え
「三十年前の事件って、ピアニストの事件ですか? あれは自殺だったのでは」
紗菜絵が加瀬谷の発言に目を丸くする。灯はよくわかっていないらしく、首をひねっていた。
おそらく、ハイツ全体で共犯関係を築いているといっても、事件の全ての情報が全員に行き届いているわけではないようだ。その証拠に半村もわかっていないようだが、細軒だくは目を細め、険しい顔をしていた。
指された当の本人・叶李は肯定も否定もせず、加瀬谷をじっと見つめていた。
「三十年前の事件は有名です。この春加記念コンサートホールが開かれた記念にと開催された演奏会の主演を務めた無名ピアニストが公演一日目の夜に死んだというお話です。ここまでなら、半村さんたちも知っていますよね」
「ああ。確か、服毒自殺だとか」
「不思議だとは思いませんか?」
加瀬谷の不意の問いかけに一同がきょとんとする。代表して細軒が「何がです?」と聞き返した。
「現場はこのホールで、死んだのは無名の新人ピアニストで死因は服毒自殺。そこまでわかっているのに頑ななまでに不明の"ピアニストの名前"があります。いくら自殺だったから、個人情報の保護だからといっても、あれだけ話題になったニュースで亡くなった方の名前が現れないのは不可思議です。細軒さんすら知らされていないでしょう。叶李さんが葬った過去を」
細軒は答えず、ただ叶李の方に振り向く。しかし、叶李は全く答えない。
加瀬谷は淡々と続ける。
「まず、その人物はプロアマ問わずに募集されたピアニストの中からたった一人選ばれました。その方が選ばれた背景にどんなものがあったか詳しくは知りません。紫埜浦先生がかつてツテを使って調べたところ、その方が持っていた才能が評価されたそうです。才能といっても、場合によっては審査員の誰にも気づかれなかったかもしれない才能──演奏技能のオーディションで、その方はベートーベンの"月光"を弾きました。三回、です」
「……は?」
半村が思わずといった体で声を上げる。他の者の思いも同様だっただろう。あんぐりと口を開け、加瀬谷の続きの説明を待つ。
ただ一人、叶李だけは無表情のまま聞いていた。
「その方の演奏は三回が三回とも、雰囲気の全く違う演奏だったそうです。聴くものを飽きさせない……三パターンの美しい月光を審査員たちに見せたのです。
これは見方によっては才能というより偶然と言われるでしょう。それでもそのときの審査員たちは才能ととった。それがそのピアニストを"曽根崎春加の再来"と謳わせたものだったのです」
叶李以外が感心する中、犯人と言われた叶李が少し惚けた表情でようやく口を開く。
「そのピアニスト、奏者さんのことはわかったね、わかったさ。それでそれで、何がどうなってあたしが犯人に、犯人になんてなるのかえ?」
「それは今から説明しますよ。けれどそれにはまず、そのピアニストさんの死に際について話さなければなりません」
「死に際? そんなことが君にわかるのかい?」
半村一家よりは落ち着いているようだが、細軒が虚を衝かれたように問う。すぐにトリックの説明が始まると思っていたのだろう。
しかしこの事件はここが一番大事なのだ。犯人よりも犯行手口よりも──
「この事件で重要なのは、どうして殺人のはずの事件が、自殺と断定されたか、です」
「なるほど。確かにあの事件が自殺でなかったら、今の都市伝説は生まれなかったでしょうからね」
都市伝説のおかげで罪を逃れてきた細軒が納得したように呟くが、それは違う。
まあ、細軒の言うように三十年前の事件が"殺人"と報道されていたら、"ピアノの幽霊"という噂は生まれなかったかもしれない。けれど、そんな都市伝説を生むために犯行が行われたのだろうか?
それは、違うのだ。
"都市伝説"の恩恵に授かり、犯罪を隠す。元々"都市伝説"があるのなら、それは可能だろう。細軒や半村のように。
しかし、三十年前にはまだ"都市伝説"は存在しない。
生まれるかもわからない"都市伝説"を作るために自殺に見せかけた殺人を行う──そんな回りくどい八割方賭けのような犯行をするくらいなら、他にいくらでも隠蔽の方法はある。
例えば、死体を隠すとか。
例えば──
「被害者には犯行に気づくほどの間が与えられていました。何故なら毒物は遅効性のもので、死に至るまでにかなりの時間があれば、その間にアリバイを作ることが可能になります。
後は睡眠薬を飲ませてどこかに閉じ込めておくもよし、知り合いならば、連絡を取って後で待ち合わせ、そこからさりげなさを装って抵抗力を奪うもよし、そのまま放置して死んでしまった時間に完璧なアリバイを作っておくもよし。細工をするにも色々手はあります。遅効性の毒というと、効くまでの時間がかっちり決まっているわけではないので、服用時刻も曖昧な判定になりますからね」
「なるほどなるほど、さすが加瀬谷さんねぇ、加瀬谷さん。若い人は頭が回って羨ましいわぁ、本当に本当に」
叶李がにこにこと感嘆する。加瀬谷はにこにこと恐縮した。
「いえいえ。三十年前なら貴女も充分若かったでしょう? 叶李秋子さん」
「あらま、そう言われると嬉しいわぁ、嬉しいねぇ。でも三十年前って言ったら、四十そこそこのおばさんよぉ、おばさん。恥ずかしいわぁ」
おだてても何も出ないわよ、と叶李が宣う。それは困りましたねぇ、などと加瀬谷は冗談めかして返した。
「とまあ、犯罪計画は毒物を件のピアニストに飲ませたところまでは順調だったんですけどね、予想外のことが起こってしまったんですよ」
「ほうほう、してして?」
「待ち合わせしたその人は犯人のところに来なかったんです。"急用ができたので、間に合わなくなった"と連絡したのでしょう。食事の約束でもしていて、"誰か他の人を誘って"なんて言ったかもしれませんね。まるで自分のアリバイ作りを手助けするかのような連絡でしたが、犯人にしてみれば、渡りに舟だったでしょう。予定は少々狂いましたが、その時間から完璧なアリバイを作りました。翌朝被害者が発見されるそのときまでしっかりと、ね」
「ふんふん、それのどこが悪かったのかねぇ」
相槌を打った叶李に加瀬谷は微笑む。
「何も犯人にとって悪いことはありませんでしたよ? 証拠は一切残っておらず、こともあろうに被害者自筆の遺書まであったんです。
世はこれを自殺以外の何物でもないと断定し、すぐに片付けてしまいました。完全犯罪が成されたのです。
何も不利益はありませんでしたが、犯人は戸惑ったはずですよ。あまりにも完璧すぎて。消し忘れたと思っていた証拠までしっかり隠滅されていて」
加瀬谷の発言に叶李はおやおやと目を丸くする。
「では証拠の完全な隠滅は誰が? ──答えはとても単純です。
被害者は犯人が自分を毒殺しようとしているのに気づき、犯人を守るために、しっかり自殺に見えるよう、遺書の作成、証拠の隠滅などをこなしたのです」
「まあ! 彼女は何故そんなことを?」
叶李が小首を傾げて尋ねる。
すると加瀬谷の顔に満面の笑みが閃いた。
「かかりましたね」




