの前に立つ。数秒、鍵盤を見つめてから、ピアノ椅子に腰掛けた。

 白く細い指が鍵盤に触れる。緩やかに流れ始めたのはベートーベンの"月光"。

 その仄暗い音色に交え、加瀬谷は言葉を次ぐ。

「オーディションに出て、そこで貴女は彼女──あの事件の被害者に出会いました。彼女と貴女は意気投合した。しかし同時に貴女は彼女の才能に嫉妬していた。

 彼女も貴女も最終選考に残り、貴女にとって運命の日がやってくる。

 最終オーディションで彼女の演奏を聴き、貴女は決めた。──彼女を殺すことを」

 そう宣言した加瀬谷に。

 がっ

 ピアノが不協和音を鳴らして止む。

 叶李がピアノ椅子から加瀬谷を突き飛ばしたのだ。

 がたんっ。ピアノ椅子の倒れる音が重く響いた。

 叶李は倒れた加瀬谷を一瞥することなく、一心不乱に鍵盤を叩いた。

 流れ出すのは激しく地面を叩きつける豪雨のような"幻想即興曲"。殴りつけるような演奏が鼓膜を乱雑に叩いていく。

 激情のままのその演奏に他の四人は顔をしかめた。だが、その迫力に気圧されて、耳を塞ぐことはしなかった。

 加瀬谷は静かにその背中を見上げる。

 小さな背中が燃え立つような熱を帯びて震えていた。

「あんたに……あんたに、何がわかるっていうのさね? 何がわかるのさ!?」

 最後の音から手を離さずに叶李が声を絞り出す。

「お前には才能がないからと決めつけられ、なのに妹は恵まれた環境で育ち、あたしより後から始めたくせに、あれだけ、あれだけ、名を馳せて! 妹ばかり! あたしゃ、あたしゃね、ピアノが欲しかったんだよ。ピアノが欲しかった。けれど親には断られた。習い事できるだけで充分でしょう、と。でも、それでも、ピアニストになりたくて、だけど言っても耳すら貸してくれなかった親が、あの子には買ったんだぞ! あたしはピアニストになるという夢のために家を追い出された、その次の年の出来事だ。やりきれるかい、これが? それでもあたしゃ耐えてきた。耐えてきたんだよ。あの日までは」

「あの日……彼女を殺した日ですか?」

 加瀬谷の問いに叶李は小さく首を振る。

「春加の葬式の日だよ。加瀬谷さん、あんたの推理はそこだけ間違ってる。後はまるで見てきたようさ。

 あたしは葬式のときに、ピアノを引き取りたいと言ったんだ。そしたら、なんて返ってきたと思う?」

「まさか」

 加瀬谷はピアノを見る。──曽根崎春加が死んだのは、ちょうど三十年ほど前のことである。

「そのまさかさ。ああ、あたしもまさかと思ったよ。もう既にこのコンサートホールの建造が決まっていて、そこに寄贈することにした。寄贈を取り止めさせるなら、相応の額を支払え、とねぇ。

 あたしには払えない金額だった。諦めるしかなかった。でもしばらくして、あの募集を知ったんだよ。飛びつかないわけない。どうにかピアノに辿り着きたかった。必死の思いであたしは最終選考まで残ったんだ。なのに、なのに……!」

 叶李は震える声で続けた。

「あたしは彼女の演奏を聴いて、絶望するしかなかった。オーディションに受かった無名のピアニスト──由依結生の演奏に!!」




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