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 何だったのだろう?

 バスに揺られながら、加瀬谷は考えた。

 春加記念コンサートホールに仕事に行く、と言った加瀬谷を見て、半村は怯えているようだった。口では何も言わなかったが、紗菜絵も灯も同じような反応を示していた。

 あのコンサートホールに何かあっただろうか、と加瀬谷は思考を巡らす。

 思い出すのは仕事が回ってきたときの説明。


「籠沢市の春加記念コンサートホールの専任ピアノ調律師にお前さんが任命された」

「専任、ですか?」

 そのときは驚いたものだ。まだ二十代前半の加瀬谷は調律師としていくつかの依頼をこなしてきたが、どれも専属の調律師が体調を崩したときなどの代打だった。

 仕事に対して加瀬谷に不満はない。むしろ仕事がくることに感謝しているくらいだ。

 並列回路性思考乖離症候群という障害を持つ加瀬谷は"障害持ち"というだけで敬遠される。実のところは大した障害ではないのだが、他に症例がない病であるため、なかなか理解を得られない。

 そんな自分に仕事が回ってくるだけでも充分にありがたいことだ、と加瀬谷は割り切り、いつも丁寧に仕事をする。

 しかし、どんなに丁寧だったとはいえ、加瀬谷の実績はさほどない。そんなところに突如専任調律の依頼である。加瀬谷は驚いた。

 春加記念コンサートホール。加瀬谷は建物の名前や地名などを覚えるのは苦手だが、そのコンサートホールの名前は知っていた。

 何しろ世界的天才ピアニストと謳われたあの曽根崎春加のコンサートホールだ。曽根崎春加が世を去ってからもその人気が揺らぐことはなく、今もCDやレコードまでもが聴かれるほど。知らない者の方が少ない。

 春加コンサートホールは度々世間で騒がれたし、そこを会場に演奏会を開く有名楽団は多い。そんな大きなところに何故自分などが? と加瀬谷は思わずにはいられなかった。

「あのコンサートホールは曰く付きでな。誰も行こうとはしないんだ。でもピアノの調子がしょっちゅう悪くなるらしくて。紫埜浦先生がお元気な頃は専任でそこを見ていたらしい。紫埜浦先生、病気で急死だったもんだから、後任とか決まってなくてな。でも、先生はこうなることを予想してか春加コンサートホールだけは弟子のお前に任せるよう、書き残していたんだ。他の調律師も尋ねてみたが、誰も首を縦に振らない。というわけで加瀬谷、頼まれてくれ」

「わかりました」

 元々加瀬谷は自分のところにあまり仕事が回ってこないことを知っていたから、来た仕事は断らないことに決めていた。奇妙に思うことはあったが、それは断る理由になどならない。


 かくして、近くの賃貸に引っ越したわけだが。

 バスが停車する。調律道具の入った鞄を持って降りていく。バス停の名前は"春加記念コンサートホール前"とわかりやすい。

 降りていくとき、乗客が何やらざわめいていた。

「うわ、ここが呪われたコンサートホールか」

「幽霊が住んでて、夜にピアノに近づくやつを殺しちゃうんだろ?」

「怖いよね~」

「幽霊って曽根崎春加かなぁ?」

「曽根崎春加なら会ってみたいかも!」

 耳を澄ませば、そんな言葉がわやわやと交わされていた。

 ここで降りる加瀬谷にも好奇心が向いているらしい。

「職員さんかな?」

「演奏者には見えない」

「あの鞄何だろう?」

 少し気になったが、運転手にお金を払い、さくさく降りた。


 表玄関を入ると広々としたロビーがあり、その奥に施設案内所がある。

「こんにちは」

 灰色のコンクリートで囲まれた中をすたすた抜けて、加瀬谷は案内所に声をかけた。

「はい、どうなさいました?」

 すぐにショートカットの受付嬢が応じる。

「ここのホールのピアノ調律師になりました、加瀬谷縁と申します。ご挨拶に伺いましたのと、早速ピアノの調律を行おうかと思いまして」

「あ、加瀬谷さまですね。少々お待ちください」

 受付嬢が少し驚いた顔をしながら奥に引っ込んでいく。胸元につけた名札に平仮名で"ゆかり"と書いてあったから、同じ名前で驚いたのかもしれない。

 ほどなくして、受付嬢が壮年の男性を連れて戻ってくる。黒いスーツに紺のネクタイのシンプルな格好だが、ネクタイが少し緩んでいるし、曲がっている。ずぼらな人なのかもしれない。加瀬谷はそんな風に見定めながら、ぺこりと頭を下げた。

「はじめまして。調律師の加瀬谷縁と申します。紫埜浦夜嘉多先生の後任として参りました」

「館長の富貴屋(ふきや)礼司(れいじ)です。紫埜浦先生には大変お世話になりました。お弟子さんですか?」

「はい、まあ」

「なんとなんと! では安心ですね」

 どことなく笑顔が嘘臭くて胡散臭い雰囲気だが、それを表に出さぬようにしながら「安心?」と聞き返す。

「はい。このコンサートホールのピアノは少々厄介で、"調律師泣かせ"とその業界では呼ばれるくらい、我が儘……よくよく音の狂うピアノなんです」

 加瀬谷は師匠のメモを思い出す。確かに春加コンサートホールのピアノは手強いと書いてあった気がする。

 我が儘という表現に対して何も感じなかったわけではないが、いちいち感情をぶつけても仕方ないだろうと割り切り、加瀬谷は案内を始めた富貴屋と受付嬢の後に続いた。

「一日にいっぺんは調律しないとすぐに音調を崩しましてね。耳の敏感な方々からはもん……親切なご指摘の数々をいただきまして。ですので、ここ専任の調律師には毎日通ってもらうようにしているんです。先生が亡くなられてからここ数日は大変でしたよ」

「ああ、それについては申し訳ございません。先生が急死だったため、後任がなかなか決まらず。僕に決まったはいいものの、引っ越しやら何やらで手間取ってしまい、伺うのが遅くなってしまいました」

「いえ、いいんですがね」

 嫌味ったらしく言う富貴屋に加瀬谷は誠意をもって謝る。特に感情が荒立つことはない。そんな加瀬谷の代わりと言わんばかりに受付嬢の背から苛立ちが吹き出していた。

「こちらです」

 先に立った受付嬢が、扉を開ける。その先には広いホールがあった。二階もあるため収容人数はかなりのものだろう。そのホールの向こう側、ステージの真ん中にぽつんと黒い光沢を放つピアノが佇んでいた。

「あれが」

「あまり知られていませんが、あれは曽根崎春加が幼少から触れていた彼女の家のピアノなのですよ」

「こら、笹木クン、無闇に話してはいけないと言っただろう」

「も、申し訳ございません!」

 自慢げに説明した受付嬢──笹木というらしい──を富貴屋が睨む。まあまあ、と宥めつつも、加瀬谷の目はピアノに惹き付けられていた。

 曽根崎春加が幼少から使っていたということは、かなりの年数が経っているはず。にも関わらず、色褪せや年月を感じさせない輝きがそこにあった。その存在感に加瀬谷は圧倒される。

「外で言いふらさない方がいいということでしたら、ご安心ください。僕はこれでも口は堅い方です」

 富貴屋の視線に完全に萎縮してしまった笹木を援護して加瀬谷は言った。富貴屋の高圧的な態度への苛立ちは一切なく、話しながらももう彼の頭の中はピアノのことしかない。

 あのピアノはどんな音を奏でるのだろう? どんな人に奏でられてきたのだろう?

 どんなものを見せてくれるのだろう?

 加瀬谷の中にはそんな想像ばかりが膨らんでいた。

「明日、午後から公演が一つ入っていますので、できれば早速調律を」

「はい。是非!」

 加瀬谷は喜び勇んでステージの方へ向かった。




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