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夜、といってもまだ薄明るい午後七時前。
加瀬谷は電車の時間があるので早々帰ろうとしたのだが。
「あ! でっかいお兄ちゃんだ!」
そんな無邪気な声に引き留められる。振り向くと、半村の息子・灯が現れる。
「おや? 演奏会はとっくに終わったのに。こんばんは、灯くん」
「こんばんはー!」
灯の元気な挨拶に加瀬谷はにっこりと微笑む。
「お父さんとお母さんは?」
「んとね、今日はみんなでたまたま一緒に来たからね、お兄ちゃんとお話ししたいなーって探してたんだ。ホールにいるよ」
「みんな? お父さんとお母さんの他にも誰かいるの?」
加瀬谷の何気ない問いに灯が一瞬しまった、というような表情を閃かせる。
加瀬谷はそれに気づいているのかいないのか、「ハイツの人かな」などと口にした。少し迷ったのち、灯は素直に頷いた。
「そう。確かに例の事件以来、会ってないからね。僕もちょっとお話ししたいなぁって思っていたのでちょうどよかったです。皆さんどこにいるんですか?」
「こっちだよ」
灯は加瀬谷をホールの方へ先導した。
ホールの中には人の姿は見当たらなかった。演奏会は五時には終わって客はほとんど帰っているはずなのだから当たり前だ。
灯が案内してきたのだから、当然"みんな"はいるはずなのだが。
加瀬谷は溜め息を一つ、よく通る声で言う。
「皆さん、何故舞台袖になんて隠れているんです?」
「っ!!」
隣にいた灯が驚愕する。おやおや、と袖から声がした。
「加瀬谷さん加瀬谷さん、どうしてわかったの? ねぇ、どうして?」
独特な言い回しで叶李がひょっこり姿を現す。続いて半村や紗菜絵、細軒も出てきた。
加瀬谷はステージに近づいていきながら、叶李の問いに答える。
「叶李さんの服がちらっと見えたんです。かくれんぼならもう少し上手く隠れてくださいよ」
冗談っぽく笑って言った。その答えに叶李は、あらあらと声を上げて自分の服の裾を引っ張る。
「よく気づきましたね」
細軒が感心した風に言う。その顔は少し苦笑気味だった。
加瀬谷も苦笑で答える。
「完璧主義でも神経質でもないつもりですが、僕はどうやら細かいことが気になる質のようでして」
それは本当のことであるが、叶李たちを見つけられた理由は別にあった。
「ちょっと驚かそうと思ってたんだけどなぁ。やっぱり加瀬谷には敵わないなぁ」
「そうだったんですか? それは悪いことをしました」
半村が頭をぽりぽりと掻いて告げるのに、加瀬谷は天然なのかそんな言葉を返す。見ていた細軒が苦いものを深めた。
たんたんたん。加瀬谷はステージへ続く階段を上り、ピアノの脇に立つ。ピアノを労るように手を置くと、加瀬谷は切り出す。
「そういえば、僕と話したいって聞きましたが、何かありましたか?」
何か──暗にハイツの事件に進展があったか問いかける加瀬谷の意図を汲み取り、全員が首を横に振る。その動きは見事にユニゾンしていた。
「何事もはないけどね、ないんだけども、ほら、二〇三から出て、どうしてるかなぁってみんな気になってたわけよ。ねぇ? みんな気にしてたよねぇ」
叶李の台詞に五人が頷く。またしてもユニゾン。
皆さん仲がよろしいんですね、と加瀬谷は笑った。
「ご心配いただいてありがとうございます。僕は今は卯月町の師匠の家で過ごしています」
「紫埜浦さんちか」
半村が反応する。
加瀬谷は軽く手を握りしめ、にこやかにはいと応じる。
「そうだ、半村さん、今度線香つけにいらっしゃいませんか? 箕舟さんもきっと喜びます」
加瀬谷の投げた不意の変化球に半村がぎょっとする。
「いいのか?」
思わずといった体で半村が聞き返すと、加瀬谷はもちろんと頷いた。
「半村さんは元とはいえ師匠の弟子なんですから」
にこやかな加瀬谷の表情に悪意は見当たらないのだが、半村にはその言葉が皮肉に聞こえてならなかった。
「皮肉ですよ」
そんな半村の心中を読んだかのように加瀬谷が告げる。驚いて半村の肩がびくんと跳ねた。
「お察しのとおり、さっきのは半村さんへの皮肉です。師匠に嫌われて弟子を辞めざるを得なかった半村さんへの」
「かせ、がい……?」
朗らかな声とは裏腹な内容を告げる加瀬谷に半村は絶句する。
「あ、あなた?」
「紗菜絵さん、貴女にも……いいえ、今ここにいる全員に僕からお話ししたいことがあります。心して聞いてくださいね?」
その場の全員がぎくりと固まる。
加瀬谷は固い笑顔のまま高らかに告げた。
「貴方たちは、罪人なのですから」




